第11話 白蝶平原
西の平原へ入ると、風景から音が一つ減った。
北街道では絶えず聞こえていた荷車の軋みも、遠くのポンプ音も届かない。膝ほどの草が風に伏し、その上をモンシロチョウの群れだけが白く流れている。
ホーコンは歩幅を一定に保ち、測量鎖を伸ばした。
「ここから先、街道の地図と合いません」
ルアヴエルが携帯地図を開く。
「平原だ。障害物の記載はない」
「だから合わないんです。地図では西へ緩く下るはずなのに、実際は二百歩先から地面が上がっている」
アズが蝶の群れを見る。
「白いままね」
「影の中ではない」
クリストエインは整備工具の革帯を腰へ締め直した。現存錨を手放さないため、彼女だけはホーコンのすぐ後ろを歩く。
「でも、正常っていう感じもしないな。蝶が同じ場所を回ってる」
確かに群れは西へ進んでいなかった。
数百匹が大きな円を描き、その中心だけを避けるように飛んでいる。
ホーコンは境界杭を一本打った。
「ここからは四人で入ります。十歩ごとに杭。ルアヴエルは後方の番号確認。アズは蝶の変化を見てください」
「あなたは?」
「高低差を測る」
アズが少しだけ笑った。
「ちゃんと仕事を分けたわね」
「主ポンプ室で閉じ込められた時に十分学びました」
「十分?」
「……学び始めました」
クリストエインが無表情のまま頷いた。
「そのくらいが正確だと思う」
*
円の中心へ近づくにつれ、草の高さが揃っていった。
十歩。
二十歩。
三十歩。
四十歩目で、測量鎖の先が硬いものへ当たった。
草を分ける。
灰白色の石が地面から斜めに突き出していた。
「自然石じゃない」
ホーコンは表面の泥を払う。
角が取れている。だが四辺は明らかに加工され、土中へ続いている。
ルアヴエルが兵用の短い掘削具を取り出した。
「掘りますか」
「四周だけ。動かさないでください。記録物なら位置そのものが情報になる」
四人で草と土を除く。
やがて、人の背丈ほどある石碑が現れた。
上部には日付が刻まれている。
王国式の年月日だが、暦法院の認証印も、支院番号もない。公的な石碑なら必ずあるはずの二つが欠けていた。ルアヴエルもそれに気づき、指で空いた位置をなぞる。
「軍の慰霊碑でもない。認証なしでこれだけの名を残したのか」
「残したかったから、認証しなかったのかもしれません」
ホーコンは息を止めた。
十二年前。
王国暦から切り取られていた最初の日から、十三日目まで。
「そんな日付、ないはずだ」
ルアヴエルが言う。
「王国暦では、です」
ホーコンは指で刻字をなぞった。
「この石は王国暦の通信線につながっていない。誰かが現場で直接刻んだ」
アズが石碑の下部を見て、顔を上げた。
「日付だけじゃないわ」
細い文字が、何段にも並んでいる。
左に職員番号。
右に人名。
最上段。
第一ポンプ班。
その下に第二ポンプ班、精製班、配管保守班、機関整備班、給水班。
ホーコンは数え始めた。
「二十三、四十一、六十八……」
「百八十七」
クリストエインが言った。
井戸で拾った作業員名札の職員番号も、その列の中にあった。
声が変わっていた。
「最後まで数えたのか?」
「数えなくても分かる」
彼女は石碑へ近づいた。
「この並び、勤務者名簿と同じだ。事故前、主任室に置いてあった一覧。班の順番も、職員番号の並び方も」
指先が、一つずつ名前を追う。
「エドヴァル。給水塔の弁をいつも閉め忘れる人」
次の行。
「マルガ。精製班。昼休みになると工具を勝手に借りに来た」
さらに下。
「オディル。第三配管班。字が汚くて、点検票を読むのにいつも時間がかかった」
名前を口にするたび、クリストエインの表情から十二年の隔たりが消えていく。
彼女にとっては過去ではない。
昨日まで一緒に働いていた人々だ。
アズが静かに尋ねた。
「この人たちは、今どうなっているの?」
ホーコンは答えられなかった。
王国側の事故記録には、百八十七名の死亡記録も行方不明記録もない。
存在そのものが記載されていなかった。
「少なくとも」
ホーコンは石碑を見た。
「この石を刻んだ時点では、誰かが全員の名前を残そうとした。王国暦から消される前に」
ルアヴエルが周囲を見る。
「では、なぜ石碑は消されなかった」
「登録されていなかったからでしょう」
「記録されていない物の方が、記録を消す力から逃れた?」
「皮肉ですが」
ホーコンは頷いた。
「可能性は高いです」
その時、モンシロチョウが一斉に石碑へ降りた。
名前の刻まれた面を白い翅が覆う。
一匹も落ちない。
一匹も黒くならない。
ここだけは、神の影に食われていない。
「独立した記録」
ホーコンは呟いた。
「王国暦につながらない記録なら、名前を残せる」
ブレントが作り始めた三系統の住民名簿が頭に浮かぶ。
同じことを、十二年前の誰かも考えていたのかもしれない。
「写します」
ホーコンは測量野帳を開いた。
「全員分。番号も名前も。四人で別々に」
「一人でやらないのね」
アズが言う。
「一冊消されたら終わりですから」
「いい答え」
四人は石碑を四方向から写し始めた。
*
最後の行を書き終えた頃、日が西へ傾いていた。
クリストエインだけが、まだ石碑の前に立っている。
「どうしました」
ホーコンが尋ねる。
「もう一度、最初から見た」
「誤記が?」
「違う」
彼女の右手が、腰の整備工具を強く握っていた。
「百八十七人いる。書かれている番号と名前は、私が覚えてる名簿と全部一致する」
「なら——」
「でも、名簿は百八十八人だった」
ホーコンの手が止まった。
「一人だけいない」
ホーコンは石碑へ向き直った。
クリストエインは、自分の所属していた機関整備班の列を指す。
列の途中に、番号が一つだけ飛んでいる箇所がある。
七一二。
クリストエインが自分の工具箱へ刻んでいた職員番号だった。
石工が刻み忘れたような空白ではない。前後の行間は詰め直され、初めから七一二番など存在しなかったように並んでいる。
だが、そこに彼女の名前はなかった。
事故の日に働いていた者のうち、百八十七名の名前を残した石碑。
そのどこにも。
クリストエインという名だけが刻まれていない。




