第6話「獣人の傷と村の柵」
灰谷に来て九日目。
朝食を済ませて、町へ向かった。
辺境のギルド支部がある小さな町。片道半日の距離だ。
日が高くなる前に出発すれば、買い出しをして日暮れ前には帰れる。
「留守中のことはマルトに任せる。何かあったらリーネの氷魔法で対処してくれ」
「了解じゃよ」
「……分かりました」
マルトは飄々と、リーネは少し硬い顔で見送ってくれた。
エルナが包みを差し出した。
「昼食ですわ。昨日の残り物ですけれど」
「ありがとう。助かる」
フォン・クレーリスの聖女様に弁当を持たされるとは思わなかったが、ありがたく受け取る。
道中、森の中を歩く。
獣道に近い細い道だが、足元はしっかりしている。
町に着いたのは昼前だった。
小さな町だ。石造りの家が二十軒ほど。広場に市場が立っている。
まず市場で食材を買い込む。塩、干し肉、豆、小麦粉。種芋と、いくつかの野菜の種。
銀貨が減っていく。残りを数えると、あまり余裕はない。
が、当面はこれで凌げる。畑が育てば出費は減る。
次にギルド支部。
小さな建物だが、手入れは行き届いていた。
受付で開拓届の状況報告を提出する。
「ガルドさん、ですね。お待ちしておりました」
奥から恰幅のいい禿頭の中年男が出てきた。
眼鏡を拭きながら。
「支部長のバロッサ・ドームです。お話は受付から聞いておりますよ」
「わざわざ支部長が?」
「ええ。B級冒険者のガルド・ヘルツさんが辺境で開拓を始めたと聞いて、気になりましてね」
バロッサは柔和な顔をしているが、目は抜け目ない。
元冒険者特有の観察眼だ。
報告書を受け取りながら、バロッサが言った。
「ところでガルドさん。最近この辺りで傭兵崩れのならず者が出ると聞いておりましてね」
「ならず者?」
「ええ。元傭兵団の残党らしいのですが、辺境の旅人を襲って金品を奪っているとか。お気をつけください」
「分かった。ありがとう」
買い出しの荷物を背負って帰路につく。
日が傾き始めている。急いだほうがいい。
森に入ってしばらく歩いた時だった。
異変に気づいた。
道の脇に、踏み荒らされた跡がある。
草が倒れている。土が乱れている。何人かが暴れた痕跡だ。
そして——血の匂い。
足を速めた。
少し先の木陰に、大きな影がもたれかかっていた。
大柄な男だ。
褐色の肌。頭に——垂れた耳。獣人だ。犬系の。
体中に打撲と切り傷。服は破れ、血がにじんでいる。
気を失っている。
俺はしゃがみ込んで、まず脈を取った。
強い。この体格にしては心拍もしっかりしている。
命に別条はなさそうだが、このまま放置すればまずい。
傷口を見る。殴打による傷が多い。刃物の傷は浅い。
集団暴行だ。
バロッサが言っていた「ならず者」か。
薬草ポーチを開いて、出血の多い傷から順に手当てした。
応急処置を終えて、男の肩に腕を回す。
重い。体格が良すぎる。
だが、背負うほどじゃない。肩を貸せば歩けるだろう——意識が戻ればだが。
「おい。起きろ」
軽く頬を叩いた。
男がうめき声を上げて、目を開けた。
金色の瞳。犬系の獣人に多い目の色だ。
「……あ?」
ぼんやりした声。
「立てるか?」
「あんた……誰だ……?」
「通りすがりだ。立て。うちまで連れていく」
「うちって……」
「歩きながら説明する」
半ば引きずるようにして、灰谷まで連れて帰った。
日暮れぎりぎり。
村の入口で、リーネとマルトが待っていた。
リーネが俺を見て、次に担がれている大男を見て、眉を上げた。
「……また拾ってきたんですか」
「人聞きの悪い言い方するな」
小屋に運び、寝台に寝かせた。
エルナが治癒魔法で傷を癒していく。
淡い光が男の体を包むたびに、傷口が塞がっていく。
「骨は折れていませんわ。打撲と切り傷だけです。数日で動けるようになるでしょう」
「ありがとう、エルナ」
「いいえ。これがわたくしにできることですもの」
男が意識を取り戻したのは、スープの匂いが小屋に充満した頃だった。
金色の瞳がぱちぱちと瞬いて、ゆっくり体を起こす。
「いてて……。あー、えーと」
周囲を見回す。
俺、リーネ、マルト、エルナ。
「ここ、どこだ?」
「灰谷。俺の村だ。あんたは森で倒れてた」
「……ああ。思い出した。ならず者に囲まれて、数が多すぎて——」
男が頭を掻いた。垂れ耳がぺたんと倒れている。
「俺はドランだ。ドラン・グレイブ——いや、グレイブはもう使えねえか」
「傭兵団か?」
「よく分かるな」
「グレイブは傭兵団の団名だ。辞めたなら使えないだろう」
ドランが苦笑した。
「辞めたっつーか、追い出されたんだが。元傭兵団”黒狼団”の副団長だったんだけどよ」
声が暗くなった。
「団長が——ギルドの金を横領してやがった。で、そのツケを俺に着せて追放した」
「濡れ衣か」
「ああ。ギルドから手配はされてねえが、傭兵としての信用はゼロだ。行く当てがなくてよ。この辺をうろついてたら、ならず者に絡まれてこのザマだぜ」
自嘲気味に笑った。
だが、目は笑っていなかった。
エルナが差し出したスープを、ドランが受け取った。
一口飲んで——。
「うめえ!」
声が大きい。
小屋が揺れた気がした。
そして——尻尾が。
ドランの背後で、茶色い犬の尻尾が激しく左右に揺れていた。
本人が気づいて、慌てて手で押さえる。
「見るな!」
「いや、見てないが」
見てた。全員見てた。
リーネが口元に手を当てている。笑いを堪えているのかもしれない。
マルトが「ほっほっほ」と声を出して笑っている。
エルナが優雅に微笑んでいる。
ドランの耳がさらに垂れた。赤面しているのが褐色の肌越しに分かる。
「行く当てがないなら、ここにいるか」
言ってから、また自分に呆れた。
何人目だ。これで五人になるぞ。
ドランが驚いた顔をした。
「俺みたいな濡れ衣野郎を?」
「ここにいる全員、どこかに捨てられた奴だ。一人増えても変わらん」
ドランの金色の瞳が揺れた。
目が赤くなっている。
「泣いてねえぞ」
声が震えていた。
マルトが横から言った。
「泣いておるのう」
「泣いてねえって言ってんだろ爺さん!」
尻尾がまた揺れている。今度はさっきより大きく。
ドランは翌日から、別人のように動き始めた。
大柄な体を惜しみなく使って、村中を走り回った。
聞けば、傭兵団時代に野営陣地の構築を担当していたらしい。
建築の知識がある。しかも力が強い。
俺が三日かけてやるような作業を、半日で終わらせていく。
柵の設置。
屋根の葺き替え。
井戸の石組みの補強——俺がやったものを、さらに丈夫に組み直した。
「すまん。俺のより頑丈だ」
「へへ、まかせとけ!」
ドランが胸を張った。尻尾が揺れた。本人は気づいていない。
ドランがリーネに話しかけているのを見かけた。
「お前さん、魔族だろ? 俺は獣人だから、人間にいろいろ言われてきたぜ。気持ちはわかるさ」
リーネが少し驚いた顔をした。
「……分かるんですか」
「ああ。でもここじゃ関係ねえだろ。あのおっさん、誰が何族でも気にしねえもんな」
おっさん言うな。まだ三十八だ。
リーネが——小さく頷いた。
「……そうですね」
その声は、ここに来た初日より柔らかかった。
夕食。
五人で食卓を囲む。
ドランの食事量に驚いた。三人前を平らげて、まだ物欲しそうな顔をしている。
「畑、もう少し広げないとな」
「わしも手伝おう」
マルトが名乗り出る。膝はエルナの治癒のおかげで大分楽そうだ。
「わたくしは薬草園を作りたいですわ。治癒魔法だけでなく、薬草が常備できれば安心ですもの」
エルナの提案は理にかなっている。
「わたしは——」
リーネが口を開いた。
「何をすればいいですか」
「お前は見張りだ」
即答した。
「この村で一番目がいいだろ。耳もいい。何か異変があったら、お前が一番先に気づける」
リーネの目が——少し明るくなった。
分かりにくいが、確かに。紫の瞳に光が差した。
役割を与えられたことが嬉しいのだろう。
居場所があるだけじゃ足りない。自分が「ここにいる意味」がある、と思えることが大事だ。
——前のパーティじゃ、その「意味」を俺自身が感じられなかったわけだが。
皮肉なもんだ。
食後。
村の外周を歩いた。
ドランが建てた柵がぐるりと畑を囲んでいる。見張り台の骨組みもできている。
修繕された家屋に灯りが点いている。
五人分の灯り。
「村、か」
まだ村と呼ぶには小さい。
だが、確かに形になりつつある。
一人で始めた場所に、五人の暮らしがある。
足元に目をやると、俺の手が——前の人生の言い方をすれば「土に汚れた」手が見えた。
この手は二十年間、誰かの装備を磨き、誰かの飯を作り、誰かの傷に薬を塗ってきた。
今もやっていることは変わらない。
だが、一つだけ違う。
ここでは——全部、俺が「やりたくてやっている」ことだ。
命令でも義務でもない。
「悪くない」
二度目のこの言葉。
少しだけ、意味が変わった気がする。




