第92話 盾になる誓いと、プロテギア
月光が青白く照らす訓練場に、静寂が戻る。先ほどまで吹き荒れていた紫電の余韻と、大地を穿つような衝撃音は嘘のように消え失せ、ただ夜風が少年の荒い吐息を運んでいた。
「レンッ!!」
その名を叫びながら、シルフィーは物陰から弾かれるように飛び出した。
視線の先には、冷たい土の上に力なく横たわるレンの姿。意識を失い、人形のように動かないその小さな身体を目にした瞬間、シルフィーの心臓は凍りついたような錯覚に陥る。
だが、彼女よりも一歩早く動いた影があった。
短い叫びすら上げるより早く、弾かれたように駆け寄ったのはメイドのアリスだった。
普段ならば一糸乱れぬ完璧な所作を崩さない彼女が、膝を泥で汚し、自慢のメイド服の裾が砂埃に塗れるのも構わずに地面へ膝をつく。アリスは手慣れた様子でレンの頭を己の膝に乗せ、懐から取り出した高品位のポーションをその青白い唇へと流し込んだ。
その、あまりにも「当たり前」で、淀みのない献身的な動作。
シルフィーは、差し伸べようとした自分の手が宙で止まるのを感じた。
(……どうして)
胸の奥が、チクリと痛む。
この4年半、自分の知らない場所で、アリスはこうして何度もレンを介抱し、その傷に触れてきたのだ。レンの身体の重みも、体温も、限界の兆候も。自分よりもアリスの方が、今のレンを深く理解しているのではないか――そんな正体のわからない疎外感、そして疎外感とは違う『何か』がもやっとした不快感となってシルフィーの心を覆っていく。
だが、ハッとしてシルフィーは首を振り、雑念を振り払うとレンの傍らへと膝をつき、慌てて両手をかざした。
「《聖域の雫》……!」
シルフィーの掌から、溢れんばかりの黄金の光が降り注ぐ。
アリスの飲ませたポーションと、シルフィーの規格外の聖属性回復魔法。二つの力が合わさり、レンを蝕んでいた酷い打撲と疲労が急速に霧散していく。
「……っ、ん……」
やがて、レンの長い睫毛が微かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上がった。
焦点の定まらない黄金の瞳が、頭上で自分を見守る白銀の髪を捉える。
「……シルフィー……?」
掠れた、熱っぽい声。
その声を聞いた瞬間、シルフィーの目から熱いものが溢れ出しそうになった。彼女は必死にそれを堪え、レンの泥を被った頬を優しく、愛おしそうに撫でた。
「ええ、私よ、レン。……もう大丈夫。明日からはレグルスとの立ち合いなのでしょう? 今日はもう眠りなさい」
シルフィーは祈るように目を閉じ、静かに魔法の名を紡いだ。
「――《聖癒快眠》」
安らかな眠りを誘う柔らかな魔力が、レンの全身を包み込む。
レンの表情はとろけるような笑顔へと緩み、シルフィーの手のぬくもりを感じながら、深い、深い安息の闇へと沈んでいった。
アリスが静かな声で「お運びします」と告げ、眠りについたレンを抱え上げようと身をかがめる。
しかし、その瞬間に彼女の動きがピタリと止まった。
「……相変わらず、無茶をしますね」
アリスは小さく息を吐くと、手際よくレンの両手足に装着されていた二本の分厚い鉛の重りの留め具を外し、地面へと下ろした。ズシンッ! と重低音が響き、土が深くへこむ。常人ならば持ち上げることすら困難な、殺人的な重量だった。
「カイ様、こちらの重りを持っていっていただけますか?」
「はいはい。全く、これをつけてずっと僕と打ち合ってるんだから、本当に呆れるよ」
カイが苦笑交じりに二つの重りを拾い上げるのを確認し、アリスはようやく身軽になったレンを横抱き――お姫様抱っこで軽々と抱え上げ、彼の部屋へと向かって歩き出した。
シルフィーはその背中を見送る。アリスの腕の中で安らかに眠るレンの姿に、また胸が小さく軋んだが、今はそれよりも優先すべき問いがあった。
アリスの姿が見えなくなった頃、訓練場の出口へ向かって歩き出そうとしていたカイが、大きく背伸びをした。
「ふぁ……。僕ももう、寝ようかな」
「待ってください!」
シルフィーの声が、冷え始めた夜気を切り裂く。
カイは「ん?」と面食らったような顔で立ち止まったが、一瞬でいつもの掴みどころのない優男の笑みを浮かべて振り返った。
「何かご用でしょうか、シルフィー様」
「……ここまでする必要は、ないんじゃないでしょうか……!」
シルフィーの黄金の瞳には、強い非難と悲痛な色が混じっていた。
「あの子はまだ10歳です。いくら本人が望んでいるとはいえ、これでは身体が壊れてしまいます。……どうして、止めないのですか?」
問い詰めるシルフィーに対し、カイは薄く笑った。その笑みは、どこか遠い日を懐かしむような、大人の色を帯びている。
「これはね、彼が望んだことだよ。……守られてばかりじゃない。大切なものを守る力を渇望していたからね」
「それは……私を守るために、努力してくれているのはわかっています。でも!」
シルフィーは一歩踏み出し、自身の胸元を強く握りしめた。
「……これから世界は、私が平和にしていきます……! レンが……みんなが、こんな痛い思いをしなくて済むように!」
しかし、カイの反応は、シルフィーの予想とは異なるものだった。
「はは……。それは嬉しいね、ありがとう」
カイは目を細めて優しく微笑み、それから急に真剣な眼差しでシルフィーを射抜いた。
「でもね。僕も彼も……シルフィー様が守る『平和な世界』なんて、そこまで望んでいないよ」
「えっ……?」
想定外の言葉に、シルフィーは言葉を失い、ビックリした顔でカイを見つめ返した。
「もっと具体的に言うとね、シルフィー様。僕らは、貴女『と』一緒に、この世界を守っていきたいんだ」
カイの言葉が、シルフィーの頑なな心に波紋を広げていく。
カイは一歩近づき、少年のように無邪気に、それでいて大人の慈愛を持って微笑んだ。
「貴女一人に、すべてを背負わせる気はないよ。僕も、隊長も、そして何より――レン君はね」
カイの声が、少しだけ熱を帯びた。
「レン君がどれほど貴女に感謝し、貴女という光を尊んでいるか。……それを知っているからこそ、僕は彼を鍛えるんだ。貴女をただ遠くから拝むだけの信者ではなく、隣に立って、背負った荷物を半分奪い取れるだけの『相棒』にするためにね」
「といっても……そんな考えになったのも、レン君とこうやって訓練をやり出してからなんだけどね!」
カイは夜空を見上げ、ふっと表情を和らげて笑った。
運命が変わっていく。
それはシルフィーが時間を戻して歴史を書き換えているからなのか、シルフィーに救われた一人の少年が変えているのか。




