第16話 影の軍勢
北の柵の向こうで、黒い揺らぎが増えていた。
一つ、二つではない。
四つ脚で走るもの。長い腕を地面へつくもの。翼らしき輪郭を引きずるもの。
どれも身体の一部が黒く欠け、残った毛皮や甲殻に文字のような筋が浮かんでは消えている。
「戦える者は北側へ。火を扱える者は消火桶を持って油槽の間へ。力のある者は黒い油の運搬。怪我人を運べる者は救護所」
アズの声が市場跡へ響いた。
住民たちは一斉に動き出す。
ホーコンは方位盤を開きながら尋ねた。
「人数確認は?」
「各班で二回。ブレントが記録する」
「退避路は」
「南宿舎裏。ルアヴエルの兵が誘導」
「油槽の――」
「あなたは北を測って」
アズが遮った。
「全部確認してたら、影の方が先に来る」
ホーコンは口を閉じた。
以前なら、自分で全て見に行っていた。
今は測量鎖を北へ伸ばす。
「分かりました。北側は私が見ます」
*
外周まで百二十歩。
最前列の魔物が、柵へぶつかった。
柵へ刻まれていた区画番号が消え、次の瞬間、その部分だけ鉄が黒く抜けた。
「物じゃない。記録から食ってる」
クリストエインが低く言った。
ホーコンは境界杭を二本追加した。
閉鎖図面では、この北側に旧防火壁があった。現在は基礎だけが残っている。
「アズ、北側から全員を三十歩下げてください」
「城壁?」
「正確には防火壁です。高さ四・二、厚さ一・一。今の柵よりは持つ」
「どのくらい?」
「影が普通の魔物なら、かなり」
「普通じゃなかったら?」
「今から測ります」
アズは笑わなかった。
「全員、三十歩後退!」
ホーコンは地下制御室へ走った。
境界杭の番号を確認し、万年カレンダーを事故前へ合わせる。
北側だけ。
城壁の基礎から、外周百六十歩まで。
起動レバーを倒した。
黒い油が計量管を落ちる。
*
地上へ戻ると、土の中から灰色の壁が立ち上がっていた。
十二年前の防火壁。
現在の錆びた柵へ重なり、半透明の石積みが北側を塞ぐ。
最初の魔物が壁へ激突した。
鈍い音。
止まった。
「効いてる!」
二体目、三体目も壁へぶつかる。
ルアヴエルが兵へ命じた。
「壁上は使うな。召喚物だ。足場の消失を前提に射線だけ取れ」
兵が現在の盛土から矢を放つ。
魔物の一体が倒れた。
だが、四体目は壁へ爪を立てなかった。
黒い頭部を石へ押しつけると、石壁に刻まれていた建造年が消えた。
一文字。
また一文字。
その周囲から、石そのものが黒く薄れた。
「下がって!」
クリストエインが叫ぶ。
壁に、人ひとり分の穴が開いた。
魔物は壊していない。
瓦礫はない。そこだけ、防火壁が最初から存在しなかったことにされている。
「召喚した年代記録ごと食べてる……」
ホーコンは野帳へ書いた。
防火壁、接触から欠落開始まで約十一秒。
次の魔物が同じ穴へ身体を押し込む。
「戦闘班、穴へ集中!」
アズの指示で住民と兵が槍を揃える。
槍が胸を突き、脚を払い、倒れた魔物へ黒い油を染み込ませた布が投げられた。
黒い輪郭が縮む。
「油は効く!」
「量を使い過ぎないで!」
クリストエインが怒鳴り返した。
「一体ずつ浴びせたら、ポンプを維持できない!」
さらに壁の文字が消えた。
第二建造区。
第三補修区。
記録を食われた場所から穴が増えていく。
ホーコンは壁を見上げた。
「解除します」
アズがすぐ頷いた。
「早いわね」
「もう盾としての効率が悪い。維持する油の方が損です」
「それでいい」
ホーコンは地下へ合図を送った。
鐘、一回。
ルグエが起動を解除する。
十二年前の防火壁が消えた。
魔物の前に、現在の空き地だけが残る。
「全班、第二線!」
アズの声で、人々が予定していた油槽間の狭路へ下がった。
狭路なら数を絞れる。住民と王国兵はそこで日没まで持ちこたえた。
*
夜。
北側の黒い群れは、完全には退かなかった。
外周のさらに向こうで、地面を埋めるように揺れている。
「明日も同じ数なら、油が先に尽きる」
クリストエインは地下の油量計を見た。
ホーコンも数字を確認する。
城壁一回で消費した量は、北街道で石橋を戻した時より大きい。
壁を食われるたび召喚し直す方法は使えない。
「別の方法が必要です」
「ある」
背後でルグエが言った。
「十二年前、事故の後に地下へ封じた物がある」
クリストエインが振り返る。
「何を?」
「ここの物じゃない物だ」
「意味が分かりません」
ホーコンが言う。
「神の影は、この世界の記録を食う」
ルグエは鍵束から、見たことのない細長い鍵を外した。
「なら、最初からこの世界の記録にない物はどうなる」
*
地下制御室のさらに下。
錆びた階段を二つ降りた先に、厚い鉄扉があった。
扉には王国暦の認証番号がない。
ルグエが鍵を回す。
厚い埃が落ちた。
中は小さな保管庫だった。
棚には奇妙な容器、透明な薄板、読めない紙片が油布に包まれている。
ホーコンが手を伸ばすと、ルグエが止めた。
「触るな。何に使う物か分からん」
「あなたも?」
「分かる物は一つもない」
クリストエインが最下段の箱を引き出した。
木箱ではない。
軽い灰色の箱だった。
蓋を開く。
中には折り畳まれた衣服があった。
白い布地。
袖と脇に、鮮やかな青い線。
上着と、同じ色の短い下衣。
胸には、小さな白い布札が縫い付けられている。
戦闘服にも、作業服にも見えない。
クリストエインが布を指先でつまんだ。
「……何これ」
ホーコンにも分からなかった。
ただ、この世界のどの衣服とも違う白地に青線の体操着だけが、ほとんど劣化せず残っていた。




