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汚染少女  作者: 桜町院熾雪
8/11

第伍幕:神と主と、箱庭と

「お前のせいじゃないだろう」

「彩都さまのおっしゃる通りです。すべては発狂者どもが悪いのですよ」

「その通りだ。だから、もう泣かないでくれ」

「三尉、ねえ三尉」

「…………」

 待合室にはすでに先客がいた。一人長椅子に腰かけて項垂れている塩小路三尉と、彼を取り囲むようにして立ち尽くしている聖騎兵が五、六人。

 いや、光明の隣にもう一人座っている。

 桜乃は驚きを隠せなかった。

 あそこに座って光明の背中に手をやっているのは誰だ? まさか彩都なわけがあるまい。彼がそんな行動を取るような人間だとは到底思えない。

「伏見宮……彩都、准将」

 だが間違いない。その折襟章は紛れもなく准将を示す刺繍であり、周りに控えている聖騎兵は皆、彩都直属の少年らだ。

「ああ、天幽院三佐」「なにっ、さ、桜乃卿!」

「伏見宮准将」無視するわけにもいくまい。「こちらにお出ででしたか」努めて笑顔で歩み寄る。

[先ほどは我が君はお見苦しいところを]

 一尉の折襟章をつけた少年がにこやかな表情を浮かべている。彩都の副官で、専任の護衛担当でもある。周りの少年らは皆彼の部下だ。

「お見苦しいなどとは微塵も。誰でも初めてあのようなものを目にすれば取り乱すものです」

「なるほどごもっとも。なにぶん我が君はご多忙の身。今度のように戦陣に赴くことさえ普段は叶いません」

「左様で……」桜乃は小さく笑みを浮かべてこれに応ずる。

 少年はなおいっそうにこやかな笑顔を浮かべて言葉を続けた。

「三佐、」一尉が眼鏡のフレームに指をかけた。

 桜乃は彼の眼鏡の向こうにある漆黒の双眸を見た。この二日間の作戦行動中、ずっと思っていたことだったが、やはり何を考えているのかまったく見えてこない。心意の読めぬ少年である。

「一尉、先に確認しておきたいんだけれど」

「はい。何でしょう三佐」

 冷たい微笑を湛えている少年将校に、「私は今回の遠征で見聞きした一切のことのうちで、あなたやあなたの上官が不利になったり、辱めを受けるような情報を第三者に他言することはしません」

 桜乃は最大級の誠意を込めて本心を告げた。

 これでも百年は続こうかという、歴とした子爵家の娘である。(……たとえ自分の名は、自分自身で穢そうとも、)一族の名を穢すような真似はしない。

「ふふ……」

 けれど眼前の少年にはその真意が伝わらなかったと見える。一尉はなおいっそう笑みを深めて、まるで嘲るがごとき目でこちらを見据えた。刹那、頬が凍てついて鳥肌が立った。

 桜乃も目を細めた。

「なるほどそうですか。しかし、あなたにとっては彩都さまなど「しかしも、何もない。誓おう、今ここで。我が騎士鉄十字章の名誉に誓って。私が、貴君が主をおとしいれるようなことは、決してしない」

 桜乃が言い切ると、途端に少年から一切の表情が消えた。驚愕している、ように、桜乃には見受けられた。その驚きが次の瞬間には怒りに代わるであろうことも、桜乃には容易に予想がついた。

「ふんっ。口では何とでも言えましょう。何とでも! 第一、よくも彩都さまの御前で鉄十字章などという単語を。忌々しき、その名をッ! 天幽院男爵、失礼にもほどが――「もうやめよ、一尉」

「…………」

「……えっ?」

 ここに来てついに彩都が口を開いた。昨日の対非行学徒戦以来、久し振りに彼の肉声を聞いたように思う。諸連絡もお互いの副官を通じてだったし。

 彩都は特に怒ったりといった様子もなく、静かな調子で言葉を続けた。

「もうやめておけ、一尉。桜乃卿は、他の幹部連中とは違うようだ。だいたい、お前の敵うような相手ではない」

「しっ、しかし我が君。天幽院三佐は――」

「好い加減にしろ、一等園尉ッ」

「「「ひっ!」」」

 彩都の怒声に一尉を含め、彼の部下全員が肩を震わせ姿勢を正した。

 決して大きな声を上げたわけではなかったが、そこには万人が持たない王者らしい風格が感じられて、自然と桜乃も居住まいを正した。

「たくさんの人が亡くなったんだぞ。友も大勢死んだんだぞ。男も女も、幼い子供たちさえ見境なく殺されたんだぞ。こんな時にお前が一番気にするのが上司の名誉か? 私はそこまで惨めか?」

「な! 違います、違いますとも我が君!」

「うるさい黙れ」

「――ッ!」

「出ていけ」

 彩都は静かに、一切感情のない声色で命じた。「出て行くのだ。暫くお前の顔を見たくない。出て行ってくれ」

「し、しかし我が君、私は「君などと、呼ばないでくれ……。私は一度も、お前を家臣と思うたことはない」

「さ、彩都さま」「何たることをっ」「た、隊長、今のは言葉の綾と言うもので」「そうですよ、ねえ彩都さま?」

 周囲で控えていた少年らが、血相を変えて間に割り込んだ。暗に彩都に「今の発言を訂正しろ」と迫るが、彩都は何も言わない。

主(で言いのか?)の頑なな様子を見て、一尉は何かを悟ったらしかった。再度居住まいを正すと、足を揃えて、

「イエス、……マイ・ロード」

 揃えた踵の一方、左のそれを勢い良く鳴らす。それは教会や軍隊で、敬意を払うべき対象に対して行われる動作の一つだった。

 それは一尉のささやかな、そして精一杯の反抗だったのかもしれない。何を言われようとも、主従の関係を切りはしない。桜乃は彼の挙動に彼の決意のようなものを感じ取った。無論、それは彩都にも伝わったはずだろう。

 踵を返すと、一尉は静かに待合室を出て行った。

 一人、二人の少年兵が彼の後を追おうと動き出したが、別の兵士に腕を捕まれやむなく諦めた。静止した兵士の意見に、桜乃も無言の賛同を送る。今は一人にさせた方が良い。

「失礼致します――」

入れ替わりで、副官の雪嗣が入ってきた。

「失礼します、隊長。司令部と連絡がつきました。鉄道局へはすでに打診済み、とのこと……です。どうかしたんですか……?」

「うん。少しね」

 雪嗣の問いに短く答えてから、ゆっくりと歩を進めて彩都らの輪の方へと近づいていった。

 ベンチに座した彩都はすぐにこちらを見上げた。「桜乃卿か」

「閣下」

 准将に対し、ローマ式敬礼で挨拶する。座したまま彩都も略式敬礼でもって答礼に応じた。手早く挨拶し合うと、

「見苦しかったであろう」

「いえ、こちらこそお邪魔でした」

「我が副官として、情けないやら恥ずかしいやら」

「恐れながら閣下。それは副官を持つすべての上官の苦悩に御座いましょう」

「はははっ。貴君もそうか」

「御意。我が副官も、日々気苦労が絶えず。悩みの種に御座います」

 すぐ後ろでわざとらしい咳払いが聞こえる。

「ところで、閣下。何かご入用なものでも?」

 訊きながら彩都の手に持つそれを見やる。チョコレートが食べたかったのだろうか(どれくらい前から握っているんだろうか。そんなにずっと握っていたら、包み紙の中がでろでろになると思うのだが)。

「ああ、これか。いや、その……ちょっと食べたくなってな。そうしたら、たまたま光明卿と一緒になって。二人で食していたところだ」

「左様でしたか。おっしゃって下されば、部下に命じて求めさせましたものを」

 会話しつつも、桜乃は彩都の隣で腰かけている光明に視線を走らせた。

 少なくとも「楽しく二人で食していた」わけではなさそうだ。彩都はともかく、光明は青白い顔色をしている。

 桜乃は先ほどの、全員が光明を相手していた光景を思い出した。待合室に入ってすぐに見たあの光景は、きっと彼を励ましていた場面だったのだろう。

 プラットホームで何があったのかは葵嗣と菊嗣から報告を受けて知っている。殉職したその部隊長が、光明にとってどれほど近しい人物であったかは、その後の三尉の様子を見ていればすぐに分かった。まさに文字通りの、心ここに在らず、といった様子だったから。あれで察せない方がおかしい。

 桜乃は彩都に軽く頭を下げると、おもむろに三尉のそばへと歩み寄った。彩都は特に制止したりなどはしなかったが、不安げな眼を向けて桜乃の方を注視している。周囲に控える彩都の部下らも黙って静止していたが、彩都同様、不安そうな色の瞳をしていた。

「主を信じるか、三尉」

 卒然、桜乃は問うた。「主を信じるか、三尉」再度、問うた。

「隊長、何を!」「雪嗣は黙ってて」

 首だけを後ろに捻って副官を制する。「お前たちもだ、黙っていろ」彩都が後ろで味方してくれた。こちらに任すということらしい。

桜乃は捻った首を戻すと、三度、項垂れる光明に尋ねた。

「答えよ、光明卿。貴君は主を信じるか」

「…………。はい……」光明は小さな声で、絞り出すようにそう答えた。

「では、神はどうだ。神を信ずるか、三尉」

「…………」

 光明は何も答えなかったが、やがてゆっくりと首を動かして頷いた。桜乃も頷いてみせた。

「信じていますとも、三佐。僕は……私は神に仕える神学徒です。ですが……」

 そこでいったん口を閉じた光明は、顔を上げ、涙をいっぱいに湛えた目で桜乃を見上げた。

「今日ほど神を呪うたことはありません。我らに苦難をもたらすのはいつも神です。死をもたらすのは、いつも神です……。

 なぜ先輩は……光月二尉は召されねばならなかったのですか。二尉の部下も、鎮圧隊の将兵たちも。僕が頼りないから神は罰をお与えになったのですか。ではなぜ、僕は召されなかったのですか。

 主も主です。創造主さまは、神の世界を似せてこの世界をお造りになられました。なぜです? なぜもっとこの世界を、完全な世界としてお造りにならなかったのです。なぜこんな世界を、お造りになられたのですか……。

こんなことなら、お造りになどならなければ良かったのに」

「それは違うよ、三尉」

 桜乃は跪き、地に両膝をついて光明の頭を優しく抱き寄せた。「創造主さまが悪いんじゃない。もちろん神さまが悪いんじゃない。誰が悪いのでもないの。創造主さまは、罪を犯した人祖を憐れんで、神から人類を奪ったんだ」

「そうでしょうか……」

 ここまでずっと沈黙を守っていた雪嗣が、不意に閉ざされたその口を開いた。「創造主さまは、罪を犯した我らを未来永劫、この箱庭に閉じ込めたいがために、神の元から奪い去り、自らの手で、この世界を改変なされたのではありませんか? だから、この世界は――」

「完全じゃない、不完全なんだ。確かに雪嗣の言う通りかもしれない。でもね、ホントのことは何にも分からないの。誰にも何にも分かんないの。科学と同じ」

「そんなあ……」

 その場にいる神学生の誰かが悲しげな声をあげた。他の神学生らも、銘々が悲嘆に満ちた呟きを繰り返す。

「ただ言えることは――」桜乃はその場にいる者全員の顔を見回して、それから言葉を続けた。「言えることは、確かに今ここに、私が存在しているということ。そして、主と神とを信ずる私の心だけが、嘘偽りのない確かなものであるということ」

「では、その心とは何だ――?」

『――ッ!』

 突然、背後から問いが発せられ、桜乃も雪嗣も、他の神学生らも皆一同に振り返った。

「心とは、すなわち魂です」誰よりも先に、その問いに対しての解を示したのは光明だった。

「この肉体という名の牢獄に囚われた、神がお造りになり、そして唯一残すことを許された確かな恵み」葵嗣だった。

「その通りです、夏風院二尉」光明が頷く。皆も一様に頷いた。

「ではその魂の存在をどうやって証明する? どうやって観測するんだ?」

「それは……」

 光明は二、三度口を開閉させたが、しかし何も返す言葉がないとみえてそのまま押し黙った。神学生らはそんな光明を見て、次にこちらの方を仰ぎ見たが、けれど桜乃にも言い返すだけの言葉はなく、静かに首を振るより他に成す術はなかった。

 その問いはいわゆる、観測の問題というものであった。

「意識の、観測の問題だね」

「菊ちゃん」

「やっほー。何みんな、しんみりしちゃってー」

 菊嗣は後ろに数名の部下を伴って、寒い寒いと言いながら部屋のほぼ中央までやってきた。

「なにー、葵嗣にイジメられてたの?」

「や、や、やっ! やめてくださいよう、三尉っ」弄られる雪嗣。

 菊嗣は雪嗣の髪を撫でくり回しながら言葉を続けた。

「心が、意識と同じなんだとして、それをどう科学的に証明するのか。客観的に観察するのか、それが観測の問題だよ」

「現代物理学は――」菊嗣の後を、葵嗣が引き継いだ。「量子論の登場で飛躍的な発展を遂げた。あらゆるものを量子論的に再記述し、量子論こそがこの箱庭を正しく説明しうる、唯一の原理・原則であると自惚れた。

 だが、科学は万能じゃない。この世界のすべてを記述できるわけじゃない。なぜなら、」

「なぜなら、物理的に意識を肉体の外部に取り出すことができない以上、意識を観測できる者は本人をおいて他になく、よって、非主観的に意識を記述できうる術を現状、人類は持ち合わせていないから」菊嗣は云った。

「そんなのっ! そんなの、あんまりです……」

 一人の神学生が声をあげた。「では、この世界はすべて意識が生み出した、まやかしである可能性もあるということなんですか? そんなの――」

「ああ、馬鹿げているな」

 これまで静観していた彩都が唐突に口を開いた。

「何が馬鹿げてるってんだ、宮さま」葵嗣が応対する。

「ふんっ。どいつもこいつも、問題の本質を見誤っていると思ってな」

「へえー、じゃあ宮さまは、どこにこの問題の本質があるとお考えなんですかー?」菊嗣も加わり相対する。

「良い質問だな。観測者の意識の問題など、たいしたパラドックスではない。諸君、考えてもみよ。我の意識を、純然たる意識であると認識するものは何だ。意識か? 違うだろう。かの偉人曰く、「そうか!」

 卒然、雪嗣が声を上げた。わずかに右の口角を上げて笑みを浮かべる彩都。雪嗣が答えて云うことには、

「無意識ですねっ、閣下。意識を認識する唯一の存在は無意識です」

「そうだ。すべて人間の行動は、無意識下の情報処理活動の結果だ。意識や精神などと呼ばれるものも、すべて無意識的情報処理の産物だ」

「そうまで言い切っちゃうかー」菊嗣が言葉を挟む。「確かに神経伝達と筋反応の実験では、被験者が随意筋の運動を意識するより半秒前には、すでに脳が活動を始めてるって証明されてるけどー」

「そうとも。それこそ、無意識がこの身体のすべてを制御しているという動かぬ証拠。そう考えれば、先の問題にも納得がいく」

 なるほど、確かにある程度は筋が通る。彩都の主張は一定の説明力を持ちうる。

「つまり、現状の量子論には修正する余地があるってこと? 量子論者が観測者と呼ぶとき、それは観測者の無意識として扱うべきだと?」

「その通りだ、桜乃卿。少なくともそれで、意識の対象が無限に後退していくというパラドックスからは解放される。無意識主体には過去も未来もない。過去も未来も所詮、概念にすぎない。あとは外部記述の問題をクリアすれば良いだけだ」

「だからー、それが一番の課題なんでしょー? 宮さまったらー」

「では訊くが、菊嗣三尉。お前、自分の顔を見たことがあるか?」

「馬鹿にしないで! 毎朝顔を洗う時に見ますよっ」

 むっとした表情を頬を膨らませる菊嗣。そこまで怒ると逆に怪しくなる。

(本当は毎朝洗ってないんだろうか……)

 けれど、さすがに菊嗣の名誉のためと憚られて、桜乃は変に口を挟むことはしなかった。すると、苦笑している雪嗣と目が合った。

「そ、そうか……。では三尉、自身の眼はどうだ? お前は自身の眼を見たことがあるか」

「それもありますー、鏡で見ますー」

「こらキクちゃん。伯爵に無礼な口を利かないの」

「構わんさ。しかし、三尉は鏡を通して見るのか。自分の眼なのに」

「あっ、当たり前でしょう。鏡なしに一体どうやって……」

「そうだ、お前の言う通りだ。この眼は私の眼なのに、直接に自身の姿を観測することができない。観測主体は、観測主体それ自体の有り様を直接に観測することはできない。これが答えだろうと思う」

「ということは――」葵嗣が口を開いた。「つまり彩都さまは、量子論が唱える観測者中心主義には反対なんですね?」

 皆が注目していた。一斉に彩都を注視する。

 返答の如何によっては、ここにいる神僕たちの心を傷つける可能性もあるだろう。しかし、桜乃は別に彼を制止しようとは思わなかった。どう受け止めるかは銘々各々に課された試練のように思われたから。勿論、桜乃自身にとっても。

「反対、ではないな。量子論がなければ、量子神学が生まれることもなかっただろうし。ただ、現行の科学理論を鵜呑みにしたくない。ただそれだけだ」

『…………』

 皆が沈黙していたが、それは絶望のためでも、まして緊張のためでもないことは全員が理解していただろう。なるほど、この伏見宮彩都という人間は本当に聡明な人なのだと、その場の誰もが察していた。

 きっといろいろな人が、彼のことをいろいろと言っているに違いない。良く言う人たちばかりではないだろう。実際、つい今しがたまで桜乃自身も後者の集団に属していた(情けない話だけど)。

 けれど、今はっきりした。彼が司令補佐の職に就いているのにはちゃんとした理由と意味があることを。たぶんきっと、その職は彼以外の誰に適任ではないのだろう。

考えてみればそうで、聖年騎士団はそんなに甘い現場ではない。いろいろな意味で手を抜くようなことは絶対にしない。なにせ神の僕の集団なのだ。人事の面でもそうだろう。

「准将閣下、ならばなぜ……」

 光明が震えながら呟く。

 外が騒がしい。おそらく何事かを報告に来た士官が、五、六人の部下を伴って入室してきた。彼らは口々に、一体何を話しているんだと顔を見合わせている。

「科学は万能ではない。科学は存在の理由は示せても、意味を教えることは決してない」

「は、はい……。しかし――」

「三尉、いいか。良く聞け」

そこで、葵嗣がバトンを引き継いだ。

「俺たちは科学の学徒か? 違うだろ、俺たちは神に仕える神学徒だ。俺たちは主や神を疑う者たちか? 違うだろ、俺たちは主を信じ、神を信ずる者たちだ。あらゆることには理由がある。そして必ず、意味があるんだ。俺たちは生かされるべくして生かされたんだ」

「…………」

 沈黙する光明。一同が固唾を呑んで見守る。

 そこで、再び彩都が言葉を繋いだ。

「そこから先、何をどう解釈するかが人間の作業だ。それは科学者であろうと神学者であろうと違いない。すべての物事には理由があるはずだ。それを考えて、今を生き抜くべきだ」

 云いながら、彩都は少年の涙を拭い取った。少し乱暴な手つきではあったが、少年の瞳からその雫がこぼれ落ちる度、何度も何度も拭い取ってやっていた。

 桜乃も微笑み、微笑しながら二人のその言葉をもう一度、自身の胸中で反芻した。

(あらゆることに理由がある、か……)

 なれば主よ、と桜乃は胸中で訊いた。

 もし創造主が桜乃の言ったように人祖を憐れんで、神の手元から人祖を奪い去り、神の世界に似せてこの箱庭を造ったというのなら。ならばなぜ、完全なる世界として造ってはくれなかったのだろうか。

完全でない世界だから、人類の心は満たされず、争いが絶えず、いつも孤独と不安の中に生きねばならない。

 なぜ、あらゆるものの基盤に物質をおいたのだろう。

物理物質をすべての構造物の基盤としたために、物理法則は足かせとなり、すべての事物は有限であることを余儀なくされた。

 原罪を負い、神の楽園を追われたという人類。いつからこの世界に住んでいるのかは、もう誰も知らないけれど。

 すべての物事に意味や理由があったとして、それを創造主が教えてくれるわけでもなく。まして神が示すわけでもなし。結局は人間が、銘々で勝手に解釈をするより他にはどうすることもできないのだ。

 創造主はなぜ、こんな世界を造ったのだろうか。このおかしな状況にも何か意味や理由があるとでもいうのだろうか。

 いや、主を責めても仕方あるまい。

 では神を責めようか。いや、神を責めても仕様があるまい。

 この世界は成るようにしてなったのだ。神が我々をお造りになり、ついで創造主が箱庭をお造りになって、あとはそれっきり。だから、この世界は成るように成っていくだけなのだろう。でなければ、創造主がこんな世界をお許しになるわけがない。まして神が見すごすわけがないのだ。

 だから彩都や葵嗣の言葉には半分賛同できて、半分賛同できない。

 生かされるべくして生かされたのは確かにそうだろうが、そこに理由があるとしたら、それはただ成るべくして成っただけなのだろう。

 百三十八億年前からの必然――といえば聞こえはいいが、結局のところ、ただの惰性にすぎない。あらゆる物事・現象の連続性の果てとしての現在にすぎない。

(やっぱり。神さまは何にもしてくれないんだ)

 創造主はまだマシな方だろう。こんな人類でも、神の手元から奪い去ってくれたのだから。

 だが、神は何かしてくれただろうか。神ほどの存在が、創造主の造った箱庭をどうこうできぬわけがない。

 やっぱり桜乃は、虚空を睨みつけるしかないのだった。待合室の窓の向こう、分厚い曇天の向こうから眺めているのであろう神を。

 どこぞの誰かも言っていたような気がする。

神は平等に、富める者にも貧しき者にも、あの寒空より見下ろして、皆に等しく手を差し伸べないのだ、と。

 桜乃は今日、天に召し上げられたすべての人々の冥福を祈って、独り胸中で黙祷を捧げるのであった。

 神のもとを去った創造主も、彼らを憐れんでいると願って……。



〈第伍幕・終〉

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