↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神影の暦術師  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/23

第18話 削除された声

 翌朝、ホーコンは北側外周へ測量鎖を伸ばした。


 黒い裂け目は、昨夜より二歩ぶん広がっている。


 アズが白線を引き直し、ルアヴエルが計時器を据えた。クリストエインは体操着の胸札と縫い目を一つずつ確かめる。


 「昨日と同じ。破れなし。暦座標も出てない」


 「入ります」


 「十分で帰還開始」


 アズが念を押した。


 「十一分を確かめに行くんじゃない。中を見て戻るために入る」


 「分かっています」


 腰には測量鎖の細い補助索を結んだ。外側ではルアヴエルが握る。八分で一度、十分で二度引く。鐘が届かなくても分かるようにした。


 クリストエインがホーコンの胸元を見た。


 「何か見つけても、一人で決めないで」


 「はい」


 「今の返事、記録したいくらい珍しい」


 軽口だったが、目は笑っていない。


 鐘が一回鳴った。


 ホーコンは影へ踏み込んだ。


     *


 暗い、とは違った。


 光がないのではない。

 距離がない。


 一歩進んでも地面の感触が変わらず、振り返っても入口が遠ざからない。白い体操着の袖だけが、自分の身体の位置を教えていた。


 ホーコンは測量鎖を指でたどる。


 張力はある。

 外側とはまだつながっている。


 その時、声がした。


 『圧力、第三管まで低下!』


 右でも左でもない。


 『七〇四、ここにいる!』


 『七〇五、応答!』


 『火を止めろ、油槽へ回すな!』


 一つの声ではない。


 重なっている。


 男。女。若い声。しゃがれた声。


 ホーコンは息を止めた。


 白蝶平原の石碑で写した職員番号が、声の中に次々と現れる。


 七〇四。

 七〇五。

 六八九。

 八〇一。


 百八十七名。


 消された者たちの最後のやり取りが、日付を失った空間へ残っている。


 ホーコンは野帳を開こうとしてやめた。


 紙を見ている時間が惜しい。

 聞く。

 覚える。

 戻って全員へ話す。


 声が急に途切れた。


 代わりに、硬い男の声が響く。


 『暦法院中央命令。北部第七採掘区、事故発生日より十三日分を閉鎖対象とする』


 ホーコンの足が止まる。


 『該当期間の勤務記録、入退場記録、死亡記録、生存記録を王国暦本体から切り離す。現地記録は封印。照合を禁ずる』


 命令文だった。


 事故で自然に欠けたのではない。


 誰かが、十三日分を閉じると決めた。


 別の声が割り込んだ。


 『待ってくれ!』


 男の声。


 近い。


 『全員を閉じるなら俺も入れろ。だが娘の記録だけは閉じるな!』


 ホーコンは顔を上げた。


 『クリストエインはまだ死んでいない! 生存にも死亡にも入れるな。閉じたら、あの子は戻る場所を失う!』


 胸の奥が冷えた。


 クリストエイン。


 声は続く。


 『頼む。娘の記録だけは閉じるな!』


 その直後、百八十七人分の声が一斉に崩れた。


 言葉が逆向きに流れ、名前が音から剥がれていく。


 腰の索が一度、強く引かれた。


 八分。


 ホーコンは入口へ向きを変えた。


 だが、背後から別の声が聞こえた。


 『七一二――』


 足が止まりかける。


 続きを聞けば、クリストエインに何が起きたのか分かるかもしれない。


 索がもう一度、短く震えた。


 ホーコンは進んだ。


 今は戻る。


 自分だけで答えを取りに行かない。


 二度、大きく索が引かれた。


 十分。


 黒い境界へ身体を押し込む。


     *


 「戻った!」


 アズの声と同時に、両腕をつかまれた。


 白線の内側へ引き倒される。


 ルアヴエルが計時器を見た。


 「十分二十二秒。十一分未満」


 クリストエインが体操着を脱がせる。


 「名前は?」


 「ホーコン」


 「私の名前」


 「クリストエイン」


 彼女は短く息を吐いた。


 ホーコンは起き上がった。


 いつもなら、先に野帳へ整理していた。

 確証と推測を分け、自分の中で形にしてから話す。


 だが今回は違う。


 「全員、聞いてください」


 アズ、ルアヴエル、クリストエイン、ルグエ、ブレントが集まる。


 ホーコンは聞いた順番のまま話した。


 百八十七名の声。

 職員番号。

 暦法院中央命令。

 十三日分の勤務、生存、死亡記録を王国暦から切り離せという命令。


 そして最後に、ためらわず続けた。


 「クリストエイン。あなたの父親と思われる男性の声がありました」


 彼女の表情が止まる。


 「何て?」


 「『娘の記録だけは閉じるな』と。あなたはまだ死んでいない、生存にも死亡にも入れるな、閉じれば戻る場所を失う、と」


 長い沈黙。


 ルグエが目を伏せた。


 クリストエインは彼を見るより先に、ホーコンへ尋ねた。


 「それで、あなたは?」


 「続きを聞ける可能性がありました。でも十分になったので戻りました」


 「一人で残らなかった?」


 「はい」


 「一人で秘密にもしてない?」


 「はい」


 クリストエインは一度だけ頷いた。


 「なら、それでいい」


 ブレントが紙を広げた。


 「これは記録に残します。暦法院の命令が存在したこと自体が、事故ではなく処理だった証拠になる」


 ルアヴエルも頷く。


 「軍の記録にも写しを置く。三系統に分ければ消されにくい」


 ホーコンは野帳を開いた。


 最初の一行に書く。


 『十三日分は事故で消えたのではない。暦法院の命令で閉鎖された』


 その下へ、もう一行。


 『クリストエインの記録は、父親が意図して未確定のまま残すよう求めた』


 黒い影の向こうでは、まだ声が残っている。


 だが今度は、その声をホーコン一人の記憶にはしなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。