第5話「追放された聖女」
聖女の法衣。
間違いない。白地に金糸の刺繍、胸元に王国教会の紋章。
冒険者をやっていた頃、教会の聖職者と何度かすれ違ったことがある。この法衣はその中でも上位の者しか着ない。
だが今、目の前に倒れている女性の法衣はあちこち破れて泥にまみれていた。
長い間逃げ回っていた——リーネの時と同じだ。
額に手を当てる。熱い。高熱だ。
手首に触れて脈を取る。弱いが、規則的。
顔色が悪い。唇が乾いている。
「運ぶぞ。手伝え」
リーネが頷いて、女性の足を支えた。
小屋に運び、寝台に寝かせる。
暖炉の火をリーネが入れてくれた。何も言わなくても動いてくれるようになった。助かる。
毛布を掛け、白湯を沸かす。
薬草ポーチから解熱用のユキノシタを取り出し、すり潰して白湯に溶かした。
スプーンで少しずつ口に運ぶ。
女性は無意識にそれを飲み込んだ。
反射がある。大丈夫だ。
マルトが小屋の入口から中を覗き込んだ。
「聖女の法衣じゃな。王国教会の……」
「ああ。知ってるか?」
「見覚えはないが、あの法衣を着る者はそう多くないはずじゃよ」
リーネが俺の隣に立っていた。
その顔を見ると——複雑な表情をしている。
目が険しい。唇を引き結んでいる。
教会の人間に対する警戒か。
魔族と教会の関係を思えば、当然だ。教会は魔族排斥の立場を取ることが多い。
「教会の人間を助けるんですか」
リーネの声は平坦だった。だが、目は問いかけている。
「目の前で倒れてる奴に所属は関係ない」
同じことを、前にも言った気がする。
リーネは何も言わなかった。ただ、目を逸らした。
それから半日。
薬湯を何度か飲ませ、額に濡れた布を当てて冷やした。
昼過ぎ、女性の目がうっすら開いた。
亜麻色の長い髪。穏やかな顔立ち。二十代半ばといったところか。
だが、目の下に深い隈がある。ただの発熱じゃない、慢性的な疲労の蓄積だ。
「……ここは」
掠れた声。
「灰谷。辺境の廃村だ。俺はガルド。あんたが倒れてるのを見つけた」
女性がゆっくり周囲を見回した。
俺、リーネ、入口のマルト。
表情に混乱はあったが、パニックにはなっていない。状況を把握しようとしている目だ。
「わたくし——エルナ・フォン・クレーリスと申します」
丁寧な口調だった。声はまだ弱いが、芯がある。
「聖女として王国教会に仕えて——いえ、仕えておりましたわ」
「過去形か」
「ええ」
エルナが目を伏せた。
「わたくしは、治癒を貧しい方にも施すべきだと申しました」
声が少し硬くなった。
「教会は——許しませんでした。治癒は教会の収入源。金を払えない者に施すことは、教義に反すると」
「教義に反する? 人を助けることが?」
「そう言われましたわ」
苦笑するように口元が歪んだ。
「異端と認定され、追放されました。追手が来る前に逃げましたが、その過程で魔力を使い果たして……」
なるほど。
治癒魔法を使えるということは、魔力量がそれなりにあるはずだ。
それを使い切るほど追い詰められていたということか。
教会の追手から逃げるために、か。
——嫌な話だ。
人を治すために力を使いたかった奴が、逃げるために力を使い果たす。
前の人生で見た光景と重なった。
善意で動いた奴ほど、組織に潰される。
エルナがリーネの角に気づいた。
一瞬、沈黙。
リーネの肩が強張るのが分かった。折れた角の付け根に手が伸びかけている。
エルナが口を開いた。
「魔族の方……ですわね」
リーネが何も言わない。身構えている。
エルナは——微笑んだ。
疲弊した顔に浮かんだ、穏やかな笑み。
「わたくしは教会に異端と呼ばれた身です。今さら誰かを種族で差別するなど……できませんわ」
リーネの肩から、少しだけ力が抜けた。
それが見えた。
「飯を出す。食えるか?」
「……はい。お願いいたしますわ」
根菜と野草のスープ。
もう何度作ったか分からないが、毎回少しずつ改良している。今日は渓流の上流で見つけた香草を一つまみ加えた。
エルナの前に椀を置いた。
両手で受け取る。
湯気を一つ吸い込んで、一口。
「まあ……なんて温かい」
目が潤んでいた。
また泣くのか。
「うちに来る奴はみんな泣くな」
ぼやいた。
マルトが横で笑っている。
「お前さんの飯には、そういう力があるのじゃろう」
「ただのスープだ」
翌日。
八日目の朝。
エルナの熱は下がっていた。回復が早い。若いし、もともと体が丈夫なのだろう。
朝食の後、エルナが俺の前に座った。
居住まいを正している。何か言いたいことがあるらしい。
「ガルドさん。お願いがございますの」
「何だ」
「ここに置いてくださいませんこと?」
真っ直ぐな目だった。
「わたくしは治癒魔法が使えます。お役に立てるはずです」
「役に立つとか立たないとかじゃない」
遮った。
この言葉は、前に聞いたことがある。
追放された時に。
「あなたの枠を新しい攻撃魔術師に充てる」——つまり、お前は役に立たないから要らないと。
役に立つから置いてくれ。
役に立たないから追い出す。
どっちも、おかしい。
「いたいなら、いればいい」
エルナの顔が一瞬固まった。
そして——無意識に、自分の手首を握った。
左手で右の手首を。ぎゅっと。
その仕草を見た瞬間、何かを察した。
具体的に何があったかは知らない。聞いてもいない。
だが、この人は手首を掴まれていた——あるいは縛られていた。
そういう場所にいたんだろう。
「ここでは誰もお前を縛らない」
静かに言った。
エルナの目が大きく見開かれた。
唇が震えて、涙が頬を伝った。
声は出さなかった。ただ、涙だけが流れた。
俺は待った。何も言わずに。
涙が止まるまで、ただそこにいた。
四人目の住民ができた。
エルナは泣き止んだ後、すぐに動き出した。
「では早速、お役に——いえ」
言いかけて、自分で止めた。
俺の言葉を思い出したのだろう。
「わたくしにできることを、させていただきますわ」
まず、マルトの膝を診た。
治癒魔法の光が手のひらから溢れ、マルトの右膝を包む。
柔らかい、温かい光だ。
「完治は難しいですが、痛みの緩和と可動域の改善はできますわ」
マルトが膝を曲げ伸ばしした。
「おお。ありがたいのう。ずいぶん楽になったわい」
続いて、リーネの方を向いた。
「角の傷……診せてくださいませんこと?」
リーネが一瞬身構えたが——エルナの穏やかな目を見て、小さく頷いた。
治癒の光が、折れた角の付け根に触れる。
「折れた角そのものは戻せませんが、付け根の慢性的な痛みは和らげられますわ」
リーネの表情が、ほんの少し楽になった。
「……ありがとうございます」
小声だった。
目を逸らしながらの礼。だが、その声は確かに感謝の響きを持っていた。
夕食。
四人で食卓を囲んだ。
椀の数が増えている。一つだった椀が、いつの間にか四つ。
テーブルが手狭になってきた。
「なんか人数増えたな」
「言ったじゃろう。ここには居場所をなくした者が集まると」
マルトが笑う。
「不思議な場所ですわね。この村」
エルナが微笑む。
「……不思議じゃないです」
リーネが真顔で言った。
「ガルドさんの料理がうまいだけです」
「それは褒めてるのか?」
「事実です」
四つの椀から湯気が立つ。
温かい。
飯が温かいのもそうだが、食卓が温かい。
俺一人の食卓が、四人になった。
静かに暮らすだけのつもりだったが——まあ、賑やかなのも悪くない。
食器を洗い終えて、明日の予定を考える。
食材の確保が急務だ。四人分の食事を賄うには、畑だけでは足りない。
一度、辺境のギルド支部まで買い出しに行く必要がある。
確か、徒歩で片道半日の距離に小さな町があるはずだ。
ギルドの支部もそこにある。
開拓届の状況報告もしておきたい。
「明日、町まで買い出しに行ってくる」
「一人でですか?」
リーネが聞いた。
「日帰りだ。留守番を頼む。マルトもいるし、大丈夫だろ」
「……分かりました」
リーネの声は平坦だったが、心なしか不安そうな目をしていた。
大丈夫だ。
一日離れるだけだ。




