第10話 排熱の行き先
翌朝。
木村が研究室へ入ると、教授はすでに窓際に立っていた。
手には一冊の分厚い資料がある。
木村は軽く頭を下げる。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
教授は机へ資料を置いた。
表紙には大きく書かれている。
**地域エネルギー利用実態調査報告書**
木村は思わずページをめくった。
工場。
病院。
データセンター。
商業施設。
さまざまな建物のエネルギー使用量が並んでいる。
「これは……。」
「ある都市の年間エネルギー調査です。」
教授は椅子に腰掛ける。
「昨日、木村君は『熱の居場所』という言葉に出会いました。」
「今日は、その熱が実際にどこで生まれ、どこへ消えているのかを見てみましょう。」
木村は資料をめくる手を止めた。
一枚の図が目に入る。
都市全体のエネルギーフロー。
建物ごとに色分けされた矢印が複雑に交差している。
その中でも、一際目立つ赤い矢印。
**排熱**
その量は、木村の想像をはるかに超えていた。
「こんなに捨てているんですか……。」
教授は静かに頷く。
「昨日見たのは、一つの施設でした。」
「今日は街全体です。」
木村は資料から顔を上げる。
昨日まで研究室の中だけで考えていた熱が、今は街全体へと広がっていた。
教授は穏やかに言う。
「木村君。」
「モデルは完成しました。」
「ここからは、そのモデルを使って何ができるかを考える時間です。」
木村はゆっくりと頷いた。
研究は、ようやく次の段階へ進もうとしていた。
教授は都市全体のエネルギーフロー図をホワイトボードへ映し出した。
建物ごとに色分けされた矢印が、街の中を縦横に走っている。
「木村君。」
「この図を見て、何か気付きませんか。」
木村は腕を組み、しばらく画面を見つめた。
工場。
病院。
ホテル。
オフィスビル。
どの施設からも赤い矢印が伸びている。
だが、その先はどれも同じだった。
**大気放熱**
「全部、外へ逃がしています。」
教授は頷いた。
「そうです。」
「建物は違っても、最後は同じ場所へ捨てています。」
木村は首をかしげる。
「でも、それしか方法がないんじゃ……。」
教授はマーカーを取り、二つの建物を丸で囲んだ。
病院。
隣接する温水プール。
「もし、この二つが配管でつながっていたらどうでしょう。」
木村は少し考える。
「病院の排熱をプールで使えるかもしれません。」
「そうですね。」
教授はさらに別の場所へ丸を付ける。
食品工場。
農業用ハウス。
「こちらは。」
「工場の排熱で温室を暖められるかもしれません。」
教授は満足そうに微笑んだ。
「熱は使えないのではありません。」
「使う相手が見つかっていないだけです。」
木村は図を見ながら、小さく息をのむ。
昨日まで考えていたのは、一つの建物だった。
しかし今は違う。
街全体が、一つのエネルギーシステムに見えてくる。
「先生。」
「じゃあ、僕たちのモデルは……。」
「ええ。」
教授は静かに答えた。
「建物一つを再現するためだけではありません。」
「どの建物と、どの建物をつなげれば熱が生きるのか。」
「それを考えるための道具でもあるんです。」
木村はパソコンを開き、これまで作り上げてきた年間熱利用モデルを表示する。
そこには、一つの建物だけが描かれていた。
木村は新しいファイルを作成する。
ファイル名は、
**DistrictHeatModel**
カーソルが静かに点滅している。
「一棟じゃなくて、一つの街を考えるモデルですか……。」
教授は穏やかに頷いた。
「研究は、少しずつ視野を広げていくものです。」
木村は新しい画面を見つめながら、小さく笑った。
「また、ゼロからですね。」
「いいえ。」
教授は静かに首を振る。
「今度は、ここまで積み上げたものの上から始めるんです。」
その言葉に、木村はゆっくりと頷いた。
第一歩は、もう終わっていた。次に進むための土台は、すでに自分の中にできていたのだから。
木村は新しく作成したモデルへ、病院と温水プールのデータを入力していく。
熱需要。
排熱量。
配管距離。
熱交換効率。
画面には二つの建物だけが表示されている。
街全体にはほど遠い。
それでも、昨日までの「一棟だけのモデル」からは確かな前進だった。
「先生。」
「まずは、この二つだけ試してみます。」
教授は穏やかに頷く。
「研究は、小さな成功を積み重ねるものです。」
木村は実行ボタンを押した。
画面には見慣れた進捗バーが現れる。
**District Heat Simulation**
**対象施設 2棟**
**推定時間 58秒**
短い待ち時間だった。
しかし木村は、以前よりもずっと落ち着いて結果を待てるようになっていた。
計算が終わる。
画面にエネルギーフロー図が表示される。
病院から赤い矢印が伸びる。
その一部が、温水プールへ青い矢印として流れ込んでいく。
木村は思わず身を乗り出した。
「熱が……。」
「流れています。」
教授も画面を見つめる。
「以前なら、すべて大気へ放熱されていました。」
「ですが今は、その一部が利用されています。」
解析結果が表示される。
**排熱利用率**
**0% → 31%**
「三一パーセント……。」
木村は数字を何度も見返した。
たった二つの建物をつないだだけで、これだけ結果が変わる。
教授は静かに言う。
「もちろん、現実はもっと複雑です。」
「配管工事も必要ですし、距離が長ければ熱も失われます。」
「ですが。」
教授は画面を指差した。
「できるかどうかを考える前に、可能性を示す。」
「それがシミュレーションの役割です。」
木村はゆっくりと頷いた。
これまでの研究は、現実を再現することが目標だった。
しかし今は違う。
モデルは未来を考えるための道具になっている。
木村はもう一度、画面を見る。
赤い矢印は、以前より短くなっていた。
代わりに、建物同士を結ぶ青い線が一本伸びている。
わずか一本の線。
それでも、その線は「捨てる熱」を「使う熱」へ変えていた。
木村は静かにつぶやく。
「熱にも……行き先を選べるんですね。」
教授は満足そうに微笑んだ。
「そうです。」
「そして、その行き先を考えるのが、私たち研究者の仕事なんです。」
教授はホワイトボードの前へ歩き、マーカーを手に取った。
建物を二つ描く。
その間を一本の線で結ぶ。
さらに三つ。
四つ。
五つ。
気が付けば、小さな街がホワイトボードの上に出来上がっていた。
「木村君。」
「これが私の研究の始まりでした。」
木村は図を見つめる。
配管でつながった建物。
その間を流れる熱。
もう、一つの設備ではない。
一つの街だった。
「最初は誰も信じませんでした。」
教授は少しだけ笑う。
「熱は捨てるものだ、と。」
「わざわざ運ぶ価値はない、と。」
木村は静かに聞いている。
「ですが、研究とは常識を疑うところから始まります。」
教授はマーカーを置き、木村の方へ向き直った。
「君も最初は、ボイラーが何かも知りませんでした。」
木村は苦笑する。
「そうでしたね。」
「専門用語ばかりで、何も分かりませんでした。」
「ええ。」
教授は穏やかに頷く。
「ですが今は違います。」
「設備を理解し。」
「モデルを作り。」
「現実と比較し。」
「そして、その先の社会まで考え始めている。」
教授は少し間を置いた。
「木村君。」
「第一歩は、もう終わりました。」
その一言に、木村は言葉を失う。
教授から褒められたことは、ほとんどない。
いつも課題ばかりだった。
だからこそ、その短い言葉が胸に響く。
「ありがとうございます。」
自然と頭が下がった。
教授は静かに微笑む。
「ですが、ここからが本当の研究です。」
「モデルを作れる研究者はたくさんいます。」
「社会を変える研究者は、それほど多くありません。」
木村はホワイトボードいっぱいに描かれた街を見上げた。
一つひとつの建物が、線でつながっている。
その線は配管であり、人と人を結ぶ考え方でもあるように思えた。
木村は静かに頷く。
「僕も……。」
「熱の居場所を見つけられる研究者になりたいです。」
教授は満足そうに一度だけ頷いた。
「その言葉が聞ければ、今日は十分です。」
研究室には静かな夕日が差し込んでいた。
木村にとって、研究者としての第一章は、静かに幕を閉じようとしていた。
#
その日の夕方。
木村は一人、研究室の机を片付けていた。
ボイラーの資料。
熱需要のデータ。
配管図。
吸収式冷凍機の仕様書。
ここ数か月で積み上げてきた資料をファイルへ戻していく。
ふと、一番下から一冊のノートが出てきた。
研究室へ配属された初日に使い始めたノートだった。
木村は何気なく最初のページを開く。
そこには、ぎこちない字で書かれていた。
**「ボイラーって何?」**
思わず笑みがこぼれる。
「本当に、何も知らなかったな。」
ページをめくる。
設備の名前。
専門用語。
教授から教わったこと。
失敗したシミュレーション。
赤字で書き込まれた修正点。
一ページずつが、自分の歩いてきた道だった。
木村は最後のページを開く。
そこは今日書き終えたばかりだった。
**『熱は、捨てられているのではない。居場所を失っている。』**
その下へ、新しく一行だけ書き加える。
**『研究は、熱の居場所を探す旅。』**
書き終えたところで、教授が研究室へ戻ってきた。
「まだ帰っていなかったんですね。」
「少しだけ、ノートを見返していました。」
教授は木村の手元を見て、小さく微笑む。
「最初のページも見ましたか。」
「はい。」
「恥ずかしくなるくらい、何も知りませんでした。」
教授は静かに頷いた。
「それでいいんです。」
「最初から知っている人など、いません。」
「大切なのは、一ページずつ書き足していくことです。」
木村はノートを閉じた。
厚みは、配属された頃の何倍にもなっていた。
それは知識の重さであり、自分が歩いてきた時間でもあった。
教授は研究室の照明を消しながら言う。
「さあ、木村君。」
「次は、もっと面白い研究が待っていますよ。」
木村は笑って頷く。
「はい。」
「楽しみです。」
二人は並んで研究室を後にする。
廊下の窓から見える夕暮れの街は、以前と変わらない。
それでも木村には、建物一つひとつの中を熱が静かに流れているように見えた。
研究者としての第一歩は終わった。
だが、熱の居場所を探す旅は、まだ始まったばかりだった。
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