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神影の暦術師  作者: 乾為天女


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第13話 七日目の市場

 仮居住許可の七日目は、朝から妙に騒がしかった。


 争う声ではない。


 南宿舎の前に板を渡しただけの台が並び、乾燥豆、固焼きパン、繕った手袋、研ぎ直した包丁、古い銅線まで置かれている。


 「市場です」


 アズが当然のように言った。


 「許可した覚えはありません」

 「禁止した覚えもないでしょう」


 ホーコンは返す言葉を探し、諦めた。


 難民百二十人は、この七日でただ寝床を借りていたわけではない。壊れた戸を直した者、配管の泥をさらった者、薪を割った者、衣服を繕った者がいる。


 今朝はそれぞれが余った物を持ち寄っていた。


 「塩ひとつかみで針二本!」

 「その靴底なら油布も付けてくれ!」


 声が飛び交う。


 石油ポンプ場で、機械音以外の音が増えていた。


 ブレントは市場の入口で、取引を一件ずつ帳面へ記録していた。


 「何をしているんです」


 「交易の記録です」


 「この程度でも?」


 「この程度だからです」


 ブレントはペン先を止めなかった。


 「王国資産の仮使用者が、居住区を維持し、物品を交換し、労働の対価を受け取っている。これは滞在ではなく、生活が成立している証拠になります」


 七日前、彼は期限を区切ることでしか百二十人を残せなかった。


 今日は、その期限を延ばす理由を作っている。


 「王都へ延長申請を出します」


 「通りますか」


 「分かりません」


 ブレントは淡々と答えた。


 「分からないから、通る材料を一つでも増やします」


 変化を恐れていた男が、今は変化を帳簿の形にして制度へ押し込もうとしている。


 ホーコンには真似できない仕事だった。


 「市場の配置図を作ります」


 「必要ですか?」


 「消防路を塞がれては困る」


 「ではお願いします」


 ブレントが笑った。


 「あなたはあなたの得意な証拠を」


     *


 昼までに、ホーコンは露店の位置と通路幅を測り終えた。


 西側三歩を空ける。

 油槽へ続く道は荷車二台分。

 消火桶は四か所。


 図面を掲示すると、住民たちは文句を言いながらも台を移した。


 移したばかりの台へ、子どもが木片を三つ並べた。削った鳥、車輪の外れた玩具、白い石。値札代わりの紙には、パン半枚、とだけ書いてある。買い手がつくはずもないとホーコンは思ったが、夕方には白い石だけが残っていた。誰かが二つを買ったらしい。


 生き延びるためだけなら、なくても困らない物だった。

 それでも人は、そういう物を欲しがる余裕を取り戻し始めている。


 「測量士さん、ここまで決めるのか」


 「火が出た時に燃えない市場の方がいいでしょう」


 「そりゃそうだ」


 笑い声が起きる。


 ホーコンは少し戸惑った。


 測量結果を渡して、相手がその通りに動き、それで人が笑う。


 王国測量院では、図面は命令書か工事計画の一部だった。


 ここでは、明日の露店の位置を決めるためにも使われる。


 クリストエインは古い手回し削り器を分解していた。


 「何をしているんです」


 「刃が欠けてる。直せば野菜を薄く切れる」


 「ポンプの修理は?」


 「今日は緊急箇所なし」


 「記録板の調査は?」


 「明日でもできる」


 彼女は顔を上げた。


 「壊れてる物を全部、今日直さなくてもいいでしょう」


 ホーコンは返事をしなかった。


 自分なら、見つけた異常はその日のうちに調べる。

 五月二日の映像も、薄くなった名前も、今すぐ確かめたい。


 だが今日は、誰も地下へ急いでいない。


 ルグエは市場の端で温かい油粕パンを買い、ルアヴエルは兵たちに交代で買い物を許している。アズは子どもたちに列を作らせ、配給用の果実を公平に分けていた。


 異常がない時間を、異常が起きるまでの待機時間として扱っているのは、自分だけなのかもしれない。


     *


 夕方、ブレントは延長申請書へ最後の署名を入れた。


 「市場取引、四十七件。共同炊事場利用者、百二十人。宿舎補修、三棟。ポンプ場の保守作業に参加した者、三十一人」


 「ずいぶん細かいですね」


 「細かい数字は、人を『難民』という一語で消しにくくします」


 ブレントは書類を封筒へ入れた。


 「明朝、王都行きの伝令へ渡します」


 「期限は今日までです」


 「申請中の退去執行を一日止める条項があります」


 アズが眉を上げる。


 「最初から知っていたの?」


 「はい」


 「七日前に言わなかったわね」


 「七日前には申請理由がありませんでした」


 ブレントは少し困った顔をした。


 「制度は、理由がない願いを守ってくれません」


 アズは呆れたように息を吐き、それ以上は責めなかった。


     *


 夜。


 市場の片付けが終わったあと、ホーコンはクリストエインと二人で旧管理棟の食堂にいた。


 夕食は豆の煮込みと固焼きパンだった。


 豪華ではない。


 外では誰かが笑っている。

 遠くでポンプが一定の間隔で上下し、今日は警鐘も救助合図も鳴らない。


 「静かですね」


 ホーコンが言う。


 「ポンプはうるさい」


 「そういう意味ではなく」


 「分かってる」


 クリストエインはパンを煮込みへ浸した。


 「こういう日、好き?」


 ホーコンは考えた。


 何も壊れない。

 誰も追われない。

 測量結果が、逃げ道や戦場ではなく市場の通路に使われる。


 「悪くありません」


 「それ、かなり好きって意味でしょう」


 「どうしてです」


 「あなた、本当に嫌なら理由を三つくらい並べるから」


 ホーコンは否定しかけて、やめた。


 クリストエインが小さく笑う。


 「穏やかな日々って、たぶんこういうのだね」


 その言葉を、ホーコンは覚えておこうと思った。


 万年カレンダーではなく、自分の記憶に。


     *


 翌朝。


 ブレントの叫び声で、ホーコンは管理棟を飛び出した。


 市場跡の机に、住民名簿が広げられている。


 「昨日の夜まではありました」


 ブレントの指先が震えていた。


 名簿の中央。


 一家族分、四行だけが白く抜けている。


 番号は残っている。

 年齢欄も、配給量も、宿舎番号も残っている。


 だが、名前だけがない。


 ホーコンは南宿舎を見た。


 そこから、四人の家族がこちらへ歩いてくる。


 確かに昨日、市場にいた人たちだ。


 なのに。


 ホーコンは、その誰の名前も思い出せなかった。


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