第93話 剣帝への挑戦と、ヴァロウチャル
――ヒュゴォォォォォォォォォッ!!
夜明け前の薄暗い森に、竜の咆哮のような風切り音が轟いていた。
王城の敷地の外れ、鬱蒼と茂る木々に囲まれた粗末な小屋の前。そこで、一人の男が黙々と大剣を振るっていた。
最強の英雄、剣帝レグルス・バーン。
見上げるほどの圧倒的な巨躯と、丸太のように太い腕。彼がその無骨な大剣を無造作に振り下ろすたび、空気が物理的な質量を持って圧縮され、爆発的な衝撃波となって周囲の木々を激しく揺さぶる。
刃は空気を斬っているだけだというのに、地面には見えない刃によって抉られたような深いクレバスが幾筋も走っていた。
ただの素振り。準備運動にすら満たないその動作だけで、森の生態系を脅かすほどの暴力の権化。それが、レグルスという男の底知れなさだった。
*
そして、陽が真上に昇った翌日の昼。
森の木漏れ日を縫うようにして、一人の少年がレグルスの小屋へと足を踏み入れた。
黒紫の髪と、黄金の瞳。仕立ての良い高級なちびっこ紳士服に身を包んだ姿で。
切り株に腰掛け、大剣を研いでいたレグルスが、面倒くさそうに顔を上げる。
「よう、レグルス」
少年――レンは、その小さな唇を獰猛な三日月の形に歪め、不敵な笑みを浮かべた。
「アンタの重り、今日全部貰って、足取り軽くしてやるよ」
昨日までシルフィーに見せていた「完璧なちびっこ紳士」の仮面は、そこには一切なかった。
瞳に宿るのは、純粋な闘争心と、飢えた獣の光。4年半前、初めてレグルスに拾われた時のあの『狂犬』の顔が、さらに鋭く研ぎ澄まされた状態で帰ってきたのだ。
その言葉を聞いたレグルスは、ピタリと研ぎ石を動かす手を止め、ふっ、と鼻で笑った。
「久しぶりに戻ってきたと思ったら、なんだそのだっせぇ紳士服は。ちっとも似合ってねーぞ〜!(笑)」
レグルスは立ち上がり、首をボキボキと鳴らしながらレンを見下ろした。
圧倒的強者の余裕。その口元には、手塩にかけて育てた愛弟子が帰ってきたことへの隠しきれない歓喜と、それを完膚なきまでに叩き潰してやろうという容赦のない殺意が同居している。
「背伸びすんな、ガキンチョ。王宮のなまぬるい空気で、どうせ体も鈍ってるだろうからな。……今日中に徹底的にぼろ雑巾にして、カイの野郎に返却してやるよ」
ズンッ! と、レグルスが一歩前へ踏み出す。
たったそれだけの動作で、大気がビリッと震え、レンの肌に重圧がのしかかる。常人であれば、その殺気にあてられただけで泡を吹いて倒れてしまうほどのプレッシャー。
だが、今のレンにとって、それは極上のご褒美でしかなかった。
「生憎だけどな」
レンは腰に帯びた双魔剣の柄に手をかけ、チッ、と舌を鳴らした。
「アリスとナタリーから、きっちり3日の休暇をもらってきてんだ。――今日でぶっ倒して、残り2日はあんたの介護してやるよ!」
宣言と同時。
レンの全身から、限界まで圧縮された紫の雷光(紫電)が爆発的に迸った。
バチバチッ! という鼓膜を裂くような放電音が森に鳴り響き、レンの足元の地面が、その莫大な闘気の奔流に耐えきれずにクレーター状に陥没する。
空気がオゾンと焦げた土の匂いに包まれ、周囲の小石が重力を失ったかのようにフワリと宙に浮き上がった。
それはもはや、10歳の少年が放つ気迫ではない。自然現象すらも歪める、一つの立派な『災害』の顕現だった。
「ははぁ! いいねェ……生意気な口の利き方はカイに似てきたじゃねェか!」
その規格外の紫電を目の当たりにして、レグルスの顔に獰猛な笑みが張り付いた。
大剣を肩に担ぎ、肉食獣のように身を屈める。
「来いよ、狂犬。俺の首、取れるもんなら取ってみろォ!!」
「ルルルァァァァァァァッ!!」
レンの姿が、かき消えた。
否、紫の閃光となって、森の空間そのものを置き去りにするほどの雷速で踏み込んだのだ。 レンのいた場所の地面が、遅れてドゴォォォンッ! と大爆発を起こし、土塊が数十メートルの高さまで吹き飛ぶ。
瞬きすら許されない速度。
カイの柔の剣とは全く違う、圧倒的な剛と剛の激突。
レンの抜いた必殺の双魔剣が、レグルスの太い首筋を真横から薙ぎ払おうと迫る。
対するレグルスは、避けることすらしない。嬉しそうに歯を剥き出しにし、大剣を正面からフルスイングで叩きつけた。
――ズガァァァァァァァァァァァァンッ!!!
雷光と、絶対的な暴力が、正面から激突した。
直後、二人の武器が交差した空間を中心に、凄まじい衝撃波が全方位に向かって炸裂する。
鼓膜を破壊せんばかりの轟音。周囲の巨木が根元からへし折れ、嵐のような突風が森の木の葉を根こそぎ吹き飛ばす。大地は悲鳴を上げて割れ、巻き上がった土埃が太陽の光を完全に遮断した。
男たちのプライドが激突する、熱量MAXの狂宴。
*
――そして、3日後。
「し、失礼します、カイ隊長……ッ!」
聖王騎士団の執務室。書類仕事に追われていたカイの元に、数人の屈強な騎士たちが、顔を真っ赤にして滝のような汗を流しながら運び込んできたのは、ひどく頑丈な作りの台車に乗せられた『一つの大きな木箱』だった。 木箱には、べったりと乾いた血と泥がこびりついており、中からは何かがゴトゴトと転がるような鈍い音が聞こえてくる。
「レグルスさんがこの木箱をカイに届けるよう置かれていたのですが……っ。異常な重さでして、台車を使っても大の大人が数人がかりでようやく……っ」
「ああ、ご苦労様」
異常すぎる重量の正体を瞬時に察し、カイは書類から顔を上げて、いつもの優男の笑顔をわずかに深めた。
木箱に血で無理やりくっつけた汚い羊皮紙の切れ端には、乱暴な筆跡でただ一言、こう書かれていたのだ。
『返品』と。




