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熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第一部 越境 (Crossing Disciplines)

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9/30

第9話 熱は冷たさを生み出す

 翌朝。


 木村が研究室へ入ると、教授はすでに机の上へ何冊もの資料を並べていた。


 昨日まで読んでいた設備仕様書とは少し違う。


 表紙には、大きくこう書かれている。


 **吸収式冷凍機 技術資料**


 木村は思わず足を止めた。


「先生、本当に今日からこれをやるんですか。」


 教授は穏やかに頷く。


「昨日、夏だけモデルが合わなかった理由を見つけましたね。」


「はい。」


「なら今日は、その理由を理解する日です。」


 木村は資料を開いた。


 中には配管図や温度線図、機器構成図が並んでいる。


 見慣れない単語ばかりだった。


 吸収器。


 再生器。


 凝縮器。


 蒸発器。


 まるで別の世界の教科書を読んでいるようだった。


「難しそうですね……。」


「最初は誰でもそう思います。」


 教授はホワイトボードへ歩き、黒いペンで大きな円を描いた。


 その中央に、一文字だけ書く。


 **熱**


「木村君。」


「熱には、どんな使い道があると思いますか。」


 木村は少し考える。


「暖房です。」


「給湯。」


「ボイラー。」


「蒸気。」


 教授は一つひとつ頷いた。


「どれも正解です。」


 そう言うと、円から一本の矢印を伸ばし、「暖房」と書いた。


 続いて、反対側にも矢印を一本引く。


 その先に書かれた文字を見て、木村は思わず読み返した。


 **冷房**


「……やっぱり不思議です。」


「昨日からずっと考えているんですが、熱で冷やすというのが想像できません。」


 教授は笑みを浮かべた。


「では逆に聞きます。」


「エアコンは、どうやって部屋を冷やしていると思いますか。」


「冷媒を圧縮して……。」


 木村は大学の講義で習った内容を思い出しながら答える。


「電気でコンプレッサーを回して、冷媒を循環させています。」


「その通りです。」


 教授はホワイトボードの右側へ、小さく「電気」と書いた。


「では、コンプレッサーの代わりに熱を使えばどうでしょう。」


「……え?」


 木村は眉をひそめた。


「そんなことができるんですか。」


「できます。」


 教授は迷いなく答えた。


「吸収式冷凍機は、電気の代わりに熱を利用して冷水を作る機械です。」


 木村は資料の表紙へもう一度目を落とした。


 昨日までは、ただの設備名だった。


 しかし今日は違う。


 これから理解しようとしているのは、一台の機械ではない。


 **熱の使い道そのもの**だった。


 教授は新しいページを開く。


 そこには一枚の模式図が描かれていた。


 配管の中を矢印が巡り、熱が別の場所へ移動していく。


「今日は、この一枚の図だけ理解できれば十分です。」


「吸収式冷凍機は、熱を消す機械ではありません。」


「熱を動かす機械なんです。」


 木村は静かに頷き、ノートを開いた。


 ページの一番上に、ゆっくりと書く。


 **『熱は、冷たさも生み出す。』**


 昨日までの常識を書き換える、一日が始まろうとしていた。




#


 教授はホワイトボードへ新しい図を描き始めた。


 四つの箱を並べ、その間を矢印で結んでいく。


 **蒸発器**


 **吸収器**


 **再生器**


 **凝縮器**


「吸収式冷凍機は、この四つの工程を繰り返して冷水を作ります。」


 木村は図を見つめながら眉をひそめた。


「先生。」


「これ全部、モデルに入れるんですか。」


 教授は首を横に振る。


「いいえ。」


「全部入れたら、今度は計算が終わりません。」


 木村は少し安心したように息をつく。


「じゃあ、どこまで再現するんですか。」


「それを考えるのが研究です。」


 教授はマーカーを置き、四つの箱のうち二つを線で消した。


 残ったのは、熱の入力と冷水の出力だけだった。


「私たちが知りたいのは、内部で何が起きているかではありません。」


「どれだけの熱を入れれば、どれだけの冷水が得られるかです。」


 木村はホワイトボードと資料を何度も見比べる。


「つまり……。」


「機械そのものを作るんじゃなくて、機械の振る舞いだけを再現する。」


 教授は満足そうに頷いた。


「その通りです。」


「モデルとは、本質だけを残した現実です。」


 木村はパソコンへ向かい、新しいクラスを作成する。


 **AbsorptionChiller**


 画面には、まだ何も書かれていない。


 仕様書を開き、必要な項目を書き出していく。


 冷房能力。


 投入熱量。


 冷水出口温度。


 効率。


 最低負荷率。


 一覧にすると、それだけでも十分な数になった。


「また増えましたね……。」


 木村は苦笑する。


 山口が画面をのぞき込み、笑った。


「設備が一台増えるだけで、モデルは一気に複雑になります。」


「だから現実を全部再現しようとすると、永遠に終わりません。」


 木村はキーボードを打つ手を止めた。


「昨日までは、できるだけ細かく作るのが正しいと思っていました。」


 教授は静かに言う。


「細かいことと、良いモデルは別です。」


「必要なものを残し、不必要なものを捨てる。」


「その判断こそが、研究者の仕事です。」


 その言葉を聞いた木村は、仕様書の端へ小さくメモを書いた。


 **『すべてを作るのではない。本質を作る。』**


 昨日までは設備を理解することに必死だった。


 今日は、その設備をどう単純化するかを考えている。


 同じモデル作りでも、見えている景色は少しずつ変わり始めていた。


 木村は新しく追加したコードを保存し、静かに息をつく。


「よし……。」


「まずは夏だけ動かしてみよう。」





#


 木村は吸収式冷凍機のモデルを追加し、深く息を吐いた。


 コードの行数は昨日よりもさらに増えている。


 だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 一つの設備を理解するたびに、現実へ近づいている実感があった。


「先生。」


「とりあえず、夏だけ計算してみます。」


 教授は静かに頷く。


「まずは一歩ずつです。」


 木村は実行ボタンを押した。


 モニターに進捗バーが現れる。


 **シミュレーション実行中**


 **対象期間 7月~9月**


 **推定時間 一分五十二秒**


「一年よりずいぶん速いですね。」


 山口が笑う。


「範囲を絞れば、その分だけ試行錯誤できます。」


「研究では、全部を毎回計算するより、小さく確認しながら進める方が効率的なんです。」


 木村は画面を見つめながら頷いた。


 昨日までは、とにかく一年分を動かそうとしていた。


 しかし今日は違う。


 確認したい現象だけを切り出す。


 それもまた、研究の進め方なのだ。


 やがて進捗バーが一〇〇%になる。


 解析画面を開く。


 木村は真っ先に評価指標へ目を向けた。


 **RMSE**


 **0.42 → 0.24**


「半分近くまで……。」


 思わず声が漏れる。


 昨日まで大きく離れていたグラフが、今日はかなり近づいていた。


 完全ではない。


 それでも、明らかに違う。


 教授は静かにグラフを眺めながら言う。


「設備を一台追加しただけです。」


「それでもモデル全体は、これほど変わります。」


 木村は改めて画面を見つめる。


 一つの設備。


 一つの仮定。


 それだけで結果が大きく変わる。


 モデルとは、そんな繊細な世界だった。


「先生。」


「これなら夏も説明できますね。」


 教授はすぐには答えなかった。


 代わりにマウスを操作し、冬の結果を表示する。


 木村は首をかしげた。


「冬ですか。」


 画面に現れた評価指標を見て、思わず表情が固まる。


 **RMSE**


 **0.08 → 0.13**


「え……。」


 冬の誤差が少し大きくなっていた。


 夏を改善したはずなのに。


 教授は穏やかな表情のまま言う。


「モデルは一か所を直せば、別の場所にも影響します。」


「だから研究者は、一つの数字だけを見ません。」


「全体のバランスを見るんです。」


 木村はグラフを見比べる。


 夏は良くなった。


 冬は少し悪くなった。


 どちらを優先すべきなのか。


 簡単には答えが出ない。


 山口が苦笑しながら言った。


「だからモデル作りは終わらないんですよ。」


「一つ直せば、また次の課題が見つかります。」


 木村は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「研究って……。」


 思わず笑ってしまう。


「完成したと思ったら、また宿題が増えるんですね。」


 教授も小さく笑った。


「その宿題を面白いと思える人だけが、研究者になれるのかもしれません。」


 木村はもう一度モニターへ向き直る。


 赤い線と青い線は、昨日より確かに近づいている。


 だが、まだ重なってはいない。


 そのわずかな隙間が、次の研究テーマだった。





#


 数日後。


 吸収式冷凍機のモデルを何度も修正し、木村は再び一年間のシミュレーションを実行した。


 研究室には、キーボードを叩く音だけが静かに響く。


 進捗バーがゆっくりと右へ伸びていく。


 木村は画面を見つめたまま、小さく息をのんだ。


 やがて計算が終了する。


 解析画面には、一年分の結果が表示された。


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 四つの季節のグラフが並ぶ。


 木村は一枚ずつ確認していく。


 春は重なる。


 夏も、昨日までよりはるかに近い。


 秋も大きなずれはない。


 冬も許容範囲に収まっている。


「先生……。」


 教授は木村の隣へ歩み寄る。


 二人はしばらく無言で画面を見つめた。


 やがて教授が静かに言う。


「ここまで再現できれば、現実を説明するモデルとして十分です。」


 木村は思わず笑みを浮かべた。


「やっと、一年を通して動きました。」


 教授は頷く。


「ええ。」


「これで、年間熱利用モデルの土台ができました。」


 その言葉を聞き、木村は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 数週間前まで、自分はボイラーすら知らなかった。


 それが今では、一年分の熱の流れをモデルとして再現している。


 確かに前へ進んでいた。


 だが、そのときだった。


 教授が別の画面を開く。


「木村君。」


「こちらも見てください。」


 表示されたのは、先ほどまでとは違うグラフだった。


 エネルギーフロー。


 施設へ投入された熱。


 暖房へ使われた熱。


 冷房へ使われた熱。


 そして、一番太い赤い矢印。


 **未利用排熱**


 木村は目を見開く。


「こんなに……。」


 利用された熱よりも、使われずに外へ捨てられる熱の方がはるかに多かった。


「先生。」


「モデルは完成したのに、まだこんなに無駄があるんですか。」


 教授は静かに頷く。


「モデルを作ることは目的ではありません。」


「本当の目的は、この熱の行き先を考えることです。」


 木村は赤い矢印を見つめ続けた。


 今までは、モデルが現実と一致することだけを考えていた。


 しかし、その先にはもっと大きな問いがあった。


 この熱は、どこへ行くのか。


 捨てるしかないのか。


 利用する方法はないのか。


 教授は窓の外へ目を向ける。


 夕暮れの街並み。


 無数のビル。


 煙突から立ち上る陽炎。


「街では、今日も大量の熱が生まれています。」


「そのほとんどは、居場所を見つけられないまま捨てられている。」


 木村も窓の外を見る。


 今まで見慣れていた街が、少し違って見えた。


 建物。


 道路。


 空調設備。


 どこからも、目には見えない熱が流れ出している気がした。


 教授は静かに言う。


「私たちが探しているのは、熱の答えではありません。」


「熱の居場所です。」


 その一言が、木村の胸に深く刻まれた。




#


 夜の研究室。


 教授と山口が帰ったあとも、木村だけは机に残っていた。


 窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。


 昼間は気にも留めなかった景色だった。


 けれど今日は違う。


 あのビルも。


 あの病院も。


 あの工場も。


 目には見えない熱を生み出している。


 木村はノートを開き、今日の日付を書いた。


 その下に、ゆっくりと一行だけ記す。


 **『熱は、捨てられているのではない。居場所を失っている。』**


 ペンが止まる。


 しばらくその言葉を眺めたあと、小さく笑った。


「昨日までの僕なら、こんなこと考えもしなかったな。」


 以前の自分は、計算が合うことだけを目標にしていた。


 今は違う。


 モデルは目的ではなく、現実を理解するための道具だ。


 その道具を使って、人がまだ気づいていない問題を見つける。


 それが研究なのだと、少しだけ分かった気がした。


 パソコンの画面には、一年間のエネルギーフロー図が表示されたままになっている。


 赤い矢印。


 未利用排熱。


 木村はその矢印を見つめながら、新しいメモを一つ追加した。


 **『排熱利用の可能性』**


 まだ中身は空白だった。


 だが、その空白には次の研究が待っている。


 木村はノートを閉じ、研究室の照明を消した。


 廊下へ出ると、夜風は昼間より少しだけ涼しく感じた。


 エレベーターを待ちながら、木村はふと窓の外を見た。


 街は何も変わっていない。


 変わったのは、自分の見方だった。


 あらゆる建物が熱を生み、その熱はどこかへ消えていく。


 その当たり前だった景色が、今は一つの研究テーマに見えていた。


 木村は静かにエレベーターへ乗り込む。


 閉まりゆく扉の向こうで、研究室の明かりが消える。


 しかし、木村の中で生まれた問いは、まだ消えてはいなかった。


 **「あの熱にも、帰る場所はあるのだろうか。」**


 その答えを探すための明日が、また始まろうとしていた。


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