第18話 削除された声
翌朝、ホーコンは北側外周へ測量鎖を伸ばした。
黒い裂け目は、昨夜より二歩ぶん広がっている。
アズが白線を引き直し、ルアヴエルが計時器を据えた。クリストエインは体操着の胸札と縫い目を一つずつ確かめる。
「昨日と同じ。破れなし。暦座標も出てない」
「入ります」
「十分で帰還開始」
アズが念を押した。
「十一分を確かめに行くんじゃない。中を見て戻るために入る」
「分かっています」
腰には測量鎖の細い補助索を結んだ。外側ではルアヴエルが握る。八分で一度、十分で二度引く。鐘が届かなくても分かるようにした。
クリストエインがホーコンの胸元を見た。
「何か見つけても、一人で決めないで」
「はい」
「今の返事、記録したいくらい珍しい」
軽口だったが、目は笑っていない。
鐘が一回鳴った。
ホーコンは影へ踏み込んだ。
*
暗い、とは違った。
光がないのではない。
距離がない。
一歩進んでも地面の感触が変わらず、振り返っても入口が遠ざからない。白い体操着の袖だけが、自分の身体の位置を教えていた。
ホーコンは測量鎖を指でたどる。
張力はある。
外側とはまだつながっている。
その時、声がした。
『圧力、第三管まで低下!』
右でも左でもない。
『七〇四、ここにいる!』
『七〇五、応答!』
『火を止めろ、油槽へ回すな!』
一つの声ではない。
重なっている。
男。女。若い声。しゃがれた声。
ホーコンは息を止めた。
白蝶平原の石碑で写した職員番号が、声の中に次々と現れる。
七〇四。
七〇五。
六八九。
八〇一。
百八十七名。
消された者たちの最後のやり取りが、日付を失った空間へ残っている。
ホーコンは野帳を開こうとしてやめた。
紙を見ている時間が惜しい。
聞く。
覚える。
戻って全員へ話す。
声が急に途切れた。
代わりに、硬い男の声が響く。
『暦法院中央命令。北部第七採掘区、事故発生日より十三日分を閉鎖対象とする』
ホーコンの足が止まる。
『該当期間の勤務記録、入退場記録、死亡記録、生存記録を王国暦本体から切り離す。現地記録は封印。照合を禁ずる』
命令文だった。
事故で自然に欠けたのではない。
誰かが、十三日分を閉じると決めた。
別の声が割り込んだ。
『待ってくれ!』
男の声。
近い。
『全員を閉じるなら俺も入れろ。だが娘の記録だけは閉じるな!』
ホーコンは顔を上げた。
『クリストエインはまだ死んでいない! 生存にも死亡にも入れるな。閉じたら、あの子は戻る場所を失う!』
胸の奥が冷えた。
クリストエイン。
声は続く。
『頼む。娘の記録だけは閉じるな!』
その直後、百八十七人分の声が一斉に崩れた。
言葉が逆向きに流れ、名前が音から剥がれていく。
腰の索が一度、強く引かれた。
八分。
ホーコンは入口へ向きを変えた。
だが、背後から別の声が聞こえた。
『七一二――』
足が止まりかける。
続きを聞けば、クリストエインに何が起きたのか分かるかもしれない。
索がもう一度、短く震えた。
ホーコンは進んだ。
今は戻る。
自分だけで答えを取りに行かない。
二度、大きく索が引かれた。
十分。
黒い境界へ身体を押し込む。
*
「戻った!」
アズの声と同時に、両腕をつかまれた。
白線の内側へ引き倒される。
ルアヴエルが計時器を見た。
「十分二十二秒。十一分未満」
クリストエインが体操着を脱がせる。
「名前は?」
「ホーコン」
「私の名前」
「クリストエイン」
彼女は短く息を吐いた。
ホーコンは起き上がった。
いつもなら、先に野帳へ整理していた。
確証と推測を分け、自分の中で形にしてから話す。
だが今回は違う。
「全員、聞いてください」
アズ、ルアヴエル、クリストエイン、ルグエ、ブレントが集まる。
ホーコンは聞いた順番のまま話した。
百八十七名の声。
職員番号。
暦法院中央命令。
十三日分の勤務、生存、死亡記録を王国暦から切り離せという命令。
そして最後に、ためらわず続けた。
「クリストエイン。あなたの父親と思われる男性の声がありました」
彼女の表情が止まる。
「何て?」
「『娘の記録だけは閉じるな』と。あなたはまだ死んでいない、生存にも死亡にも入れるな、閉じれば戻る場所を失う、と」
長い沈黙。
ルグエが目を伏せた。
クリストエインは彼を見るより先に、ホーコンへ尋ねた。
「それで、あなたは?」
「続きを聞ける可能性がありました。でも十分になったので戻りました」
「一人で残らなかった?」
「はい」
「一人で秘密にもしてない?」
「はい」
クリストエインは一度だけ頷いた。
「なら、それでいい」
ブレントが紙を広げた。
「これは記録に残します。暦法院の命令が存在したこと自体が、事故ではなく処理だった証拠になる」
ルアヴエルも頷く。
「軍の記録にも写しを置く。三系統に分ければ消されにくい」
ホーコンは野帳を開いた。
最初の一行に書く。
『十三日分は事故で消えたのではない。暦法院の命令で閉鎖された』
その下へ、もう一行。
『クリストエインの記録は、父親が意図して未確定のまま残すよう求めた』
黒い影の向こうでは、まだ声が残っている。
だが今度は、その声をホーコン一人の記憶にはしなかった。




