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熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第二部 統合 (Systems Integration)

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11/30

第11話 共同研究

 数日後。


 窓の外では、初夏の日差しが大学のキャンパスを照らしていた。


 研究室にはパソコンのファンが静かに回る音だけが響いている。


 木村はディスプレイに映るシミュレーション結果を見つめながら、小さく息を吐いた。


 画面には、先日完成した District Heat Model が表示されている。


 病院から回収した排熱が温水プールへ送られ、需要に応じて熱量が変化するグラフが滑らかに伸びていた。


 何度も修正を重ね、ようやく納得できる形になったモデルだ。


「ようやく一段落ですね。」


 独り言のようにつぶやくと、コーヒーを淹れていた山本教授が笑った。


「研究に一段落なんてありませんよ。」


 教授は湯気の立つマグカップを机へ置く。


「一つ終われば、次の課題が待っています。」


 その言葉を証明するように、研究室の電話が鳴った。


 教授は受話器を取り、いつもの穏やかな口調で応対する。


「はい、山本研究室です。」


 木村は再び画面へ目を向けたものの、教授の話し方がどこか違うことに気付いた。


「ご無沙汰しております。」


「ええ、もちろん覚えております。」


「そうですか。それでは、一度こちらでお話を伺いましょう。」


 電話は数分で終わった。


 教授は受話器を置き、木村へ振り返る。


「木村君。」


「共同研究のお話です。」


 共同研究。


 その言葉に、木村は思わず聞き返した。


「共同研究……ですか。」


「地域の設備会社からです。」


 教授は一枚のメモを差し出した。


「ある施設で排熱利用を検討しているそうですが、社内だけでは結論が出せないとのことでした。」


 木村はメモを見つめる。


 第1部では、教授から課題を与えられてきた。


 だが今回は違う。


 研究室の外から、課題の方がやって来る。


 教授は静かに微笑んだ。


「これが、大学と社会をつなぐ最初の仕事になります。」


 木村はゆっくりとうなずいた。


 胸の奥に、期待と少しの緊張が同時に芽生えていた。


 研究は、もう研究室の中だけでは終わらない。


 そのことを、木村はまだ知らなかった。


 翌日、約束の時間になると研究室の扉がノックされた。


 入ってきたのは、スーツ姿の男性二人。


 一人は四十代半ばほどのベテラン技術者。もう一人は木村と同年代の若い社員だった。


 名刺交換を済ませると、大きな図面が机いっぱいに広げられる。


 病院。


 老人ホーム。


 温浴施設。


 ホテル。


 複数の建物が一つの敷地に並んでいた。


「設備は設計できます。」


 担当者は図面を見つめながら言う。


「配管も、ボイラーも、熱交換器も選べます。」


 少し間を置き、苦笑した。


「ですが、どの建物同士を結ぶのが一番効果的なのか。それだけは分からないんです。」


 教授は木村を見る。


「企業は『どう造るか』の専門家です。」


「私たち研究者は、『何を選ぶべきか』を考える仕事をしています。」


 木村は静かにうなずいた。


 研究と設計。


 似ているようで、役割は違う。


 担当者はノートパソコンを開き、運転データを映し出した。


「一年間、十五分ごとに取得した設備データです。」


 画面には膨大な数値が並んでいる。


「約三万五千件あります。」


 木村は思わず息をのんだ。


「これだけのデータがあれば……年間シミュレーションができます。」


 担当者の表情が少し明るくなる。


「本当ですか。」


「はい。ただし、このままでは使えません。」


 木村は資料をめくりながら続けた。


「設備能力や運転条件を反映したモデルを一から組み直す必要があります。」


 担当者は深くうなずいた。


「実は社内でも三案まで絞ったんです。」


「ですが、初期投資も回収年数も違う。」


「誰も決めきれませんでした。」


 教授は穏やかに言った。


「研究とは、正解を知っていることではありません。」


「複数の可能性を比較し、その根拠を示すことです。」


 木村はハードディスクを受け取る。


 その重みは、データだけではない。


 企業から大学へ託された信頼そのものだった。


 打ち合わせの最後、教授は資料を閉じた。


「この共同研究、お引き受けしましょう。」


 担当者はほっとしたように笑顔を浮かべる。


「ありがとうございます。」


 教授は木村へ視線を向けた。


「木村君。」


「今回の共同研究は、君が中心になって進めてください。」


 一瞬、時間が止まる。


「……私が、ですか。」


「もちろん私も見ます。」


「ですが、実際にモデルを作り、企業とやり取りするのは君です。」


 木村は言葉を失った。


 第1部では、教授から課題を与えられる立場だった。


 だが今は違う。


 自分が課題を預かる側になろうとしている。


 担当者が立ち上がり、木村へ名刺を差し出す。


「木村先生、よろしくお願いいたします。」


 一瞬だけ、木村の手が止まる。


 教授が小さく笑った。


「その呼び方で間違っていませんよ。」


 木村は照れくさそうに笑い返した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」


 研究とは論文を書くことだけではない。


 社会の課題を受け取り、専門知識で解決への道筋を示すこと。


 それもまた、研究者の仕事なのだ。


 担当者たちが帰ったあと、研究室は再び静けさを取り戻した。


 木村はハードディスクを机へ置き、しばらく眺める。


 その中には一年分の設備データが入っている。


 数字の向こうには、病院で眠る患者がいる。


 ホテルでくつろぐ旅行者がいる。


 温浴施設で笑う家族がいる。


「このデータは、街そのものなんですね。」


 教授は静かにうなずいた。


「だから研究は面白いんです。」


「数字の先には、必ず人の暮らしがあります。」


 木村は研究ノートを開き、新しいページに書いた。


 **共同研究 No.1**


 少し考えたあと、一行だけ付け加える。


 **『研究は、一人ではできない。』**


 ペンを置くと、窓の外では夕暮れが街を茜色に染め始めていた。


 どこかで今日もボイラーが動き、熱が生まれ、そして行き場を失っている。


 その熱に、新しい居場所を見つけるための研究が、いま静かに始まろうとしていた。






 翌日の午後二時。


 研究室の扉をノックする音が響いた。


「失礼いたします。」


 入ってきたのは、スーツ姿の男性が二人。


 一人は四十代半ばほどの落ち着いた雰囲気を持つ技術部長。もう一人は木村と年齢の近い若い設計担当だった。


 山本教授は席を立ち、笑顔で迎える。


「お久しぶりです。遠いところありがとうございます。」


「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。」


 互いに名刺を交換し、応接テーブルへ腰を下ろす。


 木村も少し緊張しながら名刺を差し出した。


「山本研究室の木村です。よろしくお願いいたします。」


 若い設計担当は穏やかに笑った。


「同年代の方がいらっしゃると心強いですね。私は設備設計を担当しています。」


 ひと通り挨拶を終えると、技術部長が大きな図面をテーブルいっぱいに広げた。


「今回ご相談したいのは、この施設です。」


 病院を中心に、老人ホーム、温浴施設、ホテルが隣接して建設される計画だった。


 木村は図面を見つめながら思わず声を漏らす。


「熱を融通しやすそうな配置ですね。」


「ええ。」


 技術部長は苦笑した。


「だからこそ悩んでいるんです。」


 病院の排熱を利用するべきか。


 ホテルの給湯を優先するべきか。


 温浴施設へ送るべきか。


 あるいは、それぞれを個別設備で賄うべきか。


「社内でも三つの案まで絞りました。」


 技術部長は三枚の資料を机へ並べる。


「ですが、初期投資も違えば、回収年数も違う。」


「どれが最適なのか、誰も決めきれませんでした。」


 若い設計担当も苦笑いを浮かべる。


「設備は設計できます。」


「配管の太さも、ポンプの能力も決められます。」


「でも、『どの案を選ぶべきか』までは、私たちだけでは判断できないんです。」


 木村は教授へ視線を向けた。


 教授は静かに頷く。


「企業は『どう造るか』の専門家です。」


「私たち研究者は、『どの選択が最も合理的か』を客観的に示す役割があります。」


 その言葉に、木村はゆっくりとうなずいた。


 第1部では、シミュレーションは学ぶための道具だった。


 だが今、そのシミュレーションは、企業の意思決定を支える道具になろうとしている。


 研究が社会とつながるとは、こういうことなのだ。


 木村は、研究者という仕事の新しい一面を目の当たりにしていた。







 技術部長はノートパソコンを開き、USB接続された外付けハードディスクを机の上へ置いた。


「こちらが運転データです。」


 画面にはフォルダがいくつも並んでいる。


 ボイラー。


 冷凍機。


 給湯。


 空調。


 設備ごとに整理されたデータは、どれも一年以上にわたる運転記録だった。


「十五分ごとに取得しています。」


「全部で約三万五千件です。」


 木村は思わず画面へ身を乗り出す。


「これだけ詳細に記録されているんですか。」


「最近は設備の監視システムが発達していますから。」


 若い設計担当が少し照れくさそうに笑う。


「記録はできるんです。でも、その数字をどう読むかは、私たちも手探りでして。」


 木村はデータを眺めながら、ゆっくりとスクロールしていく。


 夏の冷房負荷。


 冬の給湯需要。


 休日と平日で変わる運転状況。


 数字を追うたびに、その施設が一年を通して呼吸しているように感じられた。


「面白い……。」


 思わず口から漏れた言葉に、自分でも驚く。


 教授が小さく微笑んだ。


「何が見えましたか。」


「熱の流れです。」


 木村は画面から目を離さず答える。


「どの時間帯に余って、どの時間帯に不足するのか。」


「シミュレーションモデルへ落とし込めそうです。」


 教授は満足そうに頷いた。


「その視点が大切です。」


「データは数字ではありません。」


「現場で起きている現象そのものです。」


 技術部長が安心したように息をつく。


「大学へ相談して正解でした。」


「社内では、この数字を眺めることしかできませんでしたから。」


 木村は首を横に振った。


「いいえ。」


「私たちも、このデータだけでは答えは出せません。」


 図面へ視線を移す。


 設備の能力。


 配管の長さ。


 建物同士の距離。


 利用者の生活パターン。


 それらすべてをモデルへ組み込み、初めてシミュレーションになる。


「モデルを作りましょう。」


 木村は静かに言った。


「まずは現状を再現します。」


「その上で、三つの案を同じ条件で比較しましょう。」


 技術部長と若い設計担当は顔を見合わせ、小さくうなずいた。


 経験だけでは決められない。


 勘だけでも決められない。


 だからこそ、研究が必要になる。


 木村はハードディスクを両手で受け取った。


 ずしりとした重みが手のひらに伝わる。


 その重さは、データの容量ではない。


 企業が大学へ託した期待と責任、そのものだった。







 打ち合わせは二時間近くに及んだ。


 三つの設備案を比較するために必要なデータ、現地調査の日程、追加で確認すべき項目を一つずつ整理していく。


 最後に、技術部長が資料を閉じた。


「本日はありがとうございました。」


「社内で何カ月も答えが出なかったことが、ようやく前へ進みそうです。」


 教授は静かにうなずく。


「こちらこそ、お声掛けいただきありがとうございます。」


 そして、一度木村へ視線を向けた。


「では、この共同研究ですが──。」


 教授は穏やかな口調のまま言った。


「実務は木村君が担当します。」


 一瞬だけ、部屋の空気が止まった。


 木村は思わず教授を見る。


「私が……担当ですか。」


「ええ。」


 教授は当然のように続ける。


「モデルの構築も、シミュレーションも、企業との窓口も、基本的には木村君が進めます。」


「私は必要な場面で助言します。」


 技術部長は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みへ変わった。


「そうでしたか。」


 そう言うと、木村へ向き直る。


「木村先生。」


「これからよろしくお願いいたします。」


 その呼び名に、木村は一瞬だけ言葉を失う。


 研究室では「木村君」。


 学生からも「木村先生」と呼ばれることはある。


 だが、企業の担当者からそう呼ばれるのは初めてだった。


 教授が小さく笑う。


「その呼び方で間違っていませんよ。」


「彼も、この研究室の研究者ですから。」


 木村は少し照れくさそうに笑い、深く頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」


 握手を交わす。


 その手は、学生時代の実験仲間と交わした握手とは少し違っていた。


 互いに仕事を託し、責任を分け合う者同士の握手だった。


 担当者たちが研究室をあとにすると、部屋は再び静かになった。


 教授は窓の外を眺めながら、ぽつりとつぶやく。


「木村君。」


「共同研究では、答えを出すことだけが仕事ではありません。」


「相手が安心して相談できる研究者であることも、大切な仕事です。」


 木村は机の上のハードディスクへ視線を落とした。


 そこには企業の一年が詰まっている。


 その重みを受け止めることも、今日からは自分の役目なのだ。


 木村は静かにうなずいた。


 研究者として、新しい一歩を踏み出したことを、ようやく実感していた。







 担当者たちを見送ると、研究室はいつもの静けさを取り戻した。


 さっきまで図面で埋まっていたテーブルには、外付けハードディスクだけが残されている。


 木村はそれを両手で持ち上げた。


 見た目は何の変哲もない黒い箱だ。


 だが、その中には一年分の運転データが詰まっている。


 三万五千件を超える数字。


 ボイラーの運転。


 冷凍機の停止。


 給湯の使用量。


 空調の負荷。


 一つひとつは無機質な数値でしかない。


 それでも木村には、その数字の向こう側が少しだけ見えるような気がしていた。


 朝、病院で目を覚ます患者。


 湯気の立つ温浴施設。


 ホテルへ戻る宿泊客。


 その暮らしを支えるために、設備は今日も休むことなく動き続けている。


「数字じゃないんですね。」


 木村は静かにつぶやいた。


「人の暮らしなんですね。」


 教授はコーヒーカップを手にしたまま、小さく微笑む。


「ようやく、そこまで見えるようになりましたか。」


「研究者は数字を扱います。」


「ですが、本当に相手にしているのは、人の生活です。」


 その言葉が、木村の胸に静かに落ちた。


 木村は研究ノートを開く。


 新しいページの一番上に、日付を書く。


 そして、その下へゆっくりと記した。


 **共同研究 No.1**


 少し考えたあと、もう一行だけ書き加える。


 **『現場の数字には、人の暮らしが流れている。』**


 ペンを置く。


 窓の外では夕日が街を赤く染め始めていた。


 研究室から見える建物のどこかでも、今日と同じように熱が生まれ、運ばれ、使われている。


 その流れを誰よりも理解し、より良い形へ変えていく。


 それが、これから自分に託された仕事なのだ。


 木村はノートを閉じると、机の上のハードディスクをそっと抱え上げた。


 研究は、まだ始まったばかりだった。



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