9 偏見と忘却
東部エリアに向かうトラム内では、エイカとジスが向かい合って座っていた。
平日のお昼前という時間帯のため、車内は比較的空いていた。
「ドクター、ここへは以前に来たことがあるんですか?」
ジスが静かに尋ねた。
「どうして?」
「マップも見ないで東部エリアのトラムに向かったので」
エイカは目をそらして窓の外を見ている。
しばらく沈黙が続き、ジスがもう一度口を開いた。
「ずっと私への態度が気になります。それは、アルタリに対しする嫌悪感からですか?」
エイカはようやくジスに視線を戻した。
「さあどうかしら。このアルタリを信じてもいいか決めかねている最中なの」
ジスは少し考えてから、静かに答えた。
「私になにか疑念でも?」
エイカは再び窓の外に目をやったが、すぐにジスの方へ体を向けた。
「ごめんなさい。気にしないで」
「いいえ、そういうわけには行きません」ジスはキッと彼女を睨んだ。
彼女は気まずそうに目をそらし、少し考えた後で言った。
「アルタリがある時点で用いる『忘却』って、意味わかるわよね?」
エイカが一瞬だけ見せた、重く悲しい表情を見てジスはすべて察した。
「私が思っていた以上に、あなたはアルタリに詳しいようだ。それは……とてもつらい経験だったでしょう」
エイカはジスをゆっくりと見返して、頷いた。
「そのアルタリと私はとても親しかったのよ。まるで姉妹のように育ったの。少なくとも私はそう思っていた。ある日、彼女は忘却を実行した。何の説明も、誰への躊躇いもなく、ね。私はそのときまだ子供だったから……だからこそ、酷く傷ついたわ。ショックで誰も信じられなくなった。……だから、今の私がこうなの」
彼女は再び窓に映る遠くの景色を見つめた。
「ハッ! なんですか、それ」
ジスが、素っ頓狂な声を出したので、思わずエイカが彼に振り向いた。
「え? えっとだから、それはつまり……って、あなたちゃんと私の話聴いてたの?」
「ええ。つまり、なんですか? 今のあなたのその一見するとクールだけど、実はかなり失礼で横柄な態度でもって、周りに人を寄せ付けないようになった原因のすべてが、人格形成が行われる多感な時期に出会ったそのアルタリが行った忘却のせい、だと言うんですか?だから出会うすべてのアルタリに対してあなたが抱く嫌悪感が正当化される、と?」
ジスはものすごい早口でまくしたてるように言った。
「な、な、な、なんですって?! 私の態度がまるで……思春期の女の子によくありがちな『何でもかんでも誰かのせいにしたい反抗的で幼稚な振る舞い』の様に聞こえるじゃないの!! けれど……強ち間違ってもいないから、癪だけど何も言い返せないわ……」
エイカは恥ずかしさのあまり、顔がトマトのように真っ赤になって項垂れた。
「でも、本当は違うでしょ?」とジスが優しく言った。「え?」とエイカが顔を上げる。
「私はまだあなたと出会って日が浅いですが、それでもあなたが大事な人を気遣い、弱っている人に思いやりをもって接している姿を何度も見ました。それに──」
ジスはエイカをまっすぐに見て話した。
「──先ほどもあなたは私を『信じてもいいか決めかねている』と言ったじゃないですか? 決して『信じない』とも『信じたくない』とも言わなかった」
ジスがニッコリと微笑んだ。
「そ、そんなのは、あれよ、ただの言葉の綾よ。……もう、恥ずかしいからそんな顔で見ないでくれる?」
彼女はますます気まずそうに今度は天井を見上げて「でも」と続ける。
「でも、そうかもしれない。恐れ入ったわセラピストのドクター・ジセリオス」
そう言われ、ジセリオスはまんざらでもない表情をした。それを見てエイカはフフフと笑った。そして、心の中の冷たくて硬いものが、ほんの少しだけ溶けていくような気がした。
「もう到着するわね。ウェンじゃないけど、なんだかお腹が空いちゃったわ。降りたらまず、なにか食べましょう」
ジスのすべてを受け入れたわけでも、アルタリに対しての軋轢が消えたわけでもない。それでも彼女はこの旅が、自分の将来を大きく意味づけるものになるかもしれないと、ぼんやりと予感していた。




