第25話 消える順番
透けた右手は、すぐ元へ戻った。
だがホーコンは、その場で階段を上がらなかった。
「制御室へ戻ります」
「今?」
クリストエインが聞く。
「今です。次に同じことが起きた時、何が先に失われるか分からないままでは遅い」
アズも異論を挟まなかった。
「全員は戻さない。ここに残るのは必要な人だけ」
ホーコン、クリストエイン、ルグエ、アズ、ブレント。
ルアヴエルは地上の見張りへ戻り、ヴァレンシーアは親衛隊と別室に残った。
机の上へ、これまでの記録を並べる。
ホーコンが毎日残してきた会話。
クリストエイン自身が書いた整備手順。
市場の日の食事記録。
ポンプ修理の設計図。
名前を書いた紙片。
「順番を確認します」
ホーコンは紙を四つに分けた。
「出来事。技術。人との結び付き。自分自身」
「最後だけ急に重いね」
「最後まで残ってほしいので」
「願望は測量値じゃないよ」
「分かっています」
クリストエインは椅子へ座った。
*
「昨日、右手を影へ入れる前に、誰が退避時間を決めましたか」
「アズ」
「何秒」
「……十秒?」
「八秒で戻しました」
「そうだった」
次。
「先日の城塞防衛で、旧河道を開く前に使った設備は」
「北側の防火壁」
「その前は?」
クリストエインの眉が寄った。
「橋……じゃない。給水塔?」
順序が崩れている。
出来事から先に摩耗していた。
ホーコンは記録する。
「次は技術です。第三循環ポンプの吐出側で振動が出た場合、最初に確認する場所は」
「逆止弁」
「理由は」
「圧力差で弁板が……」
言葉が止まる。
彼女の指が机を二度叩いた。
「弁板が何?」
「分かってる。分かってるんだけど、名前が出ない」
ルグエが低く言った。
「共振だ」
「ああ、それ」
クリストエインは笑った。
だが誰も笑わなかった。
十二年前、ポンプ場の主任技師だった彼女が、基本的な故障名を一瞬でも失った。
技術知識まで削れ始めている。
*
次の紙を、ブレントが取った。
「市場の日、私が出した仮居住延長の書類を覚えていますか」
「覚えてる。三系統へ同じ記録を預けた」
「では、その夜に誰と食事をしました」
「ホーコン」
即答だった。
ホーコンは少しだけ息を戻す。
ブレントは続けた。
「何を食べました」
「薄い豆の煮込み。固いパン。あと、ルグエが隠してた塩漬け肉を少し」
「その時、どう思いました」
クリストエインは答えなかった。
「どう、って?」
「楽しかった、安心した、腹が立った。何でも構いません」
「……食事をしたのは覚えてる」
彼女は胸元へ手を置いた。
「でも、その時の私が何を感じたのかが、遠い」
ホーコンの手が止まった。
出来事の順番。
技術知識。
感情の結び付き。
削れる順番が見えてきた。
最後の紙には、一つだけ質問を書いた。
『あなたの名前は?』
クリストエインは紙を見た。
「クリストエイン」
今度は迷わなかった。
だがその下に自分で署名させると、最後の一文字を書く前に筆先が止まった。
「……これ、前にもあったね」
「はい」
「今は思い出せる」
「今は」
ホーコンは四枚の紙を順に重ねた。
「前日までの出来事。技術知識。感情との結び付き。最後に自分の名前。この順で摩耗しています」
「防衛戦の翌朝に前日を覚えてたのは?」
「回復ではありません。失われた記録同士の境界が崩れて、順番が混ざった」
クリストエインはしばらく黙った。
*
「じゃあ、急いだ方がいい」
最初にそう言ったのは、クリストエインだった。
「何をですか」
「私の技術を残す」
彼女は整備手順書を引き寄せた。
「ポンプの癖、封印油の流し方、事故前の手動弁。私が覚えてるうちに全部書く。ルグエにも確認してもらう」
「それは必要です」
「その後、私を十三日目へ戻す」
ホーコンは顔を上げた。
「駄目です」
言葉が反射で出た。
クリストエインは何も言わない。
ホーコンは自分の言葉を飲み込んだ。
以前と同じだった。
危険だから遠ざける。
本人のことなのに、本人より先に答えを決める。
「……すみません」
「うん」
「否定する前に、理由を聞きます」
クリストエインは机の上の五月十五日の記録を指した。
「私の名前札は影の中心にある。私も未閉鎖記録のまま影へ引かれてる。だったら、私をあそこへ戻せば、少なくとも影が私を探して広がる分は止められるかもしれない」
「戻った後は」
「分からない」
「現在へ再召喚できなくなる可能性があります」
「あると思う」
「あなた自身が消える可能性も」
「ある」
言い方は朴訥だった。
だから余計に、ホーコンには重かった。
「それでも、私の技術が残ればポンプ場は動かせる。百二十人も、今はもっと増えた人たちも、水と油を守れる」
ホーコンは拳を握った。
助けたい。
戻したくない。
だが、それだけでは彼女の選択を止める資格にならない。
「時間をください」
「どのくらい」
「次に五月十五日を開くまで。名前札を使って現在へ記録を閉じる方法がないか調べます」
「見つからなかったら?」
「その時は、あなたの案も含めて全員で条件を並べます。隠しません」
クリストエインは少し考え、頷いた。
「それなら待つ」
*
ブレントが、積み上げられた紙を見ていた。
「ホーコンさん」
「何ですか」
「人を説得する時に、『助けたい』は理由になります。でも方法にはなりません」
ホーコンは黙って聞く。
「彼女が自分を戻す案には、少なくとも目的と手順があります。それを止めたいなら、それより実行可能な別の手順を持ってきてください」
「分かっています」
「なら、私は記録を探します。商人組合と教会にも、事故時の非常手順が残っていないか当たる」
ルグエが立ち上がる。
「俺は旧制御庫だ。事故の日に使えなかった手順書がまだあるかもしれん」
アズも言った。
「私は潜る人数と退路を作る。方法が見つかってから考えるんじゃ遅い」
ホーコンは一人で調べるとは言わなかった。
「お願いします」
机の上には四枚の紙が残った。
最後の一枚に、クリストエインの名前がある。
まだ読める。
まだ本人も言える。
だから、その間に方法を作る。
ホーコンは五月十五日の測量図を開いた。
影の中心。
落ちた名前札。
現在へ続く現存錨。
三つの位置を一本の線で結ぶ。
線の先に、まだ書かれていない手順があった。




