第17話 十一分の装備
翌朝、クリストエインを再び召喚してから、地下保管庫の扉を開いた。
白地に青線の衣服は、昨夜と同じ場所に残っている。
召喚物ではない。
この十二年間、現在の保管庫に実物として存在し続けた物だ。
クリストエインは上着を机へ広げ、袖口から糸を一本引き出そうとして、途中で手を止めた。
「切らない方がいい」
「理由は?」
「まだ分からない。だから切らない」
朴訥な答えだった。
代わりに胸の白い布札を持ち上げる。
そこには、この国のどの字体にも属さない細い文字と、数字らしき記号が並んでいた。
ホーコンは万年カレンダーの照合盤へ、衣服の端を触れさせた。
針は動かない。
王国製の工具を置けば、製造年と登録地へ針が引かれる。
クリストエインの整備工具なら、十二年前のエッダを示す。
だが、この衣服には何も出なかった。
「もう一度」
クリストエインが言う。
三度試しても結果は同じだった。
「暦座標がない」
彼女は胸札を指で押さえた。
「少なくとも王国暦には、この服がどこで作られたかも、いつここへ来たかも記録されてない」
「だから影も読めない?」
「可能性はある。でも、着れば安全とは言ってない」
ホーコンは上着を取った。
「私が試します」
「そう言うと思った」
背後でアズが腕を組んでいた。
*
試験場所は北側外周からさらに四十歩離れた、乾いた排水溝沿いに決まった。
昨夜の魔物は退いたが、黒い影は地面の裂け目に沿って残っている。
アズは最初に退避路を二本決めた。
西は旧市場へ戻る道。
南は油槽の間を抜ける道。
「一つ塞がれても、もう一つを使う。ホーコン、勝手に三本目を探しに行かない」
「状況によっては――」
「行かない」
「……分かりました」
ルアヴエルが制御室の計時器を構えた。
「合図は前に決めた鐘を使う。一回で開始、二回で即時帰還、三回で全員退避。時間は私が読み上げる」
クリストエインが付け加えた。
「十分で自主退避。十一分には絶対に近づけない。それでいい?」
ホーコンは頷いた。
体操着を着る。
見慣れないほど軽い。鎧も測量外套も着けない。
鐘が一回鳴る。
ホーコンは影へ向かった。
*
三分。
影は反応しない。
五分。
黒い裂け目の横に立っても、揺らぎは変わらない。
「八分!」
ルアヴエルの声が飛ぶ。
ホーコンは半歩近づいた。普段なら衣服の縁から文字が薄れ始める距離だ。何も起きない。
「九分!」
指先を黒い揺らぎへ触れると、影は避けるように二つへ割れた。
「十分!」
クリストエインが鐘を二回鳴らした。
「戻って!」
ホーコンは従い、排水溝の白線まで戻った。
「反応なし。少なくとも十分までは」
野帳へ書こうとした。
だが、アズが手を出した。
「今日は終わり」
「十一分の境界を確認できていません」
「確認しなくていい境界もある」
「影の内部へ入るなら、正確な限界が必要です」
クリストエインは数秒考え、それから言った。
「影の外で一分足す。異常が出た瞬間に脱がせる。中ではやらない」
アズは退避線の内側という条件で認めた。
*
再び計時器が動く。
十分経過。
ホーコンは影から三十歩離れて立つ。
「十分三十秒」
異常なし。
「十分五十秒」
胸の奥が、わずかに冷えた。
「十一分」
何も起きない。
ホーコンは息を吐いた。
次の瞬間だった。
十一分を越えた。
アズ、ルアヴエル、クリストエインが見ている。
全員の顔は分かる。なのに、自分だけが分からなかった。
「あなた、名前は?」
クリストエインが聞いた。
答えようとして、声が止まる。
口にあるはずの二音が出てこない。
「……私は」
鐘が二回鳴った。
アズとルアヴエルが同時に腕をつかみ、クリストエインが上着を引き剥がす。
白い布が身体から離れ、数秒後。
「ホーコン」
クリストエインが呼んだ。
その音が、自分の中へ戻ってきた。
「ホーコン」
今度は言えた。
震える手で野帳を開く。
「同じ日付内、累計十一分超過で自己記録に異常。影の外でも発生」
「続けて書かなくていい」
アズが言った。
「書きます。忘れる前に」
「そこだけは本当に頑固ね」
*
最後の確認はクリストエインだった。
彼女は整備工具を腰へ固定したまま体操着へ着替えた。
「私は十分まで行かない」
自分からそう言った。
ホーコンも反対しなかった。
北の影へ近づく。
五歩、三歩、一歩。
影はホーコンの時と同じく攻撃しない。
だが、動きが違った。
黒い縁が、クリストエインの足元へ静かに伸びた。
「止まって」
ホーコンが言う。
影は攻撃せず、欠けた部分へ戻すように彼女の輪郭を包んでいく。
クリストエインの右手が一瞬透けた。
「二回!」
ホーコンが叫ぶ。
鐘が鳴る。
彼女はすぐ後退した。
工具を握ったまま、身体は戻った。
「私を敵だと思ってない」
クリストエインが手を見る。
「たぶん、向こう側のものだと思ってる」
ホーコンは野帳へ書いた。
未閉鎖記録、現存錨あり、体操着着用。神の影は攻撃せず、欠落内部へ取り込もうとした。
そして最後に一行加える。
『クリストエインは、影の境界を越えられる可能性がある』
アズがその文字を読んだ。
「可能性で終わらせる。今日は中へ入らない」
「同意します」
ホーコンは答えた。
アズは計時器を閉じた。
「安全運用は一人一日十分まで。十分で必ず帰還開始。十一分は失敗扱い。鐘二回は理由を問わず即時帰還。退避路は必ず二本以上」
ルアヴエルが頷く。
クリストエインは白地に青線の服を見下ろした。
「十一分しか、世界の外にはいられないんだ」
「十一分も、です」
ホーコンは言った。
影の向こうはまだ分からない。だが、入る方法だけは見つかった。




