第1話「勇者パーティの雑用係、38歳で追放される」
夜明け前に目が覚める。
いつものことだ。
体に染みついた習慣は、二十年やそこらじゃ抜けない。
宿舎の台所に立ち、五人分の朝食を作り始める。
干し肉を薄く切って、パンを焼き、卵を割る。
火加減を見ながら、昨日買った野菜でスープを仕込む。
その間に装備棚を見て回る。
セルディオの剣の刃こぼれ。研いでおこう。
ヴィルマの杖の魔石、少し曇ってるな。磨いておくか。
新人の革鎧の留め具が緩い。予備の金具に交換だ。
もう一人の前衛の盾、裏の握り革が擦り減ってる。巻き直し。
朝飯が焼ける匂いと、革を縫う針の感触。
二十年間、ずっとこの時間から一日が始まる。
全部済ませて、机の上に今日のダンジョン探索の情報をまとめた紙を並べた頃、ようやく他の連中が起きてくる。
「おはようございます、ガルドさん」
リーダーのセルディオが、いつもの人当たりのいい笑顔で台所に顔を出した。
金髪碧眼の美青年。勇者の血筋を引く名門レクト家の三男。
十九歳。俺がこのパーティに入った時、こいつはまだ生まれてもいなかった。
「おはよう。卵焼き、冷めないうちに食え」
「はい。……あの、ガルドさん」
セルディオが髪をかき上げた。
こいつがこの癖を出す時は、大抵ろくな話じゃない。
「食ってからでいいだろ」
「いえ……先に、話を」
嫌な予感がした。
というより、薄々気づいていた。
最近ヴィルマがやたらと「パーティの予算配分を見直すべき」と言い出していたこと。
新しい攻撃魔術師の候補を探していたこと。
俺に目を合わせなくなったこと。
全部、見えていた。
雑用係ってのは、そういう空気の変化に一番敏感な生き物だ。
「話がある」
背後から、鋭い声。
振り向くと、ヴィルマ・シェーレが腕を組んで立っていた。赤毛を高く結い上げた女魔術師。A級パーティに平民から実力だけでのし上がった切れ者。
目つきは、いつも通り鋭い。
「パーティの方針を見直した結果、あなたの枠を新しい攻撃魔術師に充てることにしたの」
まっすぐだった。回りくどい言い方は、この女の性分じゃない。
セルディオが口を開きかけた。
「ガルドさん、その……」
言葉の続きは出てこない。
こいつはいつもこうだ。優しいくせに、肝心な時に何も言えない。
俺は——。
怒りは、なかった。
悲しみも、思ったより薄い。
あったのは、「やっぱりか」という感覚だけだ。
前の人生でもそうだった。
毎日終電まで働いて、休日も呼び出されて、体がおかしいと気づいた時にはもう遅かった。
病室で目が覚めた時、会社の上司が言った言葉を覚えている。
「代わりはいくらでもいるから、気にしなくていいぞ」
——ああ、同じだ。
「そうか」
俺は、それだけ言った。
ヴィルマが少し目を見開いた。もっと抵抗すると思っていたのかもしれない。
セルディオが「ガルドさん、僕は——」と声を絞り出したが、俺はもう背を向けていた。
二十年分の荷物は、驚くほど少なかった。
旅行鞄一つに収まる。
鍬。塩と干し肉。調理道具一式。薬草ポーチ。銀貨が数枚。
二十年間パーティの運営費を優先してきたから、個人の蓄えはこれだけだ。
笑えるな。前の人生の貯金もゼロだった。
宿舎を出て、ギルド本部の受付に向かう。
個人登録の手続きをしながら、受付の女性職員に聞いた。
「辺境に、空いてる土地はあるか」
「空いてる土地、ですか? ガルドさん、まさか——」
職員の顔が曇る。この子は前から俺の手続きを担当してくれていた。
「あなたがいなくなったら”輝きの剣”は——」
「俺のことはいい」
遮った。
「それより、静かに暮らせる場所がいい。人が少なくて、畑ができるところ」
職員がしばらく台帳をめくって、一枚の紙を差し出した。
「灰谷、という廃村があります。王都から馬車で十日。三十年前に銀鉱が枯れて住民が出て行ったまま、放棄地扱いです」
「水は?」
「井戸が一つ、まだ使えるとの記録があります。土壌も渓流の堆積土で肥沃だと」
「いい。そこにする」
開拓届に署名した。
ペンを置いた瞬間、少しだけ手が震えた。
二十年いた場所を離れるってのは、こういう感覚なのか。
個人ランクはB級。パーティの総合力でA級認定を受けていただけで、俺個人の戦闘力は低い。当然だ。雑用係だから。
馬車に揺られて十日間。
景色が変わっていく。
王都の石畳が土の道に変わり、街道の旅人がまばらになり、やがて森と山だけになった。
揺れる荷台の上で、俺はずっと考えていた。
前の人生のこと。
毎日終電で帰って、コンビニ弁当を食べて、三時間だけ寝て、また満員電車に乗る。
机に突っ伏して目覚めたら病院のベッドで、隣に誰もいなくて。
次に目を開けたら——この世界の赤ん坊になっていた。
二度目の人生だと理解するのに、三年かかった。
冒険者ギルドの下働きを始めたのが十五。
「輝きの剣」に拾われたのが十八。
それから二十年、同じことを繰り返した。
誰かのために朝早く起きて、誰かのために飯を作って、誰かのために装備を整えて。
自分のために、何かしたことがあったか?
——ない。
前の人生でも。この人生でも。
「今度こそ」
馬車の揺れに合わせて、声に出した。
誰にも聞こえない小さな声で。
「今度こそ、自分のために生きる」
灰谷。
馬車を降りた瞬間、風が吹いた。
土と緑の匂い。
朽ちた家屋が十数軒。伸び放題の雑草。崩れかけた石垣。
だが——。
井戸に手をかけて、滑車を回す。
水が上がってきた。澄んでいる。
顔を洗った。冷たくて、うまい水だった。
「生きてるな、この土地」
一軒の小屋を選んで、屋根の穴を板で塞いだ。
壁の隙間に泥を詰めた。
床の腐った板を剥がして、まだ使える板を敷き直した。
完璧じゃない。だが、雨風はしのげる。
裏手の土地に出た。
鍬を振り下ろす。
土が割れる。黒い、いい土だ。
前世の記憶——実家の婆ちゃんが家庭菜園をやっていた。小さい頃、手伝わされた。土の色と匂いで、畑に向いてるかどうかは分かる。
ここは、いける。
根を掘り返し、石を除け、畝を立てる。
日が傾く頃には、小さな畑の形ができていた。
夕暮れ。
畑の隅に自生していた野草を摘み、持ってきた塩と干し肉で煮込む。
火を起こし、鍋をかける。
小屋の中に湯気が立ちこめる。
椀に注いだ。
一人分の、野菜スープ。
誰のためでもない。
俺が食うための、俺の飯。
両手で椀を包んだ。温かい。
一口、すすった。
「……うまい」
声が震えた。
味は大したことない。塩が足りないし、具も質素だ。
でも——。
これは、俺が自分のために作った飯だ。
三十八年——いや、前の人生を合わせたら七十年以上。
初めてだ。こんなの。
目尻が熱くなった。
馬鹿みたいだ。こんなスープ一杯で泣きそうになるなんて。
袖で目元を拭って、笑った。
「……悪くない」
椀を空にして、食器を井戸端で洗う。
星が出ていた。
王都では見えなかった星が、ここでは降るように光っている。
片付けを終えて、小屋に戻ろうとした時——。
ふと、村の入口の方角に目をやった。
森の奥から、微かな気配がする。
獣か。
いや、違う。
長年ダンジョンで気配を読んできた勘が言っている。
あれは——魔力だ。弱いが、確かに。
……まあいい。
今日は疲れた。
何であれ、明日でいいだろう。
小屋の寝台に横になる。
天井の隙間から、星が一つ見えた。
「明日は、畑の続きだな」
目を閉じる。
誰かに起こされない朝を迎えるのは、二十年ぶりだ。




