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神影の暦術師  作者: 乾為天女


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第15話 記録を結ぶ人

 朝から、ブレントは三種類の紙を机へ並べていた。


 同じ住民名簿を三部作るだけではない。


 商人組合用には取引日と交換品。教会用には家族構成と配給日。軍用には宿舎番号と作業時間を書く。


 名前を失った一家四人については、ホーコンの測量記録から部屋の寸法、靴の大きさ、足跡、戸板の修理痕まで転記した。


 「同じ記録を預けるんじゃなかったのか」


 ホーコンが三枚を見比べる。


 「同じ人を記録します。でも、同じ書き方にはしません」


 ブレントは羽根ペンを止めなかった。


 「商人は取引を信用します。教会は暮らしを見ます。軍は配給と勤務を照合する。相手が普段使わない形式で渡せば、ただの不審文書になります」


 「内容がずれる」


 「だから、共通の照合印を付けます」


 ブレントは紙の右下へ、宿舎番号、測量区画、市場記録番号の三つを書いた。


 「三枚全部に同じ数字を入れる。名前が消されても、この三つが一致すれば同じ人を指していると分かる」


 ホーコンは黙って三枚を取った。


 数字を一つずつ確かめる。

 寸法も確認する。

 配給量も市場記録も照合する。


 ブレントが顔を上げた。


 「全部、確認するつもりですか」


 「誤りがあれば意味がない」


 「一枚目はそうでしょうね」


 「二枚目も三枚目も同じです」


 「それでは、あなたが倒れたら三系統とも止まります」


 ホーコンの指が止まった。


     *


 昼前、最初の使者が出た。


 市場へ出入りしていた荷車が、商人組合宛ての封筒を積む。

 北へ向かう巡回司祭には、教会用の写しを預けた。

 ルアヴエルは補給隊の伝令兵を一人出し、自分の封印を付けた軍用写しを持たせた。


 「三つとも奪われたら?」


 アズが聞く。


 「一つは西、一つは北、一つは東へ行きます」


 ブレントが答える。


 「同時に三方向を止めるなら、それだけ大きな命令が必要です。命令が大きくなれば、今度は命令そのものを見た人が増える」


 「消そうとするほど、見た人が増える?」


 「そうです」


 アズが笑った。


 「嫌らしい仕組みね」


 「褒め言葉として受け取ります」


 ブレントは少しだけ笑った。


 ホーコンは送り出される三人を見た。


 自分なら、正しい記録を一冊作り、それを最も安全な場所へ隠す。

 ブレントは違う。


 完全な一冊を守ろうとしない。

 互いに確かめ合える記録を人の間へ散らす。


 「商人組合の写しを、もう一度見せてください」


 ホーコンが言った。


 「もう荷車の上です」


 「なら呼び戻して――」


 「呼び戻しません」


 ブレントはきっぱり言った。


 「私が確認しました」


 「あなたが間違えていない保証は」


 「ありません」


 即答だった。


 「だから教会用と軍用があります。三つが食い違えば、その時に調べるんです」


 ホーコンはなおも街道を見た。


 荷車はもう小さくなっている。


 「任せるというのは、確認しないことではありません」


 ブレントが続けた。


 「自分以外の確認を、確認として認めることです」


 ホーコンは返事をしなかった。


 だが、荷車を止めるためには走らなかった。


     *


 午後、名前を失った一家の父親が、ブレントの机へ木の椀を四つ運んできた。


 「これも、記録になりますか」


 誰も彼の名前を呼べない。

 本人も名乗れない。


 それでも、昨日まで壊れていた食堂の長椅子を直したのが彼だと、百二十人のうち何人も知っていた。


 「なります」


 ブレントは椀を一つ手に取った。


 底に小さな焼け跡がある。


 「どこで使いました?」


 「市場の炊き出しです」


 「誰と?」


 父親は周りを見た。


 パン屋の女が手を挙げた。

 油槽を清掃していた男も手を挙げた。

 アズの班の少女も頷いた。


 「一緒でした」


 「俺も見た」


 「四人で二十杯は運んでた」


 次々に声が重なる。


 ブレントは新しい紙へ、それぞれの証言を書いた。


 「これも三方向へ?」


 ホーコンが尋ねる。


 「いいえ」


 ブレントは首を振った。


 「これはここに残します」


 「なぜ」


 「全部を遠くへ置く必要はありません。ここで毎日、この人たちを知る人を増やす方が強い記録になる」


 ホーコンは周囲を見た。


 昨日、名前を失った四人を前に、人々はどう呼べばいいか迷っていた。


 今日は違う。


 戸板を直した人。

 炊き出しを運んだ人。

 蝶を粘土板へ描いた子。

 井戸で水桶を押さえた子。


 名前ではない。


 それでも関係は増えている。


 「ブレント」


 「はい」


 「住民記録の管理を、あなたに任せます」


 ブレントが瞬きをした。


 「全部ですか」


 「測量記録は私が作る。だが、誰へどう残すかはあなたが決めてください」


 「訂正を求める権利は?」


 「あります」


 「良かった。何も言わなくなったら気味が悪いので」


 アズが吹き出した。


 ホーコンは反論しかけて、やめた。


 その時だった。


 窓の外が、急に白くなった。


     *


 市場の屋根。

 宿舎の壁。

 配管の上。


 何百匹ものモンシロチョウが、一斉に舞い上がっていた。


 白蝶平原から流れてきた群れだ。


 「風?」


 誰かが言った。


 違う。


 風はない。


 蝶たちは逃げるように高く上がった。


 そして次の瞬間。


 すべてが落ちた。


 白い紙片のように地面へ降り積もる。


 クリストエインが最初に外へ飛び出した。


 ホーコンも続く。


 一匹を拾う。


 白い翅の縁から、黒い染みが内側へ広がっていた。


 アズの顔から笑みが消える。


 「前と同じ?」


 「違います」


 ホーコンは外周へ目を向けた。


 北の柵の向こう。

 地面と空の境目が、墨を流したように揺れている。


 ルアヴエルが短く命じた。


 「全員、配置を見直す。これは偵察ではない」


 黒い揺らぎの中で、何かが動いた。


 一つではない。


 数十。


 さらに、その後ろにも。


 モンシロチョウは一匹も飛び上がらなかった。


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