第7話「子供の魔力と大人の責任」
灰谷に来て十一日目。
朝、畑に出ようとして足を止めた。
柵の外側、地面に足跡がある。
小さい。大人のものじゃない。
子供だ。
昨夜のリーネの言葉を思い出した。
「村の周りに小さな気配がありました。人間の子供だと思います」
彼女の感知能力は正確だ。元幹部の魔力感知をこういう形で活用できるとは思わなかったが。
足跡を辿った。
柵の外を回り、森の入口へ。
落ち葉の上に、点々と続く小さな靴の跡。
方向は奥——森の中だ。
一人で追うか。
少し考えて、リーネに声をかけた。
「一緒に来てくれ。子供の足跡を追う」
「……はい」
森に入る。
足跡はすぐに見えなくなったが、リーネの感知がある。
「あちらです。三十歩ほど先。生体の魔力反応があります」
便利だな、その能力。
リーネに導かれて進むと——木の根元に、小さな影が座っていた。
黒髪の少年。
大きな目がこちらを向いた瞬間、怯えの色が走った。
立ち上がろうとして、膝が笑っている。立てない。
痩せている。顔色が悪い。何日もまともに食べていない顔だ。
服はぼろぼろ。靴底に穴が開いている。
「待て。逃げなくていい」
声をかけた。低く、ゆっくり。
怯えた相手への声のかけ方は、もう何度もやっている。
少年は木の幹に背中を張りつけて、俺を見ていた。
大きな目に、涙が溜まっている。
体が震えている。恐怖だ。
俺は——それ以上近づかなかった。
代わりに、腰の袋から握り飯を取り出した。
朝食の残り。出がけに握っておいたものだ。
少年の足元に、そっと置いた。
「腹、減ってるだろ」
少年の目が握り飯に吸い寄せられた。
ごくり、と喉が鳴った。
恐る恐る——手が伸びた。
握り飯を掴んで、かぶりつく。
がつがつと、噛むというより呑み込むように食べた。
よほど腹が減っていたんだ。
食べ終わった少年が、ようやく俺の顔をまともに見た。
「……おじさん、だれ?」
おじさん。まあ、三十八だしな。間違ってない。
「ガルドだ。この先の村に住んでる。お前は?」
「……フィオ」
「フィオか。一人で森にいたのか?」
少年——フィオは、頷いた。
「どこから来た?」
「……孤児院」
声が小さい。消え入りそうだ。
「孤児院を出てきたのか」
「追い出された……です」
語尾に「です」がついた。それが精一杯の丁寧さなのだろう。
「なぜ追い出された」
聞くべきか迷ったが、聞いた。
フィオの体がびくりと震えた。
服の裾を、両手でぎゅっと握りしめている。
「ぼく……壊しちゃったんです。孤児院の壁を」
「壁を?」
「魔力が——勝手に——」
声が震える。
「ぼくが怖い夢を見たら、朝起きたら壁がなくなってて。みんなが怪我して——ぼくのせいで——」
涙が溢れた。
「みんなが言いました。お前は怪物だって」
怪物。
十歳の子供に向かって、か。
俺の腹の奥に、静かな熱が生まれた。
怒り——とは少し違う。
ただ、許せないと思った。
だが、今ここで怒っても仕方がない。
目の前にいるのは、怯えた子供だ。
「怪物じゃない」
声を、できるだけ穏やかにした。
「ただ力が強いだけだ」
フィオが俺を見上げた。
涙で濡れた大きな目。
「嘘です。ぼくは壊すことしかできない」
「壊すことしかできないかどうかは、これから確かめればいい。今決めるな」
フィオが口を閉じた。
反論する言葉が見つからないのか、それとも——わずかでも、信じたいのか。
どちらか分からない。
だが、泣くのは止まった。
「来い。飯を食わせてやる」
フィオをゆっくり立たせて、灰谷に連れ帰った。
小屋に入ると、マルトとエルナとドランが揃っていた。
全員の目がフィオに集まる。
フィオが俺の後ろに隠れた。服の裾を掴んでいる。
「子供だ。腹を空かせてた」
それだけ言えば十分だった。
エルナがすぐにフィオの前にしゃがんだ。
「まあ。こんなに痩せて……。診せてくださいませんこと?」
柔らかい声と穏やかな笑顔に、フィオの警戒がわずかに緩んだ。
エルナが治癒魔法の淡い光を手にまとわせて、フィオの体を診る。
「体は栄養失調以外は健康ですわ。ただ——」
エルナの表情が一瞬真剣になった。
「魔力が体の中で……かなり不安定ですわね」
リーネが俺の横で小声で言った。
「この子、魔力量が異常に高い。人間の子供でこれほどの……見たことがありません」
リーネの声に驚きがあった。元魔王軍幹部に「見たことがない」と言わせるほどか。
「危険か?」
「すぐにどうこうはないと思いますが、制御できていないのは確かです」
なるほど。
つまりこの子の魔力暴走は、力が強すぎて器から溢れているようなものか。
怪物なんかじゃない。ただ、入れ物が追いついていないだけだ。
飯の時間にした。
野菜と豆の煮込み。今日はドランが畑から根菜を掘ってきてくれたおかげで具が多い。
フィオの前に椀を置いた。
小さな手で椀を持つ。
一口——。
「おいしい……」
ぽろぽろと涙が落ちた。
この反応、何度目だ。
「飯で泣くのは何人目だ」
言ってから、リーネの方を見た。
リーネが即座に反応した。
「わたしは泣いてません」
「泣いてたぞ」
ドランが横からにやにやした。
次の瞬間、ドランの頭に小さな氷塊がぽとりと落ちた。
「冷てえ!」
リーネが素知らぬ顔で椀を傾けている。
マルトが「ほっほっほ」と笑い、エルナが「まあまあ」と仲裁する。
フィオが——泣きながら、少し笑った。
笑えるなら大丈夫だ。
その夜。
フィオは俺の小屋の予備の寝台で寝かせた。
子供一人を別の小屋に置くのは気が引ける。
毛布を掛けて、灯りを落として、俺も寝台に入った。
夜中。
異変を感じて目が覚めた。
空気が——震えている。
小屋全体が、微かに振動していた。
フィオだ。
寝台で丸くなっている少年の体から、目に見えるほどの魔力が漏れ出していた。
白い光の粒が、体の周囲をちらちらと舞っている。
悪夢を見ているのか。
表情が苦しそうだ。額に汗が浮いている。
うなされている。
魔力の揺らぎが大きくなっていく。
このまま放っておいたら——壁が吹き飛ぶ。
孤児院で起きたのと同じことが。
考えるより先に体が動いた。
フィオの寝台に膝をつき、その小さな手を握った。
「大丈夫だ」
声をかけた。
「ここにいる。大丈夫だ」
俺の手がフィオの手を包んだ瞬間——。
魔力の振動が、すっと鎮まった。
白い光の粒が、一つ、また一つと消えていく。
フィオの表情が穏やかになった。
呼吸が落ち着いた。
……何が起きた?
手を握っただけだ。それ以外は何もしていない。
安心して、暴走が止まったのか。
子供ってのはそういうものなのかもしれない。
フィオの手を離さず、そのまま寝台の横に座っていた。朝まで。
——翌朝。
十二日目。
フィオは昨夜の暴走を覚えていなかった。
「よく眠れたです」
「そうか。よかったな」
朝食時。
マルトが俺の横に座って、小声で言った。
「お前さん」
「何だ」
「昨夜、支援魔法を使ったな?」
「は?」
「あの子の魔力が暴走しかけた時。お前さんが手を握った瞬間に、支援魔法の波動があった。わしの感知でも分かるほどのな」
「何を言ってるんだ。ただ手を握っただけだが」
マルトが顎髭を撫でた。
「ふむ。自覚がないのか」
「自覚も何も、使ってないものは使ってない」
「お前さんの料理にも同じ力を感じておるんじゃが」
「だから、それはただの飯だと——」
「まあよい」
マルトは穏やかに笑って、それ以上追及しなかった。
何を言ってるんだ、この爺さんは。
俺の飯はただの飯だし、手を握ったのはただ手を握っただけだ。
それ以上のことは何もない。
——多分。
午前中。
フィオに魔力制御の基礎を教え始めた。
俺には攻撃魔法の適性がない。
だが、支援魔法の理論には精通している。二十年間、パーティの支援を一手に引き受けてきた。
魔力の流れ方、集め方、散らし方。
全部分かる。自分では攻撃に使えないだけで。
「魔力は呼吸と同じだ」
フィオの前にしゃがんで、目を合わせて話す。
「吸って、吐いて。それを繰り返す。暴走するのは——息を止めてるのと同じだ。溜め込みすぎて、一気に吐き出してしまう」
「息を……止めてる?」
「ああ。だから、少しずつ流す練習をしよう。溜めないで、ちょっとずつ出す」
フィオが真剣な顔で頷いた。
服の裾を握る癖が出ている。緊張しているのだろう。
「怖がらなくていい。失敗しても、俺がいる」
リーネが横にいた。
いつの間にか来ていた。
「わたしも手伝います」
そう言って、氷魔法で手のひらサイズの的を作った。
丸い氷の玉。地面に三つ並べる。
「これを狙って、魔力を少しだけ放出してみて」
的があった方がいいか。なるほど。
フィオが両手を的に向けた。
顔が強張っている。
「……こわい」
「大丈夫。小さくていい。ほんの少しだけ」
フィオが目を閉じて——。
手のひらから、小さな光球が生まれた。
蛍のような、淡い光。
それが——ぽん、と的に当たった。
氷の玉が割れもせず、少しだけ揺れた。
それだけ。
それだけだが。
フィオの目が見開かれた。
「できた——ぼく、壊さなかった!」
声が弾けた。
さっきまで小声だった子供が、目を輝かせて叫んでいる。
「ああ。よくやった」
首の後ろに手をやった。柄にもなく、嬉しい。
リーネがフィオの頭に手を伸ばして、そっと撫でた。
フィオが見上げる。
「お姉ちゃん……」
リーネの手が止まった。
紫の瞳が一瞬揺れた。
「……好きに呼べばいい」
目を逸らした。
だが——手は離さなかった。
フィオの黒髪を、不器用に撫で続けていた。
夕食。
六人で食卓を囲んだ。
フィオが俺の隣に座った。リーネがフィオの向かいに座った。
マルトが椀を受け取りながら笑った。
「家族みたいじゃのう」
「家族って柄じゃないだろ」
否定した。
が、六人が一つのテーブルでスープを食べている光景は——確かに、どこかの家の食卓に似ていた。
食後。
暖炉の前で一人になった。
マルトの言葉が頭に残っている。
支援魔法を使った、と。
自覚はない。
だが——。
「自分のために生きる」。
そう決めて、ここに来た。
なのに、いつの間にか六人になっている。
矛盾しているか?
いや——違うな。
この子たちの飯を作って、畑を耕して、ここを守ることが。
それが今の俺の「自分のために生きる」なのかもしれない。
まだよく分からないが。
寝る前に伝書鳥が届いた。
辺境ギルド支部のバロッサからの手紙だ。
封を切る。
読んだ瞬間——表情が変わったのが、自分でも分かった。
「王都から二つの一行がそちらへ向かっている。一つは王国教会の異端審問官。もう一つは、A級パーティ”輝きの剣”のリーダー・セルディオ。気をつけられたし」
教会の追手。
そしてセルディオ。
手紙を折りたたんだ。
窓の外、夜の闇を見た。
面倒なことになりそうだ。




