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熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第一部 越境 (Crossing Disciplines)

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7/30

第7話 制御

 翌朝。


 研究室の窓から差し込む朝日が、机の上のノートパソコンを照らしていた。


 木村は昨日保存した予測モデルを開く。


 画面には、青と赤の折れ線グラフが並んでいる。


 完全ではない。


 それでも、人の暮らしを少しだけ映し出せるようになったグラフだった。


 木村はコーヒーを一口飲み、小さく呟く。


「予測はできた。」


 そこで手が止まる。


「でも……。」


「だから、何だ。」


 熱需要が分かっても、建物は勝手に暖まらない。


 データが増えても、エネルギーは自動で流れない。


 グラフは未来を教えてくれるだけだ。


 未来を変えてはくれない。


 そのとき、佐々木教授が研究室へ入ってきた。


「おはようございます。」


「おはようございます。」


 教授はホワイトボードへ歩き、昨日の図をもう一度書いた。


 **予測**


 ↓


 **制御**


 ↓


 **最適化**


「昨日は予測を学びました。」


「今日は、この二つ目ですね。」


 教授は『制御』の文字を丸で囲む。


「木村君。」


「予測で需要が分かりました。」


「では、その熱は誰が運ぶのでしょう。」


 木村は考え込む。


 熱は電気ではない。


 送電線につなげば終わりではない。


 ポンプ。


 配管。


 熱交換器。


 蓄熱槽。


 設備を動かして初めて、人へ届く。


「設備……ですか。」


「そうです。」


 教授は静かに頷く。


「予測は頭脳です。」


「制御は手足です。」


「どちらが欠けても、社会は動きません。」


 ちょうどそのとき、山口が研究室へ入ってきた。


 手には一冊のファイルがあった。


「先生、昨日お願いされていた資料です。」


「ありがとう。」


 教授はそのファイルを木村へ差し出す。


 表紙には、


 **『地域冷暖房施設 運転データ(提供資料)』**


 と書かれていた。


 木村は思わず顔を上げる。


「実際の運転データですか?」


「ええ。」


 教授は微笑む。


「君の予測モデルを、このデータで試してみましょう。」


「机の上で考えた制御が、現場でも通用するのか。」


 木村はファイルを開く。


 そこには一時間ごとの熱需要、設備の運転状況、蓄熱槽の温度変化、ポンプの稼働記録がびっしりと並んでいた。


 予想以上の情報量だった。


 木村は自然と笑みを浮かべる。


「面白くなってきました。」


 研究は、予測から制御へ。


 そして、机の上の理論は、初めて現実と向き合おうとしていた。





 木村は資料を机いっぱいに広げた。


 地域冷暖房施設。


 運転データは想像していたよりも膨大だった。


 熱需要。


 外気温。


 供給温度。


 戻り温度。


 蓄熱槽の温度。


 ポンプの流量。


 ボイラーの運転記録。


 画面には数字が延々と並んでいる。


「……すごい。」


 木村は思わず息をのんだ。


「昨日まで扱っていたデータとは、まるで別物ですね。」


 山口が椅子を引き寄せる。


「昨日は『何が起きたか』を見るデータでした。」


「今日は『どう動かしたか』を見るデータです。」


 木村は一つの時刻へ目を止めた。


 午前七時。


 熱需要が増え始める少し前。


 ポンプが動き出している。


「需要が増える前に動いてる……。」


「そうです。」


 山口は画面を指差す。


「需要が増えてから動かすんじゃ遅いんです。」


「配管の中を熱が移動するにも時間がかかりますから。」


 木村はなるほどと頷く。


 予測は未来を見る技術。


 制御は、その未来を見越して先に動く技術。


 昨日教授が言っていた意味が、少しずつ分かってきた。


 さらにデータを追っていく。


 昼過ぎ。


 外気温は上がっている。


 しかしボイラーは止まらない。


「ここは、どうしてですか。」


 教授が資料を覗き込む。


「蓄熱槽です。」


「昼のうちに熱を貯めています。」


「夜の需要へ備えているのですよ。」


 木村は驚いた。


「需要がないのに熱を作るんですか。」


「ええ。」


「効率の良い時間帯に熱を作り、必要な時間まで残しておく。」


「それも制御です。」


 木村は画面を見つめる。


 昨日まで熱は、その場で使うものだと思っていた。


 しかし現実では違う。


 未来を見越して熱を動かしている。


 数字の羅列だった運転記録が、一つの意思を持って動いているように見えてきた。


「面白い……。」


 木村は思わず笑う。


「まるで設備が未来を知っているみたいです。」


 教授も微笑む。


「未来を知っているのではありません。」


「未来を予測し、それに合わせて人が設備を動かしているのです。」


 その一言で、木村の視線が変わった。


 昨日作った予測モデル。


 今日見ている運転データ。


 二つは別々の研究ではない。


 一つにつながっている。


 木村はノートを開き、大きく書き込む。


 **『予測だけでは熱は届かない。制御があって初めて社会で使える。』**


 その文字を見つめながら、木村は静かに息を吐いた。


「先生。」


「もし、この運転を僕のモデルでやったら……。」


 教授は頷く。


「それを、これから試してみましょう。」


 研究室の空気が少しだけ引き締まる。


 机の上の理論は、いよいよ現場の運転と比べられることになる。





 木村はノートパソコンへ向き直った。


 実データを見ながら、自分なりの制御ルールを書いていく。


 熱需要が増えそうなら、ボイラーを動かす。


 需要が減れば、停止する。


 余った熱は蓄熱槽へ送る。


 できるだけ単純に。


「まずはこれで。」


 実行ボタンを押す。


 シミュレーションが始まった。


 画面には設備の運転状況が次々と表示される。


 ボイラー。


 ポンプ。


 蓄熱槽。


 時間とともに数字が変化していく。


「動いてる……。」


 木村は身を乗り出した。


 計算そのものは成功した。


 制御も一応成立している。


 しかし、結果を見た瞬間、表情が曇った。


「熱ロスが増えてる。」


 昨日までのモデルでは見えなかった数字だった。


 必要以上にボイラーが起動し、蓄熱槽への出し入れも増えている。


 設備は動いている。


 だが、無駄も増えていた。


 木村は現場の運転記録を並べて表示する。


 二つのグラフを見比べる。


「……違う。」


 現場では、もっと少ない回数でボイラーを動かしていた。


 蓄熱槽も、必要なときだけ使われている。


 木村のモデルは、熱需要だけを見て反応している。


 現場は、その先まで読んで動いていた。


 山口が静かに言う。


「現場の方が上ですね。」


 悔しかった。


 木村は唇を噛む。


「負けました。」


 教授は穏やかに微笑む。


「誰にですか。」


「現場の運転です。」


「そうですね。」


 教授は資料を閉じる。


「では、なぜ負けたのでしょう。」


 木村は画面を見つめる。


 予測は間違っていない。


 制御も動いている。


 それでも結果は届かない。


「……情報が足りません。」


「その通りです。」


 教授はホワイトボードへ歩く。


 そして、


 **熱需要**


 の横へ、


 **設備制約**


 と書き加えた。


「設備には限界があります。」


「ボイラーは無限に動けません。」


「ポンプにも能力があります。」


「蓄熱槽にも容量があります。」


「そして設備は、効率が最も良い運転領域があります。」


 木村ははっとした。


 自分は熱だけを見ていた。


 設備を見ていなかった。


「研究というのは。」


 教授は振り返る。


「現実に負けるところから始まります。」


 研究室が静まり返る。


 木村はもう一度、運転データへ目を向けた。


 そこには数字しか並んでいない。


 だが、その数字の向こうには、長年積み重ねられてきた現場の知恵が確かに存在していた。


 木村はゆっくりとノートを開く。


 そして一行だけ書き加える。


 **『制御とは、設備を理解することでもある。』**



 木村は何度もシミュレーションを回した。


 制御条件を少し変える。


 ポンプの起動時間を調整する。


 ボイラーの停止条件を書き換える。


 蓄熱槽の使用量を変えてみる。


 そのたびに結果は変わる。


 だが、現場の運転には届かない。


 熱ロス。


 燃料消費。


 設備の稼働回数。


 どれかを良くすると、別の何かが悪くなる。


「……難しい。」


 木村は椅子にもたれかかった。


「一つ良くすると、一つ悪くなる。」


「全部を良くする方法はないんですね。」


 教授は静かに頷く。


「ありません。」


 その一言は意外だった。


 木村は顔を上げる。


「ないんですか。」


「研究とは、最高の答えを探すことではありません。」


「限られた条件の中で、最も良い選択を探すことです。」


 教授はホワイトボードへ歩く。


 そして三つの言葉を書く。


 **効率**


 **コスト**


 **安定性**


「例えば効率だけを求めれば、設備への負担が増えるかもしれません。」


「コストだけを優先すれば、利用者が快適ではなくなるかもしれません。」


「安定性だけを重視すれば、設備は大きくなり、建設費が増えます。」


「何を優先するか。」


「それが制御です。」


 木村は画面を見つめた。


 今まで正解が一つあると思っていた。


 しかし現実には、目的によって答えは変わる。


 病院なら安定性。


 工場ならコスト。


 住宅なら快適性。


 同じ熱でも、求められるものは違っていた。


 山口が静かに言う。


「だから現場には、運転員がいるんです。」


「設備は、自分では決められませんから。」


 木村は大きく息を吐いた。


 シミュレーションを閉じることはしなかった。


 代わりに、新しいファイルを作成する。


 タイトルは、


 **『制御目的の比較』**


 と入力した。


 教授が小さく笑う。


「どうしました。」


「勝とうとするのをやめました。」


 木村は穏やかに答えた。


「まずは、何を目標にするか整理します。」


 教授は満足そうに頷いた。


「その問いが立てられたなら、今日の研究は成功です。」


 研究室には再び静かなキーボードの音が響き始めた。


 木村はようやく理解した。


 制御とは設備を動かす技術ではない。


 **何を大切にするかを決める技術**なのだ。




 研究室を出ると、夜風が昼間の暑さを少しだけ和らげていた。


 大学の建物には、まだ多くの明かりが灯っている。


 誰かが実験を続け、誰かが論文を書き、誰かが新しい問いと向き合っている。


 木村はゆっくり歩きながら、今日一日の研究を思い返していた。


 予測は未来を見る。


 制御は未来に備える。


 しかし、それだけでは十分ではなかった。


 設備には限界がある。


 コストにも限界がある。


 どれだけ優れた予測をしても、熱は好きな時間まで待ってはくれない。


 ふと、木村は足を止めた。


「もし……。」


 小さく呟く。


「熱そのものを、好きな時間まで残せたら。」


 その瞬間、頭の中で点と点がつながる。


 予測。


 制御。


 そして、その間にある大きな空白。


 **時間。**


 熱は場所だけではない。


 時間もまた、乗り越えなければならない壁だった。


 翌朝、研究室へ入ると、佐々木教授がホワイトボードに一つだけ言葉を書いていた。


 **『蓄熱』**


 木村はその文字を見つめ、小さく笑う。


「やっぱり、そこへ行き着くんですね。」


 教授も穏やかに笑った。


「制御を考えた人は、必ず次にそこへたどり着きます。」


「では。」


「次は、時間を相手にしてみましょう。」


 木村はノートを開き、新しいページの一行目に書き込む。


 **『熱は、未来へ残せるのか。』**


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