第4話「老剣士の最後の旅路」
灰谷に来て、四日目。
朝食を済ませて、リーネと南の森に向かった。
目的は薬草の採取。
ポーチの中身がだいぶ心もとない。傷薬の材料、解熱に使える草、虫除けの葉——全部減っている。
灰谷の南に広がる森は、思っていたより深かった。
木々の隙間から朝日が差し込んで、苔むした地面が緑に光っている。
空気がいい。王都の埃っぽさとは別世界だ。
足元を見ながら歩く。
お、早速見つけた。
ウロコ草。擦り傷と切り傷に効く。葉の裏に鱗のような模様があるからこの名前だ。
根元から丁寧に摘む。
「リーネ、この草が分かるか?」
「……苦い草ですか?」
「よく知ってるな」
「魔王軍でも傷薬に使っていました」
なるほど。薬草の知識は種族を問わないらしい。
二人で黙々と薬草を採っていく。
ユキノシタ、カラス葉、ネジレ根——ポーチが膨らんでいくのは気分がいい。
三十分ほど歩いた時だった。
足を止めた。
「どうしました?」
リーネが俺の顔を見上げる。
「……先客がいるな」
地面に焚き火の跡があった。
まだ温かい。灰の下に赤い熾火が残っている。
つまり、ついさっきまでここで火を焚いていた誰かがいる。
周囲を見回す。
岩陰に——人影があった。
白髪の老人だ。
痩せた長身の男が、岩にもたれて座っている。
服は旅装だが、くたびれている。何日も野宿を続けてきたような風体だ。
右膝を伸ばしたまま投げ出している。曲げられないのか、曲げたくないのか。
老人がこちらに気づいた。
「ほう」
穏やかな声だ。
顎に白い髭を蓄えた顔が、こちらを向く。
「この廃村に人が住んでおるのか」
警戒する気配はない。殺気もない。ただ純粋に驚いている目だ。
俺は老人の全体を見た。
腰に古い長剣を帯びている。柄の巻き革が擦り切れているが、鞘の手入れは行き届いている。
この男、ただの老人じゃない。
剣の携え方。体の軸。座った姿勢でも崩れていない重心。
——見覚えがある。
いや、直接会ったことはない。ギルドの資料で見た——戦闘報告書の挿絵だ。この構え方をする剣士を。
「あんた」
声が出た。
「もしかして——鉄嵐のマルトか?」
老人の眉が上がった。
「ほう。わしを知っておるのか」
やはり。
S級冒険者「鉄嵐のマルト」。
三十年前に大陸最強の剣士と呼ばれた伝説の男。十年前に引退してから消息不明——確かそうだったはずだ。
「冒険者をやっていた。名前くらいは」
「ふむ。元冒険者か。見たところ、かなりの手練れじゃのう」
「買いかぶりすぎだ。俺はただの雑用係だった」
「雑用係ねえ」
マルトが顎髭を撫でた。
この人、なんでこんな辺境の森にいるんだ。
「こんなところで野宿か?」
「通りがかりじゃよ。あてのない旅をしておってな」
「あてのない旅」
「死に場所でも探しておるのかと聞かれたら、否定はせんがのう」
軽い口調だった。
だが、右膝を伸ばしたまま動かさないその姿勢と、この場所にいるということ。
本気半分、冗談半分。
そんな声色に聞こえた。
「飯、食っていくか」
言った後で、我ながら呆れた。
また世話を焼いている。
だが、この人をこのまま置いていく気にはなれなかった。
マルトが少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
「ふむ。ならばご馳走になろうかのう」
灰谷に連れて帰った。
マルトは右膝をかばいながら歩いた。歩けないほどではないが、明らかに痛そうだ。
それでも足取りは安定している。体の使い方を知っている人間の歩き方だ。
小屋に入ると、リーネがすでに暖炉に火を入れていた。
マルトがリーネを一瞥した。角に目が行ったはずだが、何も言わない。
「お客さんだ。飯を作る」
「……分かりました」
リーネは警戒した目でマルトを見ていた。折れた角の付け根を右手で隠している。
三人分の食事。
今朝採った山菜と、昨日の残りの根菜。干し肉はもう切れたから、代わりに渓流で見つけた小魚を三匹焼いて身をほぐした。
それを全部鍋に入れて雑炊にする。
塩加減を見る。うん、悪くない。
三つの椀に注いで、テーブルに並べた。
「いただこうかのう」
マルトが椀を手に取り、一口すすった。
——手が、止まった。
「……これは」
「どうした?」
「支援魔法か?」
俺は眉をひそめた。
「は? ただの雑炊だが」
「いやいや。体の芯から力が湧いてくる。ただの飯ではあるまい」
何を言ってるんだ、この爺さん。
「米と出汁が良かっただけだろ」
「ふむ……そうかのう」
マルトは首を傾げながらも、雑炊を食べ続けた。二杯おかわりした。よく食う。
リーネが小さく口を開いた。
「……わたしもそう思います」
「何が?」
「このスープ——雑炊には、何か普通じゃない力がある気がします」
「気のせいだ」
二人して何を言ってるんだ。
俺の飯はただの飯だ。いい材料を丁寧に調理しただけ。支援魔法なんぞ使った覚えはない。
食後。
マルトが立ち上がろうとして、右膝を押さえた。
顔は平静を装っているが、一瞬眉が寄った。痛みがあるんだろう。
「膝、診せてみろ」
「ん? いや、大した事では——」
「いいから」
半ば強引に右膝を診た。
膝頭の下、靭帯の位置に古い傷がある。皮膚の上からでも分かる、深い損傷の痕跡。
「靭帯をやったのか」
「……十年前にな」
「十年もこれを放置してたのか」
マルトが苦笑した。
「治癒魔法でも靭帯の完全再生はできんのじゃよ。お主も知っておろう」
知っている。
だが、放置していい傷と、せめて痛みを抑えるべき傷は別だ。
薬草ポーチを開く。
さっき森で採ったばかりのネジレ根を潰して、ウロコ草の汁と混ぜる。
「完治は無理だが、痛みを和らげることはできる。湿布だ」
膝に巻いてやった。
マルトが何度か足を曲げ伸ばしして、息を呑んだ。
「おお……。ずいぶん楽じゃのう」
「毎日替えれば、もう少し良くなる。根本的な治療は無理だがな」
「……お前さん、冒険者にしておくのは惜しい男じゃのう」
「もう冒険者じゃない。ただの農民だ」
その夜、マルトは「一晩だけ」と言って空き家の一軒に泊まった。
翌朝。
五日目。
マルトがまだいた。
朝食を作っていると、のそのそと小屋に入ってきた。
「もう一日だけ厄介になろうかのう」
「好きにしろ」
リーネが横から言った。
「ガルドさんの料理は中毒性がありますから」
真顔だった。
「毒は入れてない」
「毒の話じゃないです」
どういう意味だ。
三人で朝食を食べた。
昨日採った薬草を使った野草粥。
マルトは三杯食べた。
食後、マルトがリーネの角に目をやった。
「魔族の娘か。それも……元幹部じゃな?」
リーネの肩が強張った。
折れた角の付け根に手を伸ばしかけて、止める。
「安心せい」
マルトの声は穏やかだった。
「わしは老いぼれの隠居じゃ。誰かを狩る気力も興味ももうない」
リーネがしばらくマルトの目を見つめて——小さく息を吐いた。
警戒が、少しだけ緩んだのが分かった。
六日目。
マルトが来て三日目の朝だ。
マルトが腰を上げた。
「そろそろ行くとするかのう」
背中を向けて、森の方に歩き出そうとした。
「行ってどうする」
俺の口が勝手に動いた。
マルトが足を止めた。
「あてのない旅に戻るのか? 死に場所を探す旅ってやつに?」
振り返ったマルトの顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「……老い先短い爺がどこで野垂れ死のうと、構わんじゃろう」
「構わんかどうかは知らん。ただ——」
言葉を探す。
正しいことを言おうとしたんじゃない。
ただ、思ったことをそのまま口にしただけだ。
「死に場所を探す旅なんて、飯がまずくなるだけだ」
マルトの目が見開かれた。
「ここにいればいい。飯は俺が作る。膝の薬も替える。畑の手伝いは強制しないが、暇なら付き合え」
長い沈黙。
森の鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。
マルトが——ゆっくりと、腰を下ろした。
「……ふむ」
顎髭を撫でる。
「では、もう少し厄介になるとするかのう」
その声は、かすかに震えていた。
目が潤んでいるのが見えたが、俺は気づかないふりをした。
こういう時、何か言うのは野暮だ。
三人目の住民ができた。
午後、マルトがリーネに声をかけた。
「娘よ。基礎体術は学んだことがあるか?」
「……多少は」
「ふむ。少し付き合え。体の動かし方を教えてやろう」
元S級冒険者が元魔王軍幹部に体術を教えている。
すごい光景だな。
俺は横で畑を耕しながら、それを眺めていた。
鍬を振り下ろす。土が割れる。
「うちの村、なんか強くなってないか……?」
独り言が漏れた。
ここに来た目的は、静かに畑を耕して暮らすことだったはずだが。
まあいいか。
賑やかになるのは、嫌じゃない。
夕食後。
暖炉の火を眺めながら、マルトが聞いた。
「お前さん、この村をどうするつもりじゃ?」
「どうもしない。静かに暮らすだけだ」
「ふむ」
マルトが顎髭を撫でた。
「じゃが、ここには居場所をなくした者が集まってくる気がするのう」
「大袈裟だな。まだ三人だろ」
「三人もおれば十分じゃよ」
マルトは笑って、借りた小屋に戻っていった。
俺も寝支度をする。
——翌朝。
七日目。
畑に出ようと小屋を出た瞬間、リーネが走ってきた。
この子が走るのを見たのは初めてだ。
「ガルドさん」
息を切らしている。
「村の入口に——誰か倒れています」
「またか」
呆れ半分で駆けつけると——。
白い法衣を纏った女性が、石垣の前で意識を失っていた。
聖女の法衣。
王国教会の紋章が、朝日に白く光っている。




