第6話 予測
翌朝。
木村は研究室へ着くと、真っ先にノートパソコンを開いた。
昨日の研究メモが画面いっぱいに表示される。
最後のページには、一行だけ残されていた。
**『熱は、貯めるものではない。未来へ託すものだ。』**
木村はその言葉をしばらく眺め、小さく息を吐いた。
悪くない考えだと思う。
だが、研究は言葉で終わらない。
仮説は証明して初めて研究になる。
「未来へ託す……か。」
小さく呟き、新しいページを開く。
タイトルを入力する。
**『熱需要予測モデル』**
白い画面の中でカーソルだけが静かに点滅していた。
昨日、蓄熱という考え方を学んだ。
必要な熱だけを蓄え、必要なときに使う。
その発想は合理的だった。
だが、一つだけ答えが見つからない問いがある。
――その「必要」は、誰が決めるのだろう。
今日必要な熱。
明日必要な熱。
一週間後の熱。
まだ存在していない未来を、どうやって決めればいい。
木村は椅子にもたれ、天井を見上げた。
情報工学では予測モデルを作ることは珍しくない。
交通量。
物流。
電力需要。
株価。
AIは膨大なデータから規則を見つけ、人には見えない傾向を学習する。
ならば、熱需要も予測できるのではないか。
そう考えた瞬間、木村は首を横へ振る。
「違う。」
「予測したいんじゃない。」
「予測できるか確かめるんだ。」
結論を信じて研究することと、結論を疑いながら研究することは違う。
その違いを、この研究室へ来てから何度も教えられてきた。
AIはこれからも発展し続ける。
生成AIは一年ごとに性能を塗り替え、計算量は増え続けている。
十年後には、今では想像もつかない規模のデータセンターが動いているかもしれない。
もし、その熱を捨て続ける社会のままなら。
どれほど優れたAIでも、いつかエネルギーの壁にぶつかる。
だから木村は、この研究をしている。
未来のAIを止めないために。
そこへ、佐々木教授がコーヒーカップを片手に研究室へ入ってきた。
「今日も早いですね。」
「昨日から気になっていたことがあって。」
木村は画面を見せた。
「熱需要を予測できれば、蓄熱設備をもっと効率よく動かせると思うんです。」
「でも、何を学習させればいいのか分からなくて。」
教授は画面を見つめ、静かに頷いた。
「では、一つ質問です。」
木村は姿勢を正す。
「昨日の姫路は暑かったですか。」
「はい。」
「その一言だけで、今日の熱需要は予測できますか。」
木村は少し考え、首を横へ振った。
「できません。」
「休日なら工場は止まっています。」
「学校も休みかもしれません。」
「夜なら昼ほど冷房は使われない。」
「気温だけでは足りません。」
教授は穏やかに微笑む。
「その通りです。」
「研究とは、単純に見える現象の中から、見落としている条件を探す仕事です。」
そう言って窓の外へ目を向けた。
通学する学生。
荷物を運ぶ業者。
キャンパスを掃除する職員。
「同じ朝でも、それぞれ違う一日を始めています。」
「社会とは、多くの人の営みが重なってできているものです。」
「熱需要も、その例外ではありません。」
木村も窓の外を見る。
人が歩く。
働く。
学ぶ。
休む。
その積み重ねが、一日の熱需要という一本の線になる。
「今日から見る相手は、熱ではないのかもしれませんね。」
木村が呟くと、教授は小さく笑った。
「ええ。」
「数字を追い続けると、最後は必ず人へたどり着きます。」
「それが、この仕事の面白さですよ。」
その言葉を胸に刻みながら、木村は気象データのサイトを開いた。
未来を予測する研究は、未来を見ることから始まるのではない。
今日という一日を、誰よりも丁寧に知ることから始まるのだった。
##
研究室のモニターには、いくつものグラフが並んでいた。
横軸は日付。
縦軸は熱需要。
気象庁から取得した気温データ、自治体が公開しているエネルギー統計、電力需要の推移。それらを一つずつ整理し、木村は画面へ映し出していく。
数字だけだったデータが、折れ線となって姿を現した。
「思ったより、きれいな変化をしていますね。」
夏は低く、冬は高い。
季節ごとの変化は想像どおりだった。
木村はグラフを見ながら頷く。
「これなら、気温だけでも予測できそうです。」
その言葉を聞いた佐々木教授は、何も答えず画面の一か所を指差した。
二月のある一週間。
気温はほとんど変わっていない。
それにもかかわらず、熱需要だけが大きく落ち込んでいた。
「どうして……。」
木村は首をかしげる。
「まずは調べてみましょう。」
教授に促され、日付を検索する。
やがてカレンダーを見た木村は、小さく声を漏らした。
「三連休……。」
工場。
学校。
オフィス。
街そのものの動きが変わっていた。
「なるほど。」
木村は苦笑する。
「熱を使うのは建物じゃない。」
「そこにいる人なんですね。」
教授は静かに頷いた。
「建物は、自分から熱を欲しません。」
「人が集まり、暮らし、働くから熱が必要になるのです。」
そのとき、実験室の扉が開いた。
白衣姿の山口が、測定器のケースを抱えて戻ってくる。
「お疲れさまです。」
木村が声を掛けると、山口は笑ってケースを机へ置いた。
「今日は実験ですか。」
「PCMの熱容量を測ってきました。」
ケースの中には、小さな試験片がいくつも並んでいる。
木村は興味深そうに覗き込んだ。
「これだけで何時間もですか。」
「ええ。」
山口は苦笑した。
「測定より、準備の方が長いくらいですよ。」
教授がグラフを見せる。
「木村君が、気温だけで予測できると言っていたところです。」
「ああ。」
山口はグラフを見るなり笑った。
「私も最初はそう思いました。」
「違ったんですか。」
「見事に外れました。」
三人の間に小さな笑いが広がる。
山口は椅子へ腰を下ろし、画面を眺めた。
「実家が町工場なんです。」
不意に、そんなことを言った。
木村は少し驚く。
「町工場ですか。」
「金属加工をしています。」
「夏になると、親父が毎年ぼやくんですよ。」
山口は父親の口調を真似る。
「『また電気代が上がった。』『熱は捨てるほど出るのに、また燃料を買わなあかん。』って。」
少し照れくさそうに笑う。
「子どもの頃は意味が分からなかったんです。」
「でも大学へ入って熱工学を勉強したら、ようやく理由が見えてきました。」
木村は画面へ視線を戻す。
熱を捨てる工場。
その一方で、新しく熱を買う工場。
確かに、不思議な話だった。
「だから私は。」
山口は試験片を手に取りながら言う。
「熱をもっと上手に使える社会になってほしいと思っています。」
「AIとか、データセンターとか。」
「もちろん大事です。」
「でも私は、まず目の前の工場を何とかしたい。」
木村は静かに頷いた。
同じ研究室で、同じ熱を研究している。
それでも見ている未来は、人によって違うのだ。
再び画面へ向き直る。
曜日。
降水量。
湿度。
祝日。
日照時間。
一つずつデータを重ねるたび、新しい関係が浮かび上がってくる。
木村は小さく笑った。
「思った以上に複雑ですね。」
教授も穏やかに笑う。
「社会は、私たちの予想よりずっと豊かです。」
「だから研究は、簡単には終わらないのですよ。」
木村はPythonを開き、データの欠損を補完し、形式を整え始めた。
地道な作業が続く。
しかし、その数字の一つひとつの向こうには、人の暮らしがあり、工場があり、未来がある。
木村はようやく、そのことを実感し始めていた。
##
午後になり、研究室にはキーボードを打つ音だけが静かに響いていた。
木村は整理したデータを読み込み、最初の学習モデルを作り始める。
入力は気温。
出力は熱需要。
まずは一番単純なモデルから試す。
「動け。」
小さく呟き、実行キーを押した。
画面には学習の進行状況が表示される。
数秒後、予測結果のグラフが現れた。
青が実測値。
赤がAIの予測。
二本の線は、まるで別のものだった。
冬の需要は低く見積もられ、春は逆に高く予測されている。
「……全然駄目だ。」
木村は思わず頭をかいた。
講義なら十分な精度かもしれない。
しかし研究としては、とても納得できる結果ではない。
佐々木教授が静かに尋ねる。
「AIが間違えたのでしょうか。」
木村は画面を見つめたまま、小さく首を振った。
「違います。」
「間違えたのは、僕です。」
「AIに気温しか教えていません。」
「それでは、人の暮らしは見えません。」
教授は満足そうに微笑んだ。
「その答えに、自分でたどり着けたのなら十分です。」
そのとき、山口がコーヒーを片手に戻ってきた。
「どうです?」
木村は苦笑しながら画面を見せる。
「見事に失敗しました。」
山口はグラフを見ると、懐かしそうに笑った。
「安心しました。」
「え?」
「私も修士の一年目、同じ失敗をしましたから。」
そう言って、自分の机の引き出しを開ける。
一冊の古びたノートを取り出した。
ページの隅には、
**『需要予測 失敗①』**
と書かれている。
さらにめくる。
失敗②。
失敗③。
失敗④。
失敗⑤。
木村は思わず笑った。
「こんなにですか。」
「まだありますよ。」
山口は棚を指差した。
そこには分厚いファイルが何冊も並んでいる。
「研究って、不思議なんです。」
「論文になるのは成功だけ。」
「でも、研究者の頭の中は失敗でいっぱいなんですよ。」
木村はその言葉を噛みしめる。
研究とは成功を積み重ねる仕事だと思っていた。
違う。
失敗を一つずつ消していく仕事なのだ。
山口はグラフを眺めながら続ける。
「父が工場でよく言っていました。」
少しだけ遠くを見る。
「『機械は嘘をつかん。悪いのは使う人間や。』って。」
「今なら分かります。」
「データも嘘はつきません。」
「読み違えるのは、いつも人間です。」
木村はモニターへ向き直る。
AIは間違えていない。
自分が、AIに渡す世界を狭くしていただけだった。
「病院。」
木村が入力項目へ書き込む。
「学校。」
「工場。」
「住宅。」
「商業施設。」
山口も横から付け加える。
「時間帯。」
「曜日。」
「祝日。」
「雨の日。」
「季節。」
入力欄は少しずつ埋まっていく。
木村は思わず笑った。
「熱を予測しているんじゃない。」
「街そのものを学習させているみたいですね。」
「その通りです。」
教授が静かに答える。
「熱は、人の営みの結果です。」
「だから熱を理解したいなら、人を理解しなければならない。」
研究室が静かになる。
誰も話さない。
キーボードの音だけが響く。
その音は、まるで研究者たちが未来へ向かって少しずつ橋を架けている音のようだった。
木村は新しい学習モデルを保存し、もう一度実行ボタンへカーソルを合わせる。
今度は結果を期待しているのではない。
新しい問いに出会うことを期待していた。
##
木村は新しい特徴量を入力し終えると、静かに息を吐いた。
曜日。
祝日。
時間帯。
湿度。
降水量。
建物用途。
そして気温。
午前中よりも、モデルはずっと複雑になっている。
「これで、もう一度。」
実行キーを押した。
研究室が静まり返る。
パソコンの冷却ファンだけが、小さく回り続けていた。
画面では学習が進み、やがて予測結果が表示される。
青い線が実測値。
赤い線がAIの予測。
二本の線は完全には重ならない。
それでも、午前中とは違っていた。
大きく外れていた山や谷が、少しずつ重なり始めている。
「近づいた……。」
木村は思わず呟いた。
完璧ではない。
それでも確かに、一歩だけ現実へ近づいていた。
山口は腕を組みながら画面を眺める。
「これくらいが、一番うれしいんですよ。」
木村は首をかしげる。
「え?」
「百点じゃない。」
「でも昨日の自分には勝てた。」
「研究って、その繰り返しなんです。」
木村はもう一度グラフを見る。
確かに誤差は残っている。
しかし、その誤差が気になった。
なぜ、この日だけ外れたのか。
なぜ、この時間だけ需要が増えたのか。
その疑問が、次の研究につながっていく。
山口は静かに笑った。
「父の工場も同じでした。」
「設備は毎年少しずつ良くなる。」
「劇的には変わらない。」
「でも十年たつと、昔とは別物になっている。」
木村はその言葉を聞きながら、自分の画面を見つめる。
AIも同じなのかもしれない。
一回の進歩は小さい。
けれど積み重ねれば、未来を変える。
だからこそ、自分はAIのために熱を研究している。
「AIも、同じですね。」
木村はゆっくりと言った。
「毎年少しずつ賢くなっていく。」
「その未来で困らないように、今から準備したいんです。」
山口は微笑んだ。
「私は逆ですね。」
「未来ももちろん大事です。」
「でも、まずは親父の工場みたいな場所が助かってほしい。」
二人は顔を見合わせる。
見ている未来は違う。
それでも目の前のグラフは一つだった。
佐々木教授は二人のやり取りを静かに見守っていた。
やがて立ち上がると、ホワイトボードへ歩く。
ゆっくりと三つの円を書く。
一つ目に、
**『予測』**
二つ目に、
**『制御』**
三つ目に、
**『最適化』**
そして三つを一本の線で結んだ。
「予測は終点ではありません。」
教授は穏やかに言う。
「ここから制御が始まり、社会で使われ、また新しい課題が見つかる。」
「研究は、この円を何度も回り続けます。」
木村はホワイトボードを見つめる。
山口は町工場の未来を思っている。
自分はAIの未来を思っている。
同じ研究でも、目指す景色は違う。
教授は二人へ視線を向け、少しだけ目を細めた。
「安心しました。」
「君たちは違う未来を見ています。」
「だからこそ、この研究は強くなる。」
二人は不思議そうな顔をする。
教授は微笑んだ。
「研究は、一人では完成しません。」
「未来を見る人。」
「現場を見る人。」
「その両方がいて初めて、社会へ届く研究になります。」
研究室に静かな沈黙が流れる。
木村はもう一度グラフへ目を向けた。
画面に映っているのは、熱需要の予測ではない。
未来と現場を、一つにつなぐための第一歩だった。
##
研究室を出る頃には、窓の外は茜色に染まっていた。
西日がキャンパスを照らし、昼間の喧騒は少しずつ静けさへ変わっていく。
三人は並んで研究棟をあとにした。
グラウンドでは野球部が声を上げ、陸上部は黙々とトラックを走っている。
食堂からは夕食の匂いが流れ、図書館へ向かう学生たちは参考書を抱えて足早に歩いていた。
どこにでもある大学の夕暮れ。
木村は、その景色をゆっくり見渡した。
「今日見ていたグラフって……。」
ぽつりと呟く。
「あれは熱のグラフじゃなかったんですね。」
「人の一日だった。」
教授は静かに頷いた。
「研究とは、数字の向こうにいる人を見る仕事です。」
少し歩いてから、ふと空を見上げる。
「私が学生だった頃、日本はエネルギーの問題で大きく揺れていました。」
木村と山口は教授の方を見る。
「熱を無駄にしない技術が必要だと、多くの研究者が考えました。」
「私も、その一人でした。」
教授は穏やかに笑う。
「結局、私一人では世界は変えられませんでした。」
木村は思わず首を横に振る。
「そんなことありません。」
「先生が研究してきたから、僕たちは今こうして学べています。」
教授は少しだけ目を細めた。
「ありがとう。」
「ですが、それで十分なのです。」
二人は不思議そうな表情を浮かべる。
教授は研究棟を振り返った。
夕日に照らされた窓の向こうでは、まだ明かりのついた研究室がいくつも見える。
「あの部屋でも。」
「別の研究室でも。」
「誰かが今日、新しい失敗をしています。」
「その失敗は、きっと明日の誰かの答えになります。」
静かな声だった。
けれど、その言葉には何十年もの時間が積み重なっていた。
「研究というのは。」
教授はゆっくり続ける。
「一人で完成させるものではありません。」
「私は熱工学を先輩から受け取りました。」
「今は君たちへ渡しています。」
「そして君たちは、また次の誰かへ渡していく。」
「研究とは、知識を受け継ぐ長い旅なんです。」
木村は足を止める。
自分は未来のAIを見ている。
山口は町工場の未来を見ている。
教授は、そのもっと先を見ていた。
研究そのものが、未来へ受け継がれていく姿を。
山口が小さく笑う。
「先生らしいですね。」
「私も、後輩ができたら同じことを言っていそうです。」
「その頃には、町工場の熱も、今より上手に使えるようになっていてほしいですね。」
木村も笑った。
「その頃には、AIも今とは比べものにならないくらい進歩しているでしょうね。」
三人は顔を見合わせる。
目指す未来は違う。
それでも歩く道は同じだった。
研究室へ戻ると、木村はノートパソコンを開いた。
今日の研究記録を書き始める。
最後の行で手が止まる。
少し考えたあと、静かに打ち込んだ。
**『予測とは、未来を当てる技術ではない。未来へ知識をつないでいく技術でもある。』**
その文章を読み返し、ゆっくりと保存ボタンを押す。
窓の外では、研究棟の明かりが一つ、また一つと灯っていた。
今日も誰かが問いを抱き、誰かが失敗し、誰かが未来へ一歩近づいている。
その積み重ねが、いつか社会を変える。
木村はパソコンを閉じ、小さく微笑んだ。
明日は、予測した未来を現実へ近づける方法を考えよう。
研究は、まだ始まったばかりなのだから。




