表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第一部 越境 (Crossing Disciplines)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/30

第8話 モデルの進化

 翌朝、研究室に入った木村は、誰もいない静かな部屋で足を止めた。


 大型モニターには、昨日のシミュレーション結果がそのまま映し出されている。


 青い線が現場データ。


 赤い線が自分のモデル。


 遠目には重なって見える二本の線も、拡大すると少しずつずれていた。


 木村は椅子へ腰を下ろし、画面を見つめる。


「あと少しなんだけどな……。」


 思わず漏れた独り言は、静かな研究室へ吸い込まれていった。


 昨日の結果は決して悪くなかった。


 需要予測は以前より精度が上がり、ボイラー制御も改善された。


 それでも、現場で実際に運転されたデータと比べれば、まだ埋められない差が残っている。


 その差が何なのか。


 昨夜は布団に入ってからも考え続けたが、答えは出なかった。


 木村はノートを開く。


 昨日書いた最後の一文が目に入る。


 **『現場は、思ったより複雑だった。』**


 そこへ研究室の扉が静かに開いた。


「おはようございます。」


 佐々木教授だった。


 片手には湯気の立つマグカップ。


 もう片方には数冊の論文が抱えられている。


「昨日の結果を見ていたのですか。」


「はい。」


 木村は苦笑しながら頷いた。


「惜しかったです。」


「あと少しで一致しそうなのに、どうしても最後が合いません。」


 教授はモニターの前へ立ち、二本のグラフをしばらく眺めていた。


 やがて、小さく頷く。


「良い失敗でした。」


 木村は思わず教授を見る。


「失敗なのに、ですか。」


「ええ。」


 教授は笑みを浮かべる。


「研究は、失敗した理由が分かった瞬間から前へ進みます。」


「何も分からず終わる失敗が、一番もったいないのです。」


 木村はもう一度グラフへ目を向けた。


 確かに昨日は負けた。


 だが、何に負けたのかは分かっている。


 現場を知らなかった。


 設備を知らなかった。


 その事実だけでも、一歩前へ進んでいるのかもしれない。


 教授はホワイトボードへ向かうと、黒いマーカーで三つの言葉を書いた。


 **現実。**


 **モデル。**


 **シミュレーション。**


 三つを矢印で結び、木村へ振り返る。


「木村君。」


「モデルとは何だと思いますか。」


 突然の問いに、木村は考え込む。


「現実を……コンピューターの中で再現したもの、でしょうか。」


「半分正解です。」


 教授は一本の線を引いて「現実」の文字を囲んだ。


「現実には、数え切れないほどの要素があります。」


「天気、設備、人、季節、故障、運転員の判断。」


「そのすべてを再現しようとしたら、計算は終わりません。」


 木村は静かに頷いた。


 確かに、現実は複雑すぎる。


「だから私たちは削ります。」


 教授は今度は「モデル」の文字を丸で囲む。


「必要なものだけを残し、不要なものを捨てる。」


「現実を理解するために、ちょうど良い形へ単純化する。」


「それがモデルです。」


 木村はその言葉をノートへ書き写した。


 **『モデルとは、現実を理解するための地図である。』**


 書き終えた瞬間、不思議と胸の中が少し軽くなった。


 昨日まで、自分は現実をそのまま再現しようとしていた。


 だから要素が足りないたびに焦り、もっと複雑なプログラムを書こうとしていた。


 しかし違う。


 必要なのは、現実を丸ごと写すことではない。


 現実を理解できる形へ整理することだった。


 そのとき、研究室の扉が再び開いた。


「おはようございます。」


 山口が分厚いファイルを抱えて入ってくる。


「設備メーカーから仕様書が届きました。」


 机の上へ置かれたファイルは、思わず笑ってしまうほど分厚かった。


「こんなにあるんですか。」


「設備って、意外とおしゃべりなんですよ。」


 山口は笑いながら答える。


「性能も、制約も、運転条件も、全部数字で話してくれます。」


 木村は最初のページを開いた。


 ボイラー。


 ポンプ。


 蓄熱槽。


 そこには昨日まで知らなかった数字が、びっしりと並んでいる。


 昨日の敗北は終わった。


 今日からは、その数字を一つずつ理解しながら、現実へ近づいていく番だった。


 木村はパソコンを立ち上げ、新しいモデルの設計を始めた。




#


 設備仕様書は想像以上に分厚かった。


 ボイラーだけでも数十ページ。


 その後ろにはポンプ、蓄熱槽、熱交換器、配管の仕様が続いている。


 木村はページをめくりながら苦笑した。


「昨日までは、熱需要さえ分かれば計算できると思っていました。」


 山口がコーヒーを片手に隣へ腰を下ろす。


「僕も配属された頃は同じでした。」


「でも、設備って思った以上にわがままなんです。」


「わがまま?」


「ええ。人間の都合では動いてくれません。」


 山口は仕様書の一ページを開き、ある数字を指差した。


 **最低負荷率 40%**


「これです。」


「ボイラーは四〇%以下の出力では、安定して燃焼できません。」


「だから二〇%だけ動かそう、と言われても無理なんです。」


 木村は思わず画面へ目を向けた。


 昨日のプログラムを開く。


 ボイラー出力は〇%から一〇〇%まで自由に変化する設定になっていた。


「あ……。」


 昨日のグラフが頭の中によみがえる。


 現場では止まっていたボイラーが、シミュレーションでは低出力のまま動き続けていた。


 あの違和感の正体だった。


「つまり昨日のモデルは、現実には存在しないボイラーを動かしていたんですね。」


 教授が静かに頷く。


「その通りです。」


「モデルは計算ができれば良いわけではありません。」


「現実に存在する設備でなければ意味がないのです。」


 木村はすぐにプログラムを修正し始めた。


 最低負荷率。


 起動時間。


 停止条件。


 ボイラーが一度停止したあと、すぐには再起動できない制約も追加する。


 コードが少しずつ長くなっていく。


 その横で山口は次の資料を開いた。


「今度はポンプです。」


「こちらも回転数に制限があります。」


「流量を自由に変えられるわけではありません。」


「こっちもか……。」


 木村は思わず笑ってしまう。


 昨日までは、設備とは「熱を運ぶ箱」くらいにしか考えていなかった。


 しかし実際には、一つ一つに個性がある。


 できること。


 できないこと。


 得意な運転。


 苦手な運転。


 それらが積み重なって、一つの地域冷暖房システムを支えているのだ。


 昼を過ぎる頃には、机の上は仕様書とメモで埋め尽くされていた。


 ノートには数字よりも文章の方が多くなっている。


 **『設備にも性格がある。』**


 そんな一文を書き込み、自分で少し笑う。


 工学の研究なのに、人間を理解しているような気分だった。


 教授はその様子を見て、静かに口を開いた。


「木村君。」


「設備を覚える必要はありません。」


「大切なのは、設備がなぜその制約を持っているのかを理解することです。」


 木村は顔を上げた。


 教授は仕様書を閉じながら続ける。


「数字は現象の結果です。」


「研究者は、その数字の向こう側にある理由を考えます。」


 その言葉を聞いた瞬間、木村の中で何かがつながった。


 昨日までは、プログラムを作っているつもりだった。


 しかし今、自分が向き合っているのはコードではない。


 現実そのものなのだ。


 木村は深く息を吸い、最後の修正を保存した。


「先生。」


「もう一度、動かしてみます。」




#


 木村は深く息を吸い、キーボードに手を置いた。


 これまで追加した設備制約を一つひとつ確認する。


 最低負荷率。


 起動時間。


 停止条件。


 ポンプの流量制限。


 蓄熱槽の容量。


 入力ミスがないことを確かめると、画面右上の「実行」ボタンをクリックした。


 モニターには進捗バーが現れる。


 **シミュレーション実行中**


 **推定時間 三分四十八秒**


「結構かかりますね。」


 木村は椅子にもたれた。


 たった四分足らず。


 それなのに、やけに長く感じる。


 進捗バーは一〇%からなかなか進まない。


 木村は立ち上がり、研究室を一周した。


 窓の外では学生たちが講義へ向かって歩いている。


 自動販売機で缶コーヒーを買い、席へ戻る。


 まだ二分しか経っていなかった。


 山口はその横で論文を読んでいる。


 教授は窓際に立ち、静かにコーヒーを飲んでいた。


 誰も画面を気にしていない。


 落ち着かないのは木村だけだった。


「皆さん、待っていても気にならないんですか。」


 山口が笑う。


「最初だけですよ。」


「そのうち待ち時間で別の仕事ができるようになります。」


 教授も頷いた。


「研究は待つ時間も仕事です。」


「計算している間に次の仮説を考える。その積み重ねが研究者になります。」


 木村は苦笑した。


 自分はまだ、結果が気になって仕方がない。


 ようやく進捗バーが一〇〇%になった。


 画面に「Simulation Completed」の文字が表示される。


 木村はすぐに解析画面を開いた。


 まず目に飛び込んできたのは運転回数だった。


 **ボイラー起動回数**


 **62回 → 44回**


「減った……。」


 続いて年間燃料消費量。


 **4.8%改善**


 さらに現場データとの誤差を示すRMSE。


 **0.37 → 0.21**


 数字が並ぶたび、木村の鼓動は少しずつ速くなる。


「先生。」


「かなり良くなっています。」


 教授はグラフではなく、評価指標の一覧へ目を向けた。


 しばらく無言で数字を追い、ゆっくりと頷く。


「十分ですね。」


 木村は思わず聞き返した。


「十分……ですか。」


「はい。」


 教授はモニターから目を離さず答えた。


「もちろん、現場と完全には一致していません。」


「ですが、この程度の誤差であれば、モデルとして十分に意味があります。」


 木村は少し驚いた。


「百パーセント一致しなくてもいいんですか。」


 教授は穏やかに笑う。


「百パーセント一致するなら、わざわざ研究する必要はありません。」


「研究とは、現実を説明できるモデルを作ることです。」


「説明できる範囲が広がれば、それだけ価値があります。」


 その言葉を聞いた木村は、もう一度グラフを表示した。


 昨日は、ずれている部分しか見えていなかった。


 しかし今日は違う。


 どこまで説明できるようになったのかを見ることができる。


 春。


 秋。


 冬。


 三つの季節では、現場データとシミュレーションがほとんど重なっていた。


 木村の表情に、自然と笑みが浮かぶ。


「ここまで来られたんだ……。」


 だが、その笑みは長くは続かなかった。


 教授が静かにマウスを動かし、グラフを八月へ切り替える。


 真夏の午後。


 赤い線と青い線は、大きく離れていた。


 画面右上の誤差指標も跳ね上がる。


 **RMSE 0.42**


 木村は息をのんだ。


「夏だけ……。」


 春も冬も説明できる。


 それなのに、夏だけは別の世界のように食い違っていた。


 教授は腕を組み、静かに言う。


「さて。」


「次は、この理由を考えてみましょうか。」




#


 研究室は静まり返っていた。


 モニターには一年分のシミュレーション結果が映し出されている。


 春。


 秋。


 冬。


 三つの季節では、現場データとモデルがほぼ重なっていた。


 しかし、八月だけは違う。


 赤い線は大きく上へ膨らみ、青い線はその下を滑るように進んでいる。


 木村はマウスを動かしながら、何度もグラフを拡大した。


「設備制約は入れた。」


「運転条件も見直した。」


「それなのに、どうして夏だけ……。」


 独り言のようにつぶやきながら、運転記録を一つずつ確認していく。


 ボイラー。


 ポンプ。


 蓄熱槽。


 どこにも異常は見当たらない。


 教授は何も言わない。


 山口も黙って木村の様子を見守っていた。


 しばらくして、木村の手が止まる。


 運転日誌の一行が目に入った。


 **『吸収式冷凍機 運転開始』**


「……これだ。」


 思わず声が漏れる。


 木村は別の日の記録も開いた。


 七月。


 八月。


 九月。


 どの日にも同じ設備の名前が書かれている。


「先生。」


「この設備、今までモデルに入れていません。」


 教授は静かに頷いた。


「気付きましたか。」


「はい。」


「でも……。」


 木村は首をかしげる。


「冷凍機ですよね。」


「冷房設備が、なぜ熱利用施設にあるんですか。」


 教授はホワイトボードへ向かう。


 そして、大きく一つの円を書いた。


 その中央に、**熱**とだけ書く。


 そこから二本の矢印を伸ばした。


 一本は**暖房**。


 もう一本は**冷房**。


「熱は、暖めるためだけに使うものではありません。」


「吸収式冷凍機は、熱を使って冷水を作る設備です。」


 木村は目を見開いた。


「熱で……冷やす。」


 その言葉を口にした瞬間、頭の中で今までの点が一本の線につながった。


 冬は暖房需要。


 夏は冷房需要。


 地域冷暖房とは、一年を通して熱を使い切る仕組みだったのだ。


 だから、自分のモデルは夏だけ説明できなかった。


 暖房しか見ていなかったからだ。


 木村は再びグラフへ目を向ける。


 モデルは間違っていない。


 足りなかっただけだ。


 自分は「暖房モデル」を作っていた。


 しかし、教授たちが目指していたのは違う。


 一年を通して熱の流れを再現する、「年間熱利用モデル」だった。


 木村はノートを開き、新しいページにゆっくりと書き込む。


 **『年間熱利用モデル』**


 その文字を見つめながら、小さく息を吐いた。


「ようやく、スタートラインが見えてきた気がします。」


 教授は穏やかに微笑んだ。


「その一歩が見えたなら、今日は十分です。」




#


 その日の夕方。


 研究室には静かなキーボードの音だけが響いていた。


 木村は新しいフォルダを開く。


 昨日まで使っていた「地域冷暖房モデル」の隣に、もう一つフォルダを作成する。


 **年間熱利用モデル**


 短い名前だった。


 しかし、その中身は昨日までとはまったく違う。


 暖房だけではない。


 冷房もある。


 蓄熱もある。


 季節によって変化する熱の流れを、一つのモデルで表現する。


 そんな挑戦が、これから始まる。


 教授は帰り支度をしながら木村の画面を見た。


「いい名前ですね。」


 木村は少し照れくさそうに笑う。


「まだ中身は空っぽですけど。」


「研究は、いつも空っぽのフォルダから始まります。」


 教授は穏やかな口調で言った。


「大切なのは、何を書き込むかです。」


 木村はその言葉を胸の中で繰り返した。


 研究とは、正解を書き写す作業ではない。


 誰も見たことのない答えを、一つずつ積み重ねていく仕事なのだ。


 パソコンの画面には、新しく作られたフォルダだけが静かに表示されている。


 木村はマウスを動かし、それをゆっくりと開いた。


 中には、まだ何もない。


 白い画面が広がるだけだった。


 けれど、その空白は不思議と寂しくなかった。


 むしろ、これから埋めていく余白のように思えた。


 木村はノートを閉じ、研究室の照明を消す。


 廊下へ出ると、夏の夜風が頬をなでた。


 今日解けた謎は、一つ。


 新しく生まれた謎は、それ以上。


 研究とは、答えを見つけるたびに世界が広がっていくものなのかもしれない。


 木村は夜空を見上げ、小さく笑った。


「明日も、続きをやろう。」


 その一言を残し、静まり返った大学の廊下をゆっくりと歩き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ