表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第一部 越境 (Crossing Disciplines)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/30

第10話 排熱の行き先

 翌朝。


 木村が研究室へ入ると、教授はすでに窓際に立っていた。


 手には一冊の分厚い資料がある。


 木村は軽く頭を下げる。


「おはようございます。」


「おはようございます。」


 教授は机へ資料を置いた。


 表紙には大きく書かれている。


 **地域エネルギー利用実態調査報告書**


 木村は思わずページをめくった。


 工場。


 病院。


 データセンター。


 商業施設。


 さまざまな建物のエネルギー使用量が並んでいる。


「これは……。」


「ある都市の年間エネルギー調査です。」


 教授は椅子に腰掛ける。


「昨日、木村君は『熱の居場所』という言葉に出会いました。」


「今日は、その熱が実際にどこで生まれ、どこへ消えているのかを見てみましょう。」


 木村は資料をめくる手を止めた。


 一枚の図が目に入る。


 都市全体のエネルギーフロー。


 建物ごとに色分けされた矢印が複雑に交差している。


 その中でも、一際目立つ赤い矢印。


 **排熱**


 その量は、木村の想像をはるかに超えていた。


「こんなに捨てているんですか……。」


 教授は静かに頷く。


「昨日見たのは、一つの施設でした。」


「今日は街全体です。」


 木村は資料から顔を上げる。


 昨日まで研究室の中だけで考えていた熱が、今は街全体へと広がっていた。


 教授は穏やかに言う。


「木村君。」


「モデルは完成しました。」


「ここからは、そのモデルを使って何ができるかを考える時間です。」


 木村はゆっくりと頷いた。


 研究は、ようやく次の段階へ進もうとしていた。







 教授は都市全体のエネルギーフロー図をホワイトボードへ映し出した。


 建物ごとに色分けされた矢印が、街の中を縦横に走っている。


「木村君。」


「この図を見て、何か気付きませんか。」


 木村は腕を組み、しばらく画面を見つめた。


 工場。


 病院。


 ホテル。


 オフィスビル。


 どの施設からも赤い矢印が伸びている。


 だが、その先はどれも同じだった。


 **大気放熱**


「全部、外へ逃がしています。」


 教授は頷いた。


「そうです。」


「建物は違っても、最後は同じ場所へ捨てています。」


 木村は首をかしげる。


「でも、それしか方法がないんじゃ……。」


 教授はマーカーを取り、二つの建物を丸で囲んだ。


 病院。


 隣接する温水プール。


「もし、この二つが配管でつながっていたらどうでしょう。」


 木村は少し考える。


「病院の排熱をプールで使えるかもしれません。」


「そうですね。」


 教授はさらに別の場所へ丸を付ける。


 食品工場。


 農業用ハウス。


「こちらは。」


「工場の排熱で温室を暖められるかもしれません。」


 教授は満足そうに微笑んだ。


「熱は使えないのではありません。」


「使う相手が見つかっていないだけです。」


 木村は図を見ながら、小さく息をのむ。


 昨日まで考えていたのは、一つの建物だった。


 しかし今は違う。


 街全体が、一つのエネルギーシステムに見えてくる。


「先生。」


「じゃあ、僕たちのモデルは……。」


「ええ。」


 教授は静かに答えた。


「建物一つを再現するためだけではありません。」


「どの建物と、どの建物をつなげれば熱が生きるのか。」


「それを考えるための道具でもあるんです。」


 木村はパソコンを開き、これまで作り上げてきた年間熱利用モデルを表示する。


 そこには、一つの建物だけが描かれていた。


 木村は新しいファイルを作成する。


 ファイル名は、


 **DistrictHeatModel**


 カーソルが静かに点滅している。


「一棟じゃなくて、一つの街を考えるモデルですか……。」


 教授は穏やかに頷いた。


「研究は、少しずつ視野を広げていくものです。」


 木村は新しい画面を見つめながら、小さく笑った。


「また、ゼロからですね。」


「いいえ。」


 教授は静かに首を振る。


「今度は、ここまで積み上げたものの上から始めるんです。」


 その言葉に、木村はゆっくりと頷いた。


 第一歩は、もう終わっていた。次に進むための土台は、すでに自分の中にできていたのだから。






 木村は新しく作成したモデルへ、病院と温水プールのデータを入力していく。


 熱需要。


 排熱量。


 配管距離。


 熱交換効率。


 画面には二つの建物だけが表示されている。


 街全体にはほど遠い。


 それでも、昨日までの「一棟だけのモデル」からは確かな前進だった。


「先生。」


「まずは、この二つだけ試してみます。」


 教授は穏やかに頷く。


「研究は、小さな成功を積み重ねるものです。」


 木村は実行ボタンを押した。


 画面には見慣れた進捗バーが現れる。


 **District Heat Simulation**


 **対象施設 2棟**


 **推定時間 58秒**


 短い待ち時間だった。


 しかし木村は、以前よりもずっと落ち着いて結果を待てるようになっていた。


 計算が終わる。


 画面にエネルギーフロー図が表示される。


 病院から赤い矢印が伸びる。


 その一部が、温水プールへ青い矢印として流れ込んでいく。


 木村は思わず身を乗り出した。


「熱が……。」


「流れています。」


 教授も画面を見つめる。


「以前なら、すべて大気へ放熱されていました。」


「ですが今は、その一部が利用されています。」


 解析結果が表示される。


 **排熱利用率**


 **0% → 31%**


「三一パーセント……。」


 木村は数字を何度も見返した。


 たった二つの建物をつないだだけで、これだけ結果が変わる。


 教授は静かに言う。


「もちろん、現実はもっと複雑です。」


「配管工事も必要ですし、距離が長ければ熱も失われます。」


「ですが。」


 教授は画面を指差した。


「できるかどうかを考える前に、可能性を示す。」


「それがシミュレーションの役割です。」


 木村はゆっくりと頷いた。


 これまでの研究は、現実を再現することが目標だった。


 しかし今は違う。


 モデルは未来を考えるための道具になっている。


 木村はもう一度、画面を見る。


 赤い矢印は、以前より短くなっていた。


 代わりに、建物同士を結ぶ青い線が一本伸びている。


 わずか一本の線。


 それでも、その線は「捨てる熱」を「使う熱」へ変えていた。


 木村は静かにつぶやく。


「熱にも……行き先を選べるんですね。」


 教授は満足そうに微笑んだ。


「そうです。」


「そして、その行き先を考えるのが、私たち研究者の仕事なんです。」






 教授はホワイトボードの前へ歩き、マーカーを手に取った。


 建物を二つ描く。


 その間を一本の線で結ぶ。


 さらに三つ。


 四つ。


 五つ。


 気が付けば、小さな街がホワイトボードの上に出来上がっていた。


「木村君。」


「これが私の研究の始まりでした。」


 木村は図を見つめる。


 配管でつながった建物。


 その間を流れる熱。


 もう、一つの設備ではない。


 一つの街だった。


「最初は誰も信じませんでした。」


 教授は少しだけ笑う。


「熱は捨てるものだ、と。」


「わざわざ運ぶ価値はない、と。」


 木村は静かに聞いている。


「ですが、研究とは常識を疑うところから始まります。」


 教授はマーカーを置き、木村の方へ向き直った。


「君も最初は、ボイラーが何かも知りませんでした。」


 木村は苦笑する。


「そうでしたね。」


「専門用語ばかりで、何も分かりませんでした。」


「ええ。」


 教授は穏やかに頷く。


「ですが今は違います。」


「設備を理解し。」


「モデルを作り。」


「現実と比較し。」


「そして、その先の社会まで考え始めている。」


 教授は少し間を置いた。


「木村君。」


「第一歩は、もう終わりました。」


 その一言に、木村は言葉を失う。


 教授から褒められたことは、ほとんどない。


 いつも課題ばかりだった。


 だからこそ、その短い言葉が胸に響く。


「ありがとうございます。」


 自然と頭が下がった。


 教授は静かに微笑む。


「ですが、ここからが本当の研究です。」


「モデルを作れる研究者はたくさんいます。」


「社会を変える研究者は、それほど多くありません。」


 木村はホワイトボードいっぱいに描かれた街を見上げた。


 一つひとつの建物が、線でつながっている。


 その線は配管であり、人と人を結ぶ考え方でもあるように思えた。


 木村は静かに頷く。


「僕も……。」


「熱の居場所を見つけられる研究者になりたいです。」


 教授は満足そうに一度だけ頷いた。


「その言葉が聞ければ、今日は十分です。」


 研究室には静かな夕日が差し込んでいた。


 木村にとって、研究者としての第一章は、静かに幕を閉じようとしていた。




#


 その日の夕方。


 木村は一人、研究室の机を片付けていた。


 ボイラーの資料。


 熱需要のデータ。


 配管図。


 吸収式冷凍機の仕様書。


 ここ数か月で積み上げてきた資料をファイルへ戻していく。


 ふと、一番下から一冊のノートが出てきた。


 研究室へ配属された初日に使い始めたノートだった。


 木村は何気なく最初のページを開く。


 そこには、ぎこちない字で書かれていた。


 **「ボイラーって何?」**


 思わず笑みがこぼれる。


「本当に、何も知らなかったな。」


 ページをめくる。


 設備の名前。


 専門用語。


 教授から教わったこと。


 失敗したシミュレーション。


 赤字で書き込まれた修正点。


 一ページずつが、自分の歩いてきた道だった。


 木村は最後のページを開く。


 そこは今日書き終えたばかりだった。


 **『熱は、捨てられているのではない。居場所を失っている。』**


 その下へ、新しく一行だけ書き加える。


 **『研究は、熱の居場所を探す旅。』**


 書き終えたところで、教授が研究室へ戻ってきた。


「まだ帰っていなかったんですね。」


「少しだけ、ノートを見返していました。」


 教授は木村の手元を見て、小さく微笑む。


「最初のページも見ましたか。」


「はい。」


「恥ずかしくなるくらい、何も知りませんでした。」


 教授は静かに頷いた。


「それでいいんです。」


「最初から知っている人など、いません。」


「大切なのは、一ページずつ書き足していくことです。」


 木村はノートを閉じた。


 厚みは、配属された頃の何倍にもなっていた。


 それは知識の重さであり、自分が歩いてきた時間でもあった。


 教授は研究室の照明を消しながら言う。


「さあ、木村君。」


「次は、もっと面白い研究が待っていますよ。」


 木村は笑って頷く。


「はい。」


「楽しみです。」


 二人は並んで研究室を後にする。


 廊下の窓から見える夕暮れの街は、以前と変わらない。


 それでも木村には、建物一つひとつの中を熱が静かに流れているように見えた。


 研究者としての第一歩は終わった。


 だが、熱の居場所を探す旅は、まだ始まったばかりだった。




もし楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ