第2話「廃村に客が来た」
灰谷に来て、二日目の朝。
誰にも起こされずに目が覚めるというのは、こんなにも気分がいいものなのか。
寝台から体を起こす。
窓の隙間から朝日が差し込んでいた。
昨日の疲れが筋肉に残っている。背中と腕が痛い。
だが、嫌な痛みじゃない。自分のために鍬を振った痛みだ。
顔を洗いに井戸へ向かう途中、昨夜の気配を思い出した。
森の方から感じた、微かな魔力。
気になる。
少し寄り道するか。
畑の脇を抜けて、村の入口に向かった。
朝露に濡れた石垣。その向こうに、崩れかけた門柱が二本。
——そこに。
誰か、倒れている。
石垣にもたれかかるようにして、小さな体がくずおれていた。
銀色の髪。ぼろぼろの衣服。
子供——いや、少女か。魔族は見た目で歳が分からないと聞く。
駆け寄る。
少女の顔を見た瞬間、目に入ったのは頭部の角だった。
二本あるが、右側の角が根元から折れている。
傷口は塞がっているが、折れた断面が痛々しい。
角。
魔族だ。
手を額に当てた。冷たい。低体温だ。
息はある。浅いが、ある。
衣服の破れ具合から見て、ずいぶん長い間逃げ回っていたんだろう。
足の裏は傷だらけで、靴はとっくに駄目になっている。
魔族だろうが何だろうが、目の前で倒れてる奴を放っておくのは寝覚めが悪い。
少女を背負い上げた。
軽い。驚くほど軽い。
俺の小屋に運び、寝台に横たえた。
暖炉に火を入れる。朝の空気はまだ冷える。
毛布を二枚重ねて掛け、白湯を沸かした。
薬草ポーチから傷薬を取り出す。
足の裏の傷、手の甲の擦り傷、額の打ち身。
一つずつ薬を塗って、布で巻いた。
角の折れた跡は——触らない方がいいだろう。古い傷だ。俺が手を出すものじゃない。
しばらくして、白湯をスプーンで少しずつ口元に運んだ。
少女の唇が微かに動いて、水を飲み込む。
——よし。意識はある。
朝日が高くなる頃、少女の目が開いた。
紫色の瞳。
俺と目が合った瞬間、その瞳がぎゅっと鋭くなった。
少女の右手が跳ね上がる。
空気が一瞬冷えた——氷魔法か。
だが、何も起こらなかった。
手のひらの先で白い霧がちらついて、すぐに消える。
魔力が足りないんだろう。
枯渇寸前だ。
少女は自分の手を見つめて、顔を歪めた。
悔しさと恐怖が、その表情に同居している。
俺は動かなかった。
一歩も近づかず、一歩も退かず。
「落ち着け。敵じゃない」
低く、ゆっくり言った。
二十年間、パーティで新人や怯えた依頼人を相手にしてきた経験が口を動かす。
怖がっている相手には、まず声の高さを下げること。
少女の紫の瞳が、俺をじっと見つめた。
何秒か。長い沈黙。
少女の手が、ゆっくり下がった。
「……あなたは」
かすれた声。
「わたしが魔族だと、知っても追い出さないの?」
「追い出す理由がない」
俺の返事は短かった。
だって、本当にそうなんだから。
目の前にいるのは、ぼろぼろの服を着た、角の折れた少女だ。
魔族排斥令がどうとか、魔王軍の残党がどうとか、知ったことじゃない。
少女がしばらく黙って、それから小さく口を開いた。
「……リーネ。わたしの名前です」
「ガルドだ」
「ガルド、さん」
「ああ。腹、減ってるだろ。少し待ってろ」
立ち上がりかけた俺を、リーネが引き止めた。
「待って。……先に、言っておかないといけないことがあります」
紫の瞳が真っ直ぐに俺を見た。
「わたしは——元魔王軍第七幹部です」
……なるほど。
角の折れ方、魔力の質、この年齢に見える外見で幹部を名乗れるということ——納得できる材料は揃っている。
嘘をつく理由がない。隠しても角で分かることを、自分から明かすのは正直者の証だ。
「そうか」
「……驚かないんですか」
「驚いてるよ。一応」
正直、少しは驚いた。
だが、それ以上に思ったことがある。
「元、って言ったな」
「……はい」
「魔王軍は三年前に潰れた。今は元も何も、ただの一人だろ」
リーネの唇が震えた。
「追放された者同士だな」
その言葉は、計算して出したわけじゃない。
ただ、そう思っただけだ。
「……追放?」
「俺もつい最近、二十年いたパーティを追い出された。おあいこだ」
リーネの紫の瞳が揺れた。
何を考えているかは分からない。
だが、その目から少しだけ——ほんの少しだけ——警戒の色が薄れた気がした。
「飯、作る」
それ以上は何も言わず、台所に立った。
昨日掘った根菜を洗って刻む。
裏手に自生していた野草も摘んできた。
鍋に水を張り、塩と干し肉の端切れを入れて火にかける。
コトコトと煮込む間に、根菜を追加。野草は最後に入れる。薬草学の知識だが、野草は煮すぎると栄養が逃げる。
滋養のあるスープに仕上げたい。体が弱っている相手には、まず温かい汁物だ。
——前のパーティでもそうだった。
ダンジョンから傷だらけで帰ってきた連中に、まず温かいスープを出す。
それが俺の仕事だった。
いや。
今は違う。
これは仕事じゃない。
椀に注いで、リーネの前に置いた。
「飲めるだけでいい。無理するな」
リーネが椀を両手で包んだ。
湯気が、銀色の前髪を揺らす。
一口、口に運んで——。
リーネが、目を見開いた。
「……おいしい」
声が震えていた。
椀を持つ手も震えている。
そして——涙が。
頬を伝って、椀の中に落ちた。
一粒、二粒。
リーネはそれを拭おうともせず、ただスープを飲み続けた。
声を殺して、肩を震わせながら。
俺は何も言わなかった。
自分の分の椀を手に取って、静かに飲んだ。
何か気の利いたことを言えるような器用さは、俺にはない。
ただ、同じ物を同じ場所で飲んでいるだけだ。
それでいい。
椀が空になる頃、リーネの涙は止まっていた。
目が赤い。鼻も赤い。
それでも顔を上げて、俺を見た。
「……ここにいても、いいですか」
「好きにしろ」
即答した。
「ただし飯は手伝え」
リーネの顔が——ほんの微かに、緩んだ。
笑った、と言えるほどじゃない。
でも、表情が変わった。それは分かった。
「……はい」
午後。
隣の家屋の修繕を始めた。
二人いるなら、もう一軒必要だ。
屋根の板を剥がして、使える材だけ選んで張り直す。
壁の穴を泥と石で塞ぐ。
リーネは体力が戻っていないから、軽い作業だけ頼んだ。
泥をこねて渡してもらう、それだけだ。
「ガルドさん」
「ん?」
「……この村に、他に人は?」
「いない。俺一人だった。昨日まで」
「……そうですか」
作業を続ける。
夕方、リーネが畑のそばで立ち止まっていた。
折れた角の付け根を、右手で隠すように触っている。
顔は畑を向いているが、目は何も見ていないように見えた。
「角のことが気になるなら、帽子でも作るか」
声をかけた。
リーネが肩を跳ねさせて、手を下ろした。
「……別に。気にしてません」
目を逸らした。
嘘だな、とは思ったが、追及しない。
誰にだって触られたくない傷はある。
俺だって、前の人生の話なんか誰にもしたことがない。
夜。
二人で夕食を食べた。
朝の残りのスープに、新しく根菜を足したもの。
質素だが、温かい。
リーネは黙々と食べた。
おかわりを一回した。いい傾向だ。
食べ終わって、食器を井戸端で洗った。
水が冷たい。星が綺麗だ。
隣の修繕した小屋からは、もう灯りが消えていた。
リーネはすぐ寝たらしい。
当たり前だ。あれだけ消耗していれば、飯を食えばすぐに落ちる。
洗い終えた食器を棚に戻し、暖炉の火を弱める。
「“輝きの剣”の連中……今頃どうしてるかな」
ぽつりと、口をついて出た。
未練じゃない。
二十年も一緒にいた奴らだ。気にならないと言えば嘘になる。
まあ、俺がいなくてもなんとかなるだろう。ヴィルマは優秀だし、セルディオの腕前はA級だ。
そう自分に言い聞かせて、寝台に入った。
明日は井戸の周りを補強する。畑の畝をもう二列増やす。
やることが多いのは、悪くない。
今度は、全部自分のためだ。
目を閉じた。
——この時の俺は、まだ知らなかった。
遠い王都のギルド本部で、一枚の報告書が掲示板に貼り出されていたことを。
「A級パーティ”輝きの剣”、D級ダンジョン探索にて全員重傷」
その報告を。




