第14話 名前のない家族
四人は、住民名簿から名前が消えていることを知らなかった。
父親らしい男は、いつものように南宿舎の戸を修理していた。母親らしい女は共同炊事場から湯を運び、二人の子どもは昨日の市場で残った白い石を蹴って遊んでいる。
存在している。
声も、顔も、昨日までの行動も分かる。
なのに、名前だけがない。
「あなたの名前を教えてください」
ホーコンが尋ねると、男は口を開いた。
「俺は――」
そこで止まった。
何度か唇を動かし、眉間へ皺を寄せる。
「……何だった?」
妻へ顔を向ける。
「あなた、私の名前……」
「分からない」
女の声が震えた。
子どもたちも同じだった。
姉らしい少女は弟の袖を握っているのに、弟をどう呼んでいたのか思い出せない。
「昨日は呼んでた」
少女が言った。
「市場で、何回も。なのに出てこない」
ブレントは名簿を抱えたまま動かなかった。
番号、年齢、宿舎番号、配給量。
名前以外は残っている。
「王国暦の照合をします」
ようやく彼が言った。
「支院記録に元の登録が残っていれば――」
言い終わる前に、北門から伝令鐘が鳴った。
*
届いたのは、王都の暦法院からの通達だった。
厚い灰色紙。
暦法院長印。
ブレントが封を切る。
文面を読んだ彼の顔から、血の気が引いた。
「何と?」
アズが聞く。
ブレントは一度、四人の家族を見た。
「北部閉鎖区域に流入した者のうち、王国暦で身元登録を確認できない者は、新規の居住登録を認めない」
「それだけ?」
「続きがあります」
紙を持つ指が強くなる。
「既存名簿に記載があっても、本体原簿との照合が成立しない者は未登録居住者として扱う。配給、医療扶助、土地使用、居住許可の公的資格を認めない」
少女がブレントを見上げた。
「それって、私たちはここにいちゃ駄目ってこと?」
ブレントはすぐ答えなかった。
「制度上は……」
そこで言葉が止まる。
七日前なら、彼はもっと滑らかに説明できただろう。
登録がない。確認できない。だから許可できない。
今日、その規則の先にいるのは、書類ではなく子どもだった。
「制度上の処理です」
絞り出すように言った。
「けれど、あなたたちが存在しないという意味ではありません」
「名前がないのに?」
少女が聞く。
ブレントは答えられなかった。
*
「名前を戻す方法は、今はありません」
ホーコンは南宿舎の前へ測量台を立てた。
クリストエインが横で尋ねる。
「じゃあ何をするの?」
「消えていないものを全部測ります」
家族が使う部屋。
入口から寝台までの距離。
壁に打たれた釘の位置。
四人分の靴の寸法。
衣服の繕い跡。
食器の欠け方。
父親が修理した戸板の鉋跡。
「名前の代わりになる?」
「なりません」
ホーコンは即答した。
「ですが、名前以外まで消えた時に、この四人がここで生活していたことを示す材料にはなる」
アズが腕を組む。
「一冊の野帳にまとめるの?」
ホーコンの手が止まった。
白蝶平原の石碑が頭に浮かぶ。
一つの記録だけに頼れば、それを消された時に終わる。
「三部作ります」
「誰が持つ?」
「私と――」
ホーコンは言いかけた。
自分が持つ。
自分で管理する。
いつもの答えだった。
だが、もし自分の記憶まで名前と同じように削られたら意味がない。
「アズとルアヴエルへ一部ずつ。ブレントにも写しを作ってもらいます」
クリストエインが小さく頷いた。
「四つになった」
「多い方がいい」
「それも進歩ね」
ホーコンは聞かなかったことにして、測量鎖を伸ばした。
*
午後には、四人の足跡も記録した。
湿らせた粘土板を地面へ置き、一人ずつ踏んでもらう。
父親は左足の踵が外へ傾く。
母親は右足の親指が少し内側を向く。
少女は歩幅が狭い。
弟は走る時だけ右足を強く蹴る。
「こんなのまで残すの?」
少女が粘土板を覗き込む。
「人は名前だけで歩きません」
ホーコンは答えた。
「あなたがここを歩いたなら、地面にはその形が残る」
少女は自分の足跡へ手を重ねた。
「じゃあ、これが私?」
「あなたの一部です」
「名前じゃないけど?」
「名前が戻った時に、あなたのものだと確かめられます」
少女はしばらく黙り、それから粘土板の端へ爪で小さな蝶を描いた。
「じゃあ、これも私」
ホーコンは消さなかった。
*
夕方、ブレントが通達を持って戻ってきた。
「王都へ異議申立てを送ります」
朝とは声が違っていた。
「規則を変えられるんですか」
ホーコンが聞く。
「すぐには無理です」
「では、通達は有効なままです」
「はい」
ブレントは認めた。
「だから、別の方法も作ります」
机には、ホーコンが作った四人分の測量記録が並んでいる。
部屋の寸法。
衣服。
靴。
足跡。
市場で交換した品。
戸板の修理痕。
名前は一つもない。
それでも、四人が今日ここにいたことは、紙の上に残っている。
「暦法院の本体原簿だけが記録なら、そこから外れた人は何度でも消されます」
ブレントは測量記録を見た。
「なら、一か所で消せないようにする」
「どうやって」
「人に預けます」
ブレントは即答した。
「王都以外にも、記録を信じてもらえる相手はいます」
彼は新しい紙を三枚取り出した。
商人組合。
北部教会。
王国軍補給隊。
三つの宛先を書き始める。
ホーコンは、その手元を見つめた。
名前を失った四人を守るために必要なのは、正確な一冊ではない。
消されても残る、いくつもの関係だった。




