第陸幕:マルゲリータ
カエデは特別棟四階の一番端、第三多目的教室で昼寝をするのが何よりの楽しみであった。
最初は埃っぽくてとても居られるような部屋じゃなかったのだが、置き去りにされてあった掃除道具で綺麗にし、乱雑だった机やダンボール箱を整理整頓するとそこそこ住める程度にはマシになった。給湯器と流し台もあるし、テーブルやソファも発見した(綺麗に手入れすれば十分使える)。
このところ今までにないくらい、憂鬱な日々を送っている。二年前の自分を呪いたい。
(もっとマシな学校だと思ってたのに……)
何もかもが普通の私立高校。目立った特色もなく。厳しいのか緩いのかイマイチ基準のはっきりしない生徒指導。たいした実績もないくせに偉そうな卒業生たち(学期に一度やって来ては、有り難くも長々しいお話を聞かせて下さる)。
しかし、一つだけ良い点を挙げるとすればそれは、図書館の蔵書の豊富さだろう。帰宅部のカエデにとって毎日の楽しみといえば専ら読書であった。ああ、速く続きを読んでしまいたい。
(あと一冊読めば、念願の百冊達成だ)
ベターだが、図書館だよりの「おススメ本」を全部読破してやろうと画策している。
今日も今日とて例に漏れることなく、いつものように早めの昼食を取って横に何ぞなりながら、やれセントラルパークのあひるが湖面が凍っている間どこへいくんだだとか、博物館の手すりや学校の個室トイレの壁や何かに厭らしい落書きをするのはどこのどいつだとか、自分は結局大きな大きな麦畑で断崖から落っこちそうになるであろう子どもたちを見守り、また危なくないように捕まえて助けやる役目になりたいとか何とかほざく青年が登場する気違いみたいな小説を読んでいるうちに、どうやら本格的に眠り込んでしまったらしい。
「…………」
「……おい」
「……はい?」
「何してんの」
目を開けると、デッキブラシを振り上げてこちらを見下ろしている女氏学生の姿が視界いっぱいにあって、さすがのカエデも一瞬で思考がクリアになった。こんなに驚いたのは、ここ最近で一番かもしれない。
ここ一年、いや、高校に入って一番といっても差し支えないかもしれない。
「えーっと……。とりあえず、ごめんなさい」
至極気まずそうな顔をすると一応の謝罪の言葉を述べて、今の今まで振り上げていたそれを下ろした(とりあえずって何だ、おい)。
最近の女の子ってのはわりと物騒なんだなーなどと思考の内で思いつつ、カエデはおもむろに起き上がってうーんっ、と伸びをした。どれくらい眠っていたのだろうか。
「あー、何にもないけど」
ソファから立ち上がって水屋のガスに火を点ける。無断で持ち込んだカセットコンロだが、火の取り扱いに細心の注意を払っておけば特に問題はないだろう。戸棚から何種類か茶葉の缶を取り出す。
「紅茶は好きか。煎茶もあるけど。たしかこの前、お隣さんに貰ったやつがどっかに」
「あー、うー、えーっと……」
「なんだ、コーヒーの方が良かったか?」
「う、ううん。紅茶、好きです」
「分かった。とりあえず湯、沸かすな」
緑茶の缶をしまい、食器棚からポットと二人分のティーカップを取り出す。この前、漂白剤につけておいて良かった。茶渋のついたような見苦しい茶碗を客の前に出すわけにはいかない。
「ところで。あんた、名前なんての? 俺はカエデ」
「し、失礼しました。私、モミジ。カエデくんのことは……知ってます。カエデくん、有名だもの」
モミジはそう云って、また気まずそうに俯いた。所在なさげにブラシを前後左右に揺すっている。いつまで持ってるつもり何だろうか、そのデッキブラシは(俺に襲われるとでも思ってるんだろうか。だとしたらすこぶる心外だ。俺をその辺の不良や何かと一緒にしないでほしい)。
「ふーん、あっそ。まあいいや。ああ、同じ学年だよな、俺たちって」
制服の上衣の襟についた襟章を見やりながら、「へえ、あんたが〈三ツ星〉ねえ。生徒会でもやってんの?」
「……図書委員長です。カエデくんだって、〈三ツ羽〉の〈二ツ星〉でしょ」
「あっ。じゃあ俺の上司にあたるわけか。図書委員だし。けどまあ、同学年だから敬語はやめようぜ」
「う、うん……」
モミジは少し気恥ずかしそうに左の襟章の刺繍羽を弄っている。
何となく外が騒がしいような気がして、カエデは部屋の窓の方に目をやった。心なしか階下も騒々しいような気がする。
「…………きた……」
そう呟いて、モミジはずっと握っていたブラシを両手で持ち構えた。一体なんだというのだろう。
「お、おい。どうした」
「……くるの。アイツらが」
「あいつら? アイツらって――」
カエデがモミジの方に歩み寄った、その時――
「ううぅ……!」「ああぁ……!」
廊下側の窓が勢い良くこちら側に倒され、同時に一緒に倒れ込むようにして二人の人間が入ってきた。どう見ても、普通の部屋への入り方ではない。
「どうなってんだ、この学校は。不審者が野放しに、」
「近づいちゃダメッ!」
倒れる二人に近寄ろうとしたところを、後ろからモミジに抱きつかれて妨害された。
「お、おいっ! なにしてんだ、あんたっ」
「普通じゃないの。この人たちは……」
「そんなの見れば分かるっ。そうじゃなくてお前は」
「……だから、殺すの」
モミジはデッキブラシを反対に持ち替え柄の先端を不審者の方へ向けると、大股で歩み寄って、
「お、おい! なにをッ!」
「ううぅ!」「ああぁ!」
うつ伏せに倒れる不審者の一人をブラシで仰向けにさせると、次の瞬間、その先端をそいつの眼窩に突き刺した。本当に勢い良く突き刺した。
「頭を……、やらないと……、ダメみたいなの」
もう一人の不審者も同じように仰向けにさせ眼窩を潰すと、二人が完全に事切れたのを確認して、モミジはブラシを握る手を解いた。木のデッキブラシが床に落ちて乾いた音を立てた。
なるほど。どうりで彼女がデッキブラシなんて持っていたわけだ。第一、こんな日頃使ったりしない特別棟の、それも最上階の教室に客なんかが訪ねてくるわけがないのだ。今までだって、教師の一人も訪ねにきたことがないのに。
だからカエデが目覚めた時、彼女はブラシを振り上げていたのだ。大方、カエデのことをそこで倒れている連中と同類だとでも思ったのだろう。
そう考えると、カエデは背中から冷や汗が流れるのをとめられなかった(もう少し目が覚めるのが遅かったら、俺は今頃どうなってたんだ?)。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……逃げましょう」
モミジが口を開いた。
「あ、ああ……。そう、だな」
カエデは大きく頷いた。コンロの火を消し、掃除箱の中の箒を掴む。
「モミジ」
彼女のそばに歩み寄って手の甲で、頬に飛んだそれを拭い取ってやる。「血、ついてんぞ。ここにも」
「あ、ありがと。カエデくん」
赤面するモミジ。刹那、盛大に腹の虫が鳴いた。
ますます紅潮するモミジの頭髪を、なぜだか無性に撫でてやりたくなって、カエデは髪がぐちゃぐちゃになるのも気にせずにぐりぐりと撫ぜ回す。
身長はカエデの方が頭半分くらい高いといった感じだが、俯くとモミジの頭は顎の下あたりにまで下がってしまう。
カエデの顎の下でうーうーと唸っているモミジの頭を撫ぜながら、
「俺も何だか腹が減ったな。なあ、今、何が食いたい気分?」
カエデの訊いた問いに、モミジは真剣な様子で考え込んでいたが、やがて、
「ピザが食べたい……」モミジが顔を上げた。「……今の気分だったら、私、ピザが食べたい」
「ピザかー。よし、じゃあ食おう。いっぱい食おう。ちなみに俺はマルゲリータが好きだ」
「私もっ! 私も大好きだよっ」
「よし。じゃあー、店を探すか」
「うんっ!」
カエデは最後にモミジの頭を二、三度ぽんぽんと、弾ませるようにして撫ぜた。
何が必要になるのか分からなかったので、とりあえずお金と携帯電話と、それからさっき読んでいた本を手に取ると、しばし熟考した挙句、それを制服の外ポケットにしまった。
「なあ」カエデは問うた。「セントラルパークのあひるは冬の間、どこに行くと思う?」
「あひる?」カエデは振り返り、少しだけ首を傾げた。「パークのあひるって、あの大きな池に住んでるあひるたちのこと?」
「ああ、そうだ。あの池のあひるたちだ。凍てつく冬の間中、どこに行くと思う?」
モミジはしばし、顎に指などあてて考え込んでいたが、やがて、
「ごめんね、分かんないや」
「そうか……」カエデはほんの少し、落胆した。思わず俯く。
「でも――」
カエデは顔を上げて彼女を見た。モミジは言葉を続けた。
「でも、きっと、無事だと思う。全然ちっとも、苦しくなんかないんだと思う。どこか寒くない、凍えちゃわない安全な場所で家族みんなで、仲良く楽しく暮らしてるんだと思うよ。ううん、そう思いたい」
「ああ」カエデは微笑んだ。「ああ、そうだな。そう思いたい。そう信じたいよ、俺も」
モミジも微笑み返してくれた。
「行こっか」
「おう。行こうぜ」
どちらともなく、二人は手を繋いだ。
かたくかたく。ピザ屋を目指して。
§ § §
春風院梅嗣は駅舎の駅務室で、鼻歌なんぞを歌いながら手元の操作パネルを弄りつつ、
「こっちは問題なし。そっちは?」
耳に引っかけたイヤホンマイクのスイッチを入れた。
『准尉。こっちも問題なしです。四十秒後に、線路の切り替えボタンを押します――』
「りょうかーい。装甲機関車はそのまま、微速にて前進されたし」
『機関車、了解。前進微速。予定ポイントまであと、マイナス120、115、111、107、100――』
無線通信の音量を調節しつつ、梅嗣は待合室の売店で見つけたスティックチョコレートに齧りついた。甘いミルクチョコレートを細長く棒状に伸ばして固めただけのもので、一つひとつ個別の包装紙に包まれている。全部で六本。これで三本目だ。
いつもなら上級生や同輩などから「食べすぎだ」と注意されるが、今日は誰も梅嗣の間食を咎めない。今日ばかりはこれくらい、大目に見てくれているのだろう(こんな惨状を呈した現場では、人の間食どうこうを気にするだけの余裕がないというのが一番の理由ではあるだろうが)。
銀紙の包み紙を半分だけ外し取って、もう半分の部分を柄のようにして口元へと運ぶ。手はず通りに列車が移動できているかパネルやモニタ画面を見比べながらがじがじと咀嚼し、新しいそれに手を伸ばそうとすると、
「それで幾つ目なの」
「わあっ、びっくりした! もう、ユキくん、脅かさないでよぅ!」
突然背後から声をかけられ、集中していたこともあって危うくお菓子を落としてしまうところだった。
「脅かしたんじゃなくて……。はあ……。もういいです」
「あっ、ユキくん。また敬語に戻ってるよ。僕ら同じ学年なのに」
「勤務中は基本、敬語なんです。まったく。君がせがんで煩いから」
「もー、お堅いんだから。そんなんで同じ部隊の同輩たちとは仲良くできてるの?」
「ご心配なく。交友関係はすこぶる良好ですので」
そう云って雪嗣は、自身の制服の襟を正した。指先で折襟の塩梅を整えている。
やはり副官としていつも上官のそばにいると、その人の癖や仕草が移ってしまったりするものなんだろうか。
彼の上官の桜乃も良く、今の雪嗣がやったみたいに折襟の塩梅を確かめたり、整えたりすることがある。桜乃の場合は、鉄十字章の勲章を第一ボタンに引っかけるようにして吊り下げているので塩梅が気になるのは分かるが、雪嗣にはまだその勲章がない。
「交友関係って。もうー、言葉が硬いなあ」
「准尉、そんなことより。手元がお留守ですよ」
「ほら、また敬語」
「はいはい、分かったから。ちゃんとモニタ画面を見てよ」
隣の椅子に着席した雪嗣に頭を小突かれて、梅嗣はちょっとむっとして頬が膨らむのを我慢できなかった。
『ポイントを通過。異常なし――』
『了解。こっちも異常なしです。准尉、A9のボタンを――』
「了解しました。3、2、1、押します――」
すべての手順が順調に進み、列車の移動作業は予想よりも早くに終了した。後のことは、雪嗣たちフィボナッチ隊の兵士に任せておけば良いだろう。
「ねえ、准尉」
「…………」
「准尉、聞いてる?」
「……梅嗣、です」
「…………」
「僕の名前は、梅嗣です」
操車盤や計器を弄りつつ、梅嗣は再度念を押した。「僕の、名前は、梅嗣、です」
するとようやく、今度こそ観念したとみえる。
「……ねえ、梅嗣」
「ふふふっ。なあに?」
こちらも素直に応じてやることにした(どうだ、参ったか!)。
「あのね、梅嗣」「うん。だから何なのさ」「うん……」
そこで、梅嗣ははじめて彼の顔を見やった。機器の盤面から顔を上げる。
雪嗣は所在なさげに袖口についた飾りボタンを弄っていた。
「ねえ、僕のこと、傍から見てどう思う」
「なに?」
「桜乃さまは僕のこと、どう思ってるのかな」
「どう思ってる、とは?」
「ッ! な、何かおっしゃってたのっ? 僕のことっ」
「い、いや……特には何も」
「そ、そっかー」
「…………。どうしたの、突然急に。何かあったの? 何か言われた?」
「別に。そんなんじゃないけど」
「ふーん」
雪嗣が言いたくないのなら、こちらが無理に問いただす必要もあるまい。
そう思い梅嗣は、再び機械の操作に意識を戻した。「あ……っ」ふと、思い出したことがあって、思わず声を零した。けれど、雪嗣には聞こえなかったようだった。依然として兵服の袖を弄って遊んでいる。
「待合室で何かあったんでしょ」
「うん……。まあ、そうなんだけど、そっちにはあんまし興味ないっていうか。気になるのはそっちじゃなくて……。いや勿論、一神学徒としては興味がないわけじゃ決して……」
うーん、うーんと悩ましげな声をあげる雪嗣。梅嗣はそれを見て、多分きっとそういうことだろうと合点がいった。
(ふーん。そういうことか)
梅嗣は独り胸中で納得する。それが小さな笑みとなって表情に表れてしまったらしい。こちらの様子に気づいた雪嗣が、「ちょっと! なに一人でニヤけてるのさっ」
こちらの肩を掴んで、大きく前後に揺すられる。「ちょ、っと!」お蔭で誤って操車盤のスイッチに指が触れそうになって内心焦る。
「正直にお言いよ、梅嗣。一体、桜乃さまから何を聞いたんだい」
「何をって言われても」
ここにきて、梅嗣に名案が浮かんだ。
眼前で切羽詰まった顔をしている同輩には日頃いろいろ(な意味で)お世話になっている。ここは一つ、平素のお返し(決して仕返しではない、決して)をしてやるのが大和人としての礼節というものだろう。
「ふーんだ。そんな物言いで聞かれてもなー。そういえば、三佐殿は何かお言いだったと思うんだけどなー」
「なっ。何とおっしゃられていたんだ、桜乃さまは! 隊長殿はっ!」
「だーかーらっ、そんなキツい物言いじゃ、思い出せるものも思い出せないでしょ」
「き、君はまた、この期に及んで」
「へえー、ユキくんはまだ僕にそんな口を利くんだね」
「な、何を!」
決して面白がっている訳ではない、決して。
暫しの間、梅嗣は雪嗣との押し問答を楽しむ。
悩ましげな顔で唸っている雪嗣をからかっては時折意味深なことを言い、梅嗣のその言葉でまた苦しげな表情を浮かべる雪嗣を見て遊ぶ。
どれくらいの時間、そうして楽しんでいたのか。
その時、卒然に空腹を感じ出して、何の気なしに、「あー、何だかとってもお腹が空いたなー」
作業機材を触りながら呟いていた。そういえば新市街の方に、評判のピザ・ショップがあるそうだ。そこのマルゲリータがかなり美味しいと最近、学園の寮で話題になっていた。
「あー、何か食べたいなー」
別に深い意味はなかったが、雪嗣には何か意図のある言葉だと認識されたらしく、
「ようし、分かった。分かったよ分かりました」
「えっ?」
「何か買ってくれば良いんでしょ。ほら、早く」
「う、うん?」
「もうだから! 何が食べたいのか言ってってことだよ! 良いから早く!」
どうやら雪嗣には、梅嗣が形勢の優位を武器に、たかったものと思われたようだ。「ああもう、今月の給金にはまだ、手を出してなかったのに」何やらぶつくさと一人ごちている。
(まあ、良いか。向こうが勝手に言い出したことなんだし……)
そうだ、そうとも。別に梅嗣が強要したわけではないのだし(誤解を多分に与えるような言い回しをしたのは梅嗣だが)、罪に問われることはあるまい。聖年騎士団にも軍法会議のようなものはあるが、雪嗣は自身の名誉のためにも無暗に他言するとは思えない。
(名誉……)
いや、ダメだ。
梅嗣とてこれからの春風院家を背負って立つ子弟なのである。それだのに、このような恐喝まがいの行動は厳に慎むべきことだし、また恥ずべきことでもある。
「い、いや雪嗣、さすがにそれは悪いよ。ここは僕と君とで折半というのはどうかな?」
云いながら梅嗣は考えを巡らす。仮に奢ってくれたとして、せいぜいが駅のキオスクか、それこそ待合室の売店の商品だろう。言ってしまえば悪いが、金額なんてたかが知れている。
(それとなく導いてやって、お互いの妥協点を探るか)
けれど雪嗣はかなり頭に血が上っていたらしい。
「ふん! 何を今さら。これ以上、僕を侮辱する気なら、もう許さないぞ」
「侮辱だなんて大仰な。雪嗣聞いて。僕が悪かったって、謝るよ」
「あのね梅嗣。僕だっていずれは冬風院家の家督を継ぐべき、貴族の子弟だ。そんな今になって、取ってつけたみたいに謝られたって!」
「分かったから。ちょっと落ち着いて! 興奮しないで」
「興奮もするさっ、呷ってきたのは君の方でしょ!」
少しからかいすぎたか。
雪嗣は頬を紅潮させ、手には硬貨用の革財布を握り締めている。わりと膨らんでいる。中身がすべて銅貨というわけではあるまい。
「ねえ、お財布なんか出して。こんな状況で、一体どんな物が買えるって言うのさ」
「ほう……、言ったな。よくぞ言ってくれたな。よーうし」
(マ、マズい。ユキが本気になる……)
胸中で焦る。
「もうなってるよ、とっくの前からね」
「――ッ!」
瞬間、梅嗣は席を立つ。とっさに雪嗣に近寄って進路を塞ごうと考えたのだ。
この流れはマズい。非常にマズい。
つい一、二刻前、金沢からの復路の途中で、例のお店の話をしていたところだったのだ。何なら寮でその話を聞いた際、雪嗣も同席していたらしく、「あのねえ、その時僕も隣にいたでしょう」と呆れられたのは記憶に新しい。「本当に頭のネジが何本かぶっ飛んでんじゃないの?」とまで言われた。よくよく考えれば、いやよくよく考えずとも、酷い言い草なのである。辛辣なのである。
「そうだ。ちょうど良いじゃない。今からそのピザ・ショップとやらへ出向いて、それから二人で、その評判のマルゲリータとやらを食してみようか」
「今からって。気は確か? 今がどんな状況だか分かってる?」
「うん。もちろん」
「う、うん、もちろん……って」
「そうとも分かってる。それでもなお、行こうと言うのさ。我らが聖騎兵の名誉にかけてねッ!」
「…………」
雪嗣は腰に吊った士官用拳銃の弾倉を引き抜くと、残弾の確認をし出したので梅嗣もいよいよ本気で焦る。
冗談ではない。こんな発狂市民たちのうろつく街を二人。たった二人きりで抜けてピザを食べてくるだなんて。
第一、梅嗣は銃の扱いにそれほど自信のある方ではない。だからこそ遊撃部ではなく兵站部を志願したのだ。幸いにも機械には興味があったし、一年かけてようやく機関車の整備もできるようになった。けれど射撃の腕はと問われると……。
雪嗣の腕前のほどを知らないが、少なくとも射撃技能章を受章したといった話を聞いた覚えはない。二人でいる時に仕事の話もするにはするが、改まってそんなこと訊いたりしないし……。「おや、あすこにちょうど良い的が。さあ二人で、〈弓争ひ〉ならぬ〈銃争ひ〉をしようよ。一体何発、あの的に命中させられるかな」…………。どう考えても不自然な会話である。
「分かった。分かったから」梅嗣は雪嗣の眼をしっかりと見据えて謝した。「僕が悪かった。本当に。謝るよ」
「…………」
梅嗣は深々と、誠意を込めて頭を垂れた。
最初、雪嗣は「むー」と小さな唸り声を出して渋り顔をしたが、やがてその熱も冷めたらしく、
「まあ、ウメがこんな真剣に謝ってくれることなんて、滅多にないことだし」
少なくとも雪嗣の双眸から興奮の色は消えていた。
(助かった……)
梅嗣は独り胸中で息を吐いた。
危うく二人して心中するところだった。同じ死ぬのなら殉職や殉教の方がまだ幾らかマシだ。かといって進んで死を選ぼうとも思わないが。いつか思う日が来るのだろうか。職務や信仰のために選ぼうとするその日が。しかしそれは、少なくとも今日この時ではない。
兎にも角にも、ひとまずはこれで心中せずに済みそうだったが、ここまで呷った責任は確かに梅嗣にもあるだろう。実際、小腹が空いているのは事実である。
こうなったらキオスクのおむすびかサンドイッチでもねだって、すべての事態の収拾を図ろうと思い、「ピザ・ショップはまたの機会にするとして。ねえユキくん。ボク、キオスクのポテトサンドが――「おや、行かないんですか?」
『――っ!』
梅嗣は声にならない悲鳴を上げた。雪嗣は驚きの表情とともに椅子から立ち上がる。半秒遅れて梅嗣も起立し背後の何者かと対面した。
「「え、衛士卿!」」
途端、梅嗣も雪嗣も姿勢を正して敬礼した。
「……その名で呼ばないでください」
卿は苦笑を浮かべて答礼しつつ、「……お願いですから」呟くようにそう云ってますますその苦笑を深めた。
梅嗣はこれまでの彼に対する印象とのあまりの違いに、少々混乱していた。初対面の時に感じたあの、溢れんばかりの自信とおごりが、今はちっとも感じられない。そればかりかどことなく哀愁さえ感じさせる。
「し、失礼いたしました、桜庭一尉」雪嗣が謝罪と訂正を入れた。梅嗣も反射的にそれに倣った。「失礼しました、一尉殿」
「良いですよ、別に……。そんなことよりも、行かないんですか?」
「は、はあ。と、言いますと?」雪嗣が問うた。
「もしかして一尉殿。先ほどの我らの会話を」
「もちろん聞いていました。隣の休憩室で休んでいたら、大きな声で言い争うやり取りが嫌でも耳に入って来ましたから」
「「……申し訳ありません」」
「構いませんよ。怒ってなどいません。それより私の頭は今、ピザのことでいっぱいなのです」
「な、何を言って……」
梅嗣は思わず無礼であろうことも忘れて、桜庭一尉に訊き返した。第一印象で覚えた冷静沈着な人というイメージからはあまりにもかけ離れた言動だった。
そしてもう一人、冷静な判断力を欠いた人物が今、この空間に同席しているということに梅嗣は気づいていた。
一尉にやっていた視線をゆっくりとその人物の方へと向けやる。
案の定、彼は満面の笑みを湛えていた。
「なんと一尉殿の食欲を焚きつけてしまうとは! 申し訳ございません。こうなったら我らもお供仕らん。さあさ、参りましょうか」
いつの間に装備していたのか、雪嗣の手には機関銃がしっかりと握りしめられていた。
「素晴らしい提案ですね、冬風院准尉。善は急げと言います。さっそく参りましょう」
一尉は腰から吊り下げた士官用拳銃を引き抜くと、弾倉の中身を確認する仕草をしはじめた。まさか冗談であってほしいと心底念じながら、梅嗣は最後の抵抗と心して二人の引き留めにかかる。
「お気は確かですか、一尉。雪風院准尉も。今、街がどのような状況か」
「分かってるよ、そんなこと。でもさ、そもそも言い出したのか君じゃないか」
「だからそれはもう、何度も謝ってるじゃないか。好い加減しつこい!」
「何を! いつもいつも、しつこいのはどこの誰だよッ。君だって好い加減に――」
「私は行きますよ」
「「…………」」
言い争うのもやめて、二人は思わず桜庭一尉を凝視した。
「私は行きますよ、一人でも食べに行きます」
「……桜庭一尉?」
「春風院准尉、貴方はいらっしゃらないんですね?」
一尉は終始笑みを浮かべている。しかしその背後に見え隠れする有無を言わなぬ気迫に、「は、はい」梅嗣は自然と返事をしてしまっていた。
「うん。冬風院准尉、貴方は? お供くださいますか」
「……一尉殿、僕は――」
「お供してくださいますか、准尉」
「も、申し訳ございません……」
一尉は雪嗣の答えを聞いて心底残念そうに、「そうですか」溜め息交じりにそう呟くと、
「ではお二人とも、御機嫌よう」
踵を返して部屋から出て行こうとする。最早何の未練もないといった風な感じに梅嗣は焦った。けれどなかなか次の行動が出てこない。そうしている間にも一尉の靴音は着実に遠ざかりつつある。
梅嗣は雪嗣の顔を見やった。雪嗣もまた、こちらの顔を見やっていた。次の瞬間、二人はほぼ同時に彼の後を追った。
遠くてどっと、笑声が上がったような気がした。
〈第陸章・終〉




