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汚染少女  作者: 桜町院熾雪
7/11

第肆幕:自責の君

放浪の中、

日は暮れて行き


闇の中、

石の上で体を休める


ただ夢見るは、

主の御許に近づかむ


主よ御許に近づかむ、

汝が御傍に近づかむ


「讃美歌三二〇番」による

 飛騨稲荷駅は、飛騨稲荷市の中心よりも幾分南方にあった。

 取り立てて目立った観光スポットではないものの、駅舎正面の北口には大きなバスターミナルがあり、また路面鉄道の中央駅でもあるためそれなりに栄えている方ではある。中心街ほどではないが商業ビルや百貨店などもあって、桜乃も時々立ち寄ることがあった(学園から遠く滅多に来ないが、伏見百貨店の地下街に美味しい洋菓子屋があるのだ)。

 国鉄の線路は街の南半分を弧を描くようにして半周するような形で中心街の方へは抜けず、そのまま稲荷山地へと抜けていた(一方は金沢へ、他方は名古屋へと向かう)。この街の交通網がすこぶる発達している所以はこの辺りにある。

 街は四方を山地に囲まれた盆地にあって、県内でも有名な寒冷地であった。ゆえに、この辺りの冬は凍てつくように寒く、また春告げの鳥が鳴き出すのも随分と遅い。

 もう三月も半ばだというのにいまだに雪がちらつくのはそのためだ。線路のところどころには黒くなって固まった残雪がみすぼらしく横たわっている。

「ふうー……」

 観光パンフレット(その辺のベンチに置き去りにされていた)の市街地図を何気なく斜め読みしながら思考の二、三割ほどで、暑いのもいやだけど寒いのもなー、などと考えていると、

「隊長」

 不意に声がして視線をそちらの方へと投げた。「ここにいらしたんですか」

 別に今さら市内観光がしたかった訳ではなかったので元あった場所(といっても、その辺に無造作に置いてあったものだが)にパンフレットを置く。

 怪訝そうな顔つきで様子を窺いながら、

「怖くないんですか?」

 雪嗣は気味悪げな、とまではいわなくとも、不審そうな顔で桜乃の方を見やっていた。

「別に。平気だよ」そう云って微笑むと隣の席をぽんぽんと軽く二、三度叩いて見せ、雪嗣にこちらに来て座るように促した。

 しばし悩み込んでいたが、やがて腹をくくったのか雪嗣は桜乃の方へと歩み寄ってきた。おっかなびっくりといった様子で腰かけたが、座ってみれば案外平気そうな顔つきになって、

「はい、どうぞ」云いながら懐から小さな缶を取り出した。缶ココアだった。

「ありがと」

 しばし二人して休息を取る。普通、駅のホームの待機所といえばヒーターか何かが利いていて暑いくらいだが、今日は打って変ってすこぶる寒い。

 いや、暖房は利いているのだ。ただ、温められた空気を閉じ込めておくだけの機能が、今の待機所の窓ガラスにはないだけの話なのである。

「寒いですね」

「うん、寒いね」

 別段理由もなく、ただ視線を前方に向けた。血が飛び散り、ガラス窓は皆ことごとく叩き割られてある。普段は嫌味なくらいに暖房を効かせるそれも、さすがにここまで野晒しにされれば成す術もないのだろう。先ほどからフル回転で暖気を吐き出しているようだが、電気ばかり食って何の役にも立っていない。

(お間抜けさん)

 桜乃は何だか無性に清々した心持ちになって小さく笑みを浮かべた。長年、暑苦しいヒーターには不快な思いをさせられてきたのである。たまには自らの非力さを痛感すべきなのだ。ヒーターは所詮、ヒーターなのであると。部屋を暖める以外に能はないのだと。分不相応にも、人間の心を蔑ろにして、ヒーターが空間の支配者となってはならぬ。相手の快適さや心地よさ――快を踏み躙ってまで、自身の能力を自慢げに見せびらかしてはならない。

「思い知ったか、ヒーターめ」

「はい? ……何か面白いことでも?」

 雪嗣が疑問の表情を浮かべる。

 桜乃はおもむろに立ち上がった。天井間近の内壁の上に設けられたそれに歩み寄ると、そこから延びる電気コンセントのプラグを抜いてやった。ヒーターはそれきり、うんともすんともいわなくなった。

「宮さまのご様子は」

 再び待合椅子に腰を下ろす。「個室から出てくれた? 骨が折れたんじゃない?」

「……それほどでは。ただ、死んだ人間をご覧になるのは初めてだったようで」

「…………。ちゃんと掃除した?」

「向こうの副官殿が、すぐに。無論、お手伝いしましたが」

 桜乃は小さく頷いて、缶に口をつけた。アルミニウムの、金属独特の感触が唇に伝わる。嫌いではないが、好ましいものでもない。

 皆が「宮さま」と呼んでいるのは、今回の金沢遠征の派遣団長を務めている伏見宮彩都のことで、飛騨稲荷校聖年騎士団の司令補佐である(ちなみに司令は双子の弟君の伏見宮彩仁さまだ)。

 伏見宮家といえば当主が大公爵として有名で、また教会枢機卿や貴族院議長を歴任したことでも有名だ。団長の彩都の実家は分家筋。父君は侯爵で、慣例により彩都は伯爵を自称している。何気に桜乃も男爵を名乗ることを許されていたりする(滅多に使わないので忘れることも多いが)。

 なまじ一族が有名だと、いろいろ大変なことも多いのだろうか。

 彩都に初めて会った桜乃の第一印象は、「偉そうなヤツ」だった。

 学校にも家柄を重視したり、成績の中・下位の人たちを見下すような主義・主張をする者たちは少なからずいるのだが、彩都はそれを絵に描いたような典型的な人物だった。さらに加えて典型的なわがままご子息でもあった。少なくとも最初の印象はそうだった。

 だのに、部屋から出て来られなくなるだなんて……。

「補佐って――」

 不意に隣の副官が口を開いたので意識を呼び戻す。

「司令補佐って、何だかヤな響きじゃないですか。何かちゃんとした役職があるわけでもなく、明確な職務内容が定まっているわけでもない」

(なるほど。確かにそうだ)

「勿論、皆が皆じゃないと思いますけどね。縛りがないから自由に仕事ができる場合も確かにあって。でも、彩都さまの場合は……」

「飼い殺しみたいってこと?」

「…………」

「…………」

「……はい」

 しばしの間、待合室を沈黙が満たした。どこか離れたところで、少年少女の仕事熱心な声が聞こえてくる。二人は黙って缶の中のそれを飲み干した。すっかり冷めてしまっていた。

「もう行こうか」

「はい。駅舎に行きますか」

「うん」

 桜乃は引き戸を引いてホームに出た。後から雪嗣が続く。案の定、外の空気は中のそれとほとんど大差なかった。トレンチコートの襟を立てて吹き抜ける風を凌ぐ。

 駅舎に行くためには地下道を通って、一番ホームに出なくてはならなかった。

「たいちょ、右に曲がってください」

 すぐ横から雪嗣が知らせてくれる。言われた通り階段を下りて右折しつつ、「装甲列車を二番ホームから一番ホームに移動させて。乗客は駅の待合室に。車内の遺体は全部運び出して、ホームの隅に固めておくように。大至急」

「了解」

 返答もそこそこに駆け出した副官の背を見送りながら、桜乃はそのままの歩調でもって地下道を進んでいく。トンネルにもわりかしたくさんの亡骸が転がっていて、死体を移動させている部下たちの邪魔にならぬように注意する。

「おーい、下の。二、三人、上がってきてくれー」

「蛸薬師二尉にお伝えしろ。重機関銃の弾丸は弾帯式だと」

「南側正面の警備は引き続き、後小松二尉の小隊が担任される。状況如何によっては――」

「負傷者、並びに負傷兵は直ちに第二駅務室へ!」

「殉職した聖騎兵の遺体はこっちに固めてくれー。司祭資格のある奴は集合!」

 兵士たちの引切りなしの往来を眺め見つつ、そのまま駅舎の建物の方へと歩を進める。

 どうにかこうにか駅構内の暴動を鎮圧し、発狂した暴徒を殲滅しはしたものの、先の戦闘では三分の一近い聖騎兵が死傷した。軽傷の者もいたが、多くは出血多量で死んでしまった。

 ありえないことだった。ただの噛み傷で失血死するなど……。

 成人が、全血液量の二分の一以上を失うと死に至るというのは、神学校の選択講義で取った看護基礎医学で習った。習ってはいるが、それは交通事故とか殺人による怪我だとか、そういった場合による負傷がもとで失血死に至るケースがほとんどだ。噛み傷がもとで死んでしまうとは教わっていない。常識から考えてみても、やっぱり変だった。

 桜乃には、人間の顎に人の真皮や筋繊維を貫いて、太い血管や内臓器のある層まで噛み砕くだけの力があるとはとても思えなかった。歯が砕けると思うのだが(もっといえば、それはかなりの激痛であると思うのだが)。これも一種の、馬鹿力と呼ばれるようなものの類なんだろうか。

(寒い……)

 桜乃は思わず身震いした。

 駅舎内は一段と冷えるように感じた。外とはまた違って空気は湿り気を帯び、骨身に凍み入る寒さが足元に停滞している。

 向かって左側が駅務室のようで、少し視線を上げてみるとやはり駅務室と記されたプレートがぶら下がっていた。続いて右側に視線をやると曇ったガラス張りの戸で仕切られた空間があり、奥の方に売店や土産物屋があるのがかろうじて視認できた。

 桜乃はおもむろに引き戸を横にずらした。途端に室内のあたたかい風が桜乃の顔を撫ぜる。そのまま中に入り、後ろ手で引いた戸をぴったりと閉じた。

 桜乃は自身が一番乗りだろうと思っていた。乗客はまだ列車の中だろうし、部下たちは忙しく往来している。

 しかし、そこにはすでに先客がいた。



§          §          §



 何をするでもなく彷徨っていた。

 副官が、部屋から出ろという。列車から降りろ、と。

 正直な話、部屋で泣いていた。金沢を発ってから一時間くらいは。けれど、ずっと泣くのも疲れてくる。そのうち泣き疲れて眠ってしまっていた(初めてかもしれない。こんな子どもみたいなの)。

 目覚めて数分と経たぬ間に見た光景。思い出しただけで身体が震えてくる。

死体を見た。人間の死体。さっきまで生きていたであろうヒトのそれを。

 堪らず、嘔吐した。今朝から何も口にしていなかったので、胃の内容物はほとんどないに等しかった。今度の後始末も、すべて副官らがやってくれた。桜乃卿のところの聖騎兵も手伝ってくれたようだった。

 恥ずかしかった。けれど昨日の醜態を考えれば、もうどうでも良かった。すべてが些末な問題のように感じられた。

 何となく構内を彷徨っていると、「待合室」と書かれた札が下がっているのが見えた。何となく足が向く。引き戸を引いて、何とはなしに近くの長椅子に腰かけた。

 見慣れた駅舎。何てことない普通の駅の、普通の待合室だった。

「………?」

 不意に気配がして、彩都は――伏見宮彩都は首を捻った。少年だった。一人の聖騎兵が、部屋の一番隅の長椅子に腰かけて項垂れていた。

 彩都は一瞬身構えた。副官から発狂市民の話は聞いていたからだ。しかし、何となく雰囲気から大丈夫そうだと感じた。

「おい、お前。こんなところで休憩か? 良いご身分だな」

 云ってしまった後で、彩都はまたかと後悔した。

一言多いのだ、いつも自分は。昨日の失態で何を学んだのだろう。昨夜、寝台の上で自身のこれまでを悔い改めると誓ったはずなのに。

 発言する内容は一度吟味してから。今朝決意した事柄の一つだ。

「貴方は……?」少年は焦点の定まらぬ眼で彩都の方を見やった。

 名を問うならまずは自身が名乗ってからでないと失礼だ。それは貴族であろうと平民であろうと変わりない。

しかし今の彩都には特に気にもならず(それよりも彼の様子が気になって)、

「彩都だ。伏見宮彩都。……准将だ」

「伏見宮、さま……? では、伏見宮元帥の「ああ、伏見宮彩仁は私の双子の弟だ」

 彩都は云いながら立ち上がると、彼の一つ隣の長椅子に歩み寄って腰かけた。少年は依然として寝惚けた様な表情をしている。

「ほら、名乗ってやったぞ。それで? お前は誰なのだ」

「僕は……私は、光明です。塩小路光明。三等園尉です」

「光明、か。平民だな?」

「はい、准将閣下」

「本来、私は平民のことは皆、名字で呼ぶことにしているのだが。お前は特別だ。おい、光明」

「はい。何でしょう、閣下」

「チョコレートは好きか」

 部屋の隅の売店に近寄る。ざっと陳列棚を見回して、彩都は目についたチョコレートバーを何本か掴んだ。レジスターのそばに何枚か銀貨を置いておく(十銭もあれば十分だろう)。

「ノーマル、ビター、ハイカカオ、キャラメル、ミント、ミックスベリー。どれが良い」

「閣下はどれになさいますか」

「さあて、ミント以外なら何でも。ハイカカオかな」

「ではビターで」

「ハイカカオでなくて良いのか、二本あるぞ」

 云いながら彩都は手に握った何本かのうちのハイカカオ・チョコバーを見せてやった。すると光明はようやく焦点のあった眼を向けて、

「……では、ハイカカオで」

 手渡してやる。「はじめから遠慮するな、爵位なしのくせに」

 云ってから彩都はまたしても後悔する。違う、そういうことを言いたかったのではない。けれどこれまでに染みついたそれは容易には変えられない。自身の言動のいやしさに嫌悪感がこみ上げてくる。

彩都は何とか気を取り直して、「……た、食べないのか」

「頂戴致します、閣下」

「…………」

 光明は特に気にした風ではなかった。

 彼が食べないので、彩都が先陣を切って食すことにした。包みを半分だけ剥がし齧りつく。するとそれを見ていた光明も封を破って食べはじめた。暫く静かな間食が続いた。無論、外では少年少女らが騒がしく往来している。

「何かあったのか」

 前を向いて何とはなしに少年兵たちの行き来を眺め見つつ、それとなく訊いてみた(こんな状況だ。何もない方がおかしくはあるが)。

「ええ……まあ」

「ふーん。そうか」

 そう言われてしまえば、それ以上何も言うこともできまい。

それもそうか、と彩都は独り納得する。知り合って数分の人間に話せるような軽い話だったら、ここまで 蒼白な顔色などしないだろう。

 彩都は食べかけのチョコバーに意識を戻した。

さらに一口齧る。

「お前、折襟の襟元のそれ。鉄十字章、弐級だな?」

「はい……まあ」

「中二生ですでに勲章持ちとはな。すごいじゃないか、光明卿。俺なんかほら――」

 彩都は自身の折襟の第一ボタンを指差して、「情けない話だ。准将にもなって、一つもない。ただの一つも」

「……そうですか」

 聖年騎士団発行の鉄十字章を受勲するということはすなわち、〈教会騎士侯〉の称号を得ることにもなる。だが、ごく一部、勲章なしでこの称号を名乗る者たちがいる。〈名誉教会騎士侯〉と称される者たちがそうだ。そして彩都もその一人である。

 気まずい。

 何が気まずいかというと、勲章がないことは何気に彩都の気にしている事柄で、そのことを周りの高級将校たちが陰でいろいろと言っているのも知っていた。「正当な武勲も、実績もない形式だけの騎士侯」、「金に物を言わせた無才の将」。どうせ副官らも言い合っているに違いないのだ。

 軽い笑いしか出てこなかった。しかしこの場を乗り切るためにはいちいち気にしている場合ではない。それにもうどうとでも、何とでも言うが良いといった心境でもあった。

「ハイカカオが好きなのか。珍しいな」

 当たり障りのない話題の方が好かろうと思い無難な切り口でもって話を振る(自分自身にとっても)。別に無視して、そこで話を切り上げても良かったのだが、何となく話題を探していた自分がいた。

「……ええ、まあ」

「……そ、そうか」

「…………」

「…………」

 数秒で終了してしまった会話をもう少し繋げられないかと彩都が思案していると、不意に光明の方から、

「先輩が……、好きだったので……」初めて主体的に口を開いた。

「ふーん。私はこの独特の渋さが気に入っている」

 彩都は持てる思考の処理能力を最大限駆使して、眼前の少年の言葉の真意を読み取ろうとしていた。深読みをすれば、光明の言う「先輩」が今回のこの騒動で殉死したとか?

(家族や親族以外のために、ここまで気を配ったのは初めてかもしれないな)

 細心の注意を払い、彩都は続く言葉を模索していた。するとまたしても光明の方から、

「ああ、先輩っていうのは、僕がいつもお世話になっている光月二尉で、……。

……――ッ!」

「お、おいッ。ど、どうした。大丈夫か」

「は、はい……。思わず無意識に。はは、閣下に不適当な言い回しをしてしまいました!」

「良い。良いから。別に構わん」

「いいえ。なりません。正しくは、お世話になっていた、です。ははは、変なの! だって、もう死んでるのにッ!」

 吐き捨てるように叫ぶ光明。やがてがっくしと項垂れるようにして自身の両の膝に肘をついた。

 頭を抱えて座っている光明に彩都はどうすることもできず、長らくその場所に座って呆然としていた。と同時に、今まさに自分の置かれている状況が急激に現実味を帯びてきて思わず身震いする。

 つい今さっき見た死体は普通のサラリーマンのように思われた。通勤途中か、はたまた出張中なのか。

 つい昨日の朝までは何も変わらず、すべて平凡な日常だったのに。

 何だ。この街で一体何が起きているのだ。

「ひっく……ひっひぃ」

「――ッ!」

 その時、彩都の意識が瞬時に呼び戻された。眼前の少年の嗚咽によって。

恐怖はある。怖い。怖くないわけがない。けれど今は恐怖に怯えている場合ではない。涙を流して震えているこの少年をどうにかしてやらねばならぬ。

 平素の彩都からは考えられない発想であった。きっと今この現場に彩都の副官たちがいたら大きく目を見開いて、見開きすぎて眼窩からそれが零れ落ちていたことだろう。それほどの意外な発想であった。まして平民相手になど。

「おい、光明。なあ、泣きやめよ」

 かと言って、彩都に何か名案があるわけでもなかった。取り敢えず光明の座る長椅子へと移る。どうしたら良いのか。どう声をかけてやれば良いのか分からない。

 気がつくと彩都は、光明の背中に手を添えていた。自身でも驚くほど自然な流れで、彼の背を摩ってやっていた。

 どれほどの間、少年の背を撫ぜていただろうか。

 卒然、待合室の引き戸が開いた。

「ここにいらしたのですね」「彩都さま、困ります」「閣下にもしものことがあったらと思うと……」「いつも申し上げているでしょう。銃をお持ちくださいませ」

 副官を筆頭に、数名の聖騎兵が入ってきた。直属の警護部隊の面々だ。いわゆる親衛隊にあたるだろうか(というより監視部隊と呼んだ方がしっくりくるが)。

 副官が近づいてくる。「彩都さま! 聞いておられるんでしょうね……って、彩都さま?」

「あ、ああ……」

 彩都はその背を撫ぜてやりつつ、首だけ捻って副官らの方に頷いて見せた。頷きながら、無言で助けを求める。

 副官が怪訝な面持ちで尚も近寄ってくる。その後ろで控える兵らは各々顔を見合わせて、やっぱり怪訝そうな顔をしている。

(どうすれば良いんだ。頼む、手を貸せ)

 そんな気持ちを視線に乗せて副官を凝視した。

 副官がすぐ近くまで寄ってきた。こちらを見、光明を見下ろして、そして再度こちらを見やった。やがておもむろに口を開いた。

「彩都さま。幾ら貴方のお父君が侯爵さまであらせられたとしても、これは酷い」

「な、なに? どういう意味だ」

「どうもこうも御座いませぬ。よろしいのですか? 侯爵家のご子息が、公然と平民を虐げられて」

 云い終るや否や、わざとらしく眼鏡を外すと目頭なんぞを揉む副官。その後ろで兵士らが口早に囁き合っているのが見える。

 反論しなければなるまい。しかし、あまりの衝撃に完全に思考力が停止しているのか、二、三度口をぱくつかせるのがやっとであった。

(マズい。何か言い返さなくては!)

 そう思っているのだが、彩都の無意識はよほど驚いたとみえて、いまだ脳からの信号がない。

「「「――ッ!」」」

 そうこうしていると、再び引き戸が開いて何者かが入室してきた。

 桜乃卿だった。



〈第肆幕・終〉

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