第95話 救護室の温もりと、リカバース
深い、深い水底から、ゆっくりと意識が浮かび上がってくるような感覚だった。
全身の骨という骨を苛んでいた、軋むような激痛はもうない。肺を焼き尽くすような息苦しさも消え失せている。
ただ、ふかふかとした極上の柔らかさと、日向の匂いがする清潔なシーツの感触だけが、レンの身体を優しく、そして確かに包み込んでいた。
「……ん……」
鉛のように重い瞼を少しずつ押し上げると、視界いっぱいに真っ白な天井が広がった。 窓の隙間から差し込む柔らかな光が、空気の中を舞う細かな埃をきらきらと照らしている。ここは、王城内にある救護室の、最も広くて設備の整った特別室だ。
ぼんやりとした頭で状況を把握しようと顔をわずかに動かしたレンは、自身の右腕と左腕に、それぞれ心地よい重みと温もりが乗っていることに気がついた。
左側には、真紅のボブヘアを無防備に散らして、スースーと規則正しい寝息を立てる第三王女、ナタリー。
右側には、レンの腕にしっかりと抱きつき、涙の跡が残る顔をすり寄せるようにして眠る白銀の髪の聖女、シルフィー。
レンという小さな身体を挟み込むようにして、この国で最も高貴な二人の少女が、同じベッドの上で「川の字」になって眠りこけていたのである。
さらに視線をずらすと、ベッドの脇に置かれた丸椅子には、アイスブルーの髪のメイド・アリスが、ベッドに伏せる形で、静かに目を閉じていた。
(……なんだ、これ)
丸一日もの間、意識を手放していたレンの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
4年半前。アルヴァレインの光が届かない路地裏、違法奴隷商人の暗く冷たい檻の中にいた自分。
誰も信じられず、誰にも必要とされず、ただ世界を呪って、檻の隅で殺意だけを抱えて震えていた日々。
それが、今はどうだ。
自分が無茶をして倒れれば、こうしてボロボロになるまで涙を流し、付きっきりで看病して、隣で添い寝までしてくれる人たちがいる。
シルフィーがかけてくれたであろう、規格外の回復魔法の残滓が、まだ体内をぽかぽかと温めているのを感じる。
孤独だった少年の心を、今まで知らなかった『家族のような温もり』が満たしていく。こんな幸福が自分に許されるのだろうかと、レンは少しだけ泣きそうになりながら、小さく、誰にも聞こえないように息を吐いた。
「……ありがとな」
ぽつりと呟き、レンは彼女たちを起こさないよう、その温もりに身を委ねて再び静かに目を閉じた。
過去の呪縛が入り込む隙間もない、安らかな、本物の眠りの中へ。
*
「……んしょっと」
次にレンが目を覚ました時、窓から差し込む光の角度は大きく変わっていた。昼下がり特有の、のんびりとした空気が救護室を満たしている。
身体を起こそうとすると、今度は腕に重みはなかった。
「やっと起きた! もー、無理しないでよね!」
ベッドの脇から、少し怒ったような、それでいて深い安堵の混じった声が降ってきた。 見上げると、腰に手を当てて仁王立ちしているナタリーと、その隣で水差しを持ったアリスが立っていた。
シルフィーはまだ疲労が抜けきっていないのか、ベッドの端の方で丸くなって幸せそうに寝息を立てている。
「あ……おはよう、ナタリー、アリス」
「おはようじゃないわよ! あんた、自分がどれだけ無茶したか分かってるの!? カイさんに運ばれてきたあの木箱を開けた時、私の心臓がどれだけ縮み上がったか……っ!」
ナタリーが頬を膨らませて説教を始めるが、その翠玉の瞳が微かに潤んでいるのを、レンは見逃さなかった。
剣帝レグルスとの3日間に及ぶ死闘。死の縁を歩くような無茶な挑戦は、残された者たちに多大な心配をかけてしまったらしい。
「悪かったよ……。でも、お陰でレグルスの重り、ぶんどってやったぜ」
レンが自慢げに笑うと、ナタリーは呆れたように大きなため息をついた。
「はぁ〜……本当に馬鹿なんだから。でも、生きて帰ってきたから許してあげる。その代わり、仕事を無断で昨日一日休んだんだから、今日はみっちり働いてもらうわよ!」
第三王女としての、そして姉としての威厳を保つようなその命令に、レンは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「分かりましたよ……今日からまた頑張ります」
素直に頷くレンを見て、ナタリーは満足げに「よろしい」と胸を張った。
アリスが水差しからコップに水を注ぎ、レンに手渡す。乾ききっていた喉を冷たい水が心地よく潤していく。
「さて、仕事をする前に、あんたまずはお風呂に入りなさい!」
ナタリーがビシッと指を突きつけた。
「丸一日寝てて、汗もいっぱいかいたでしょ。昨日はボロボロだったから、私たちが身体を拭いてあげたんだからね!」
「……そうだったのか」
レンはコップから口を離し、素直に頷いた。 血と泥にまみれ、見るに堪えない状態だったはずの自分の身体。それを、文句一つ言わずに隅々まで綺麗にしてくれたのだ。 かつては誰かに触れられることすら極度に嫌がり、牙を剥いていたレン。それが今では、彼女たちの世話焼きを「ありがたい」と素直に受け入れられるようになっている。
「ありがとな、ナタリー、アリス。面倒かけちまって」
「当然でしょ。私の可愛い弟なんだから」
ナタリーが得意げに笑う横で、アリスがいつも通りの抑揚のない、氷のように透き通った声で提案をした。
「じゃあレン、私と一緒に入りましょう。きれいに洗って差し上げますから、私もきれいにしてください」
「なんだよそれ……まぁ、いいけど。アリスも昨日はずっと起きててくれたんだろ」
レンが呆れ半分で、大浴場に向かおうとしたその時だった。
「ダメですッ!!!」
救護室に響き渡った。
声の主は、ベッドの端で寝ていたはずのシルフィーだった。
彼女はバサッとシーツを跳ね除け、真っ赤にしながらレンの裾をつかみ引っ張る。




