第91話 痛々しい特訓と、ルーンサング
静寂に包み込まれた夜の王城。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石造りの回廊を、シルフィー・エリオス・ルーメリアは早足で進んでいた。その足取りには、隠しきれない焦燥と不安が張り付いている。
「アリスさん、お待たせしました……。あの、昨日のことなのですが」
指定された王城の裏手、広大な敷地を持つ屋外訓練場の入り口。そこで静かに控えていたメイドのアリスに追いつくなり、シルフィーは口を開きかけた。
昨夜、ナタリーの部屋で目撃したあの「理不尽な光景(?)」。そして、アリスから告げられた『カイの特訓の方がよほど過酷』という言葉の真意を問いただすためだ。
だが、シルフィーの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
――ドゴンッ!! ――バチチチィィッ!!
夜の闇を唐突に引き裂く、空気を破裂させるような巨大な衝撃音。
それに重なるように紫の雷光が訓練場の中から閃き、周囲の木々を一瞬にして昼間のように照らし出した。
「え……?」
息を呑むシルフィー。鼓膜を震わせるその音は、到底、騎士同士の型稽古や「いじめ」などという生易しいものでは出せない、本気の殺し合いのそれに等しかった。 シルフィーはアリスの制止も待たず、訓練場の様子が窺える石壁の陰へと駆け寄り、恐る恐る視線を向けた。
そこは、蒼白な月光に照らされた、凄惨な死闘の舞台だった。
「はぁッ……! あぁぁぁッ!!」
獣のような咆哮を上げ、漆黒の夜の闇を裂くように駆けるのは、黒紫の髪を持つ少年――レン。
彼の全身からは、限界を超えた魔力の暴走を示すような紫の電光がバチバチと弾け飛んでいる。手にした分厚い木剣は、空気を切り裂き、殺意に等しい闘気を纏って一直線に標的へと向かう。
その標的とは、訓練場の中央に、まるで散歩でもしているかのような自然体で立つ、桜色の髪の優男。聖王騎士総隊長、カイ・ルシェルドであった。
紫電の踏み込み。視認することすら困難な神速の刺突が、カイの急所を的確に捉えようと迫る。
だが。
「踏み込みの鋭さは随分と良くなったね。――でも」
カイは優男の笑顔を一切崩すことなく、まるで柳の枝が風を受け流すかのように、最小限の動きでその神速の刺突を躱した。
「踏み込むに至るまでの『判断』が、まだ少し遅い」
すっ、とカイの木剣が滑るように動く。 レンの力任せの突進をいなし、その推進力を利用して足を刈り、さらに背中へと重い一撃を叩き込む。無駄のない、完璧な柔の動きだった。
「がはッ……!」
肺から空気を強制的に吐き出させられ、レンの華奢な身体が宙を舞う。
そのまま受け身を取る暇もなく、レンは10メートル近く吹き飛ばされ、訓練場を囲む堅牢な石壁に背中から激突した。
ズドンッ! という鈍い音が響き、細かい石の破片がパラパラと落ちる。
レンは地面に力なく転がり、苦悶の表情で激しく咳き込んだ。
(ああっ……!)
物陰からその光景を覗き見ていたシルフィーは、悲鳴を上げそうになる口を両手で必死に押さえた。黄金の瞳が、恐怖と絶望で大きく見開かれる。
月明かりの下で見えるレンの姿は、あまりにも痛々しかった。
衣服は土埃と汗で汚れ、あちこちが破れている。露わになった肌には、無数の青黒い打撲痕が刻み込まれ、息をするたびに全身の骨が軋むような痛みに苛まれているのが痛いほど伝わってきた。 昨夜のダンスレッスンでのドタバタなど、文字通り子供のお遊戯に思えるほどの、圧倒的で無慈悲な暴力。
これを4年間も、彼は毎晩続けていたというのか。
「一瞬の迷いは気取られて、カウンターの餌食になるよ。君の悪い癖だ」
壁際で崩れ落ちるレンに向かって、カイは木剣を肩に担ぎながら涼しげな声で忠告した。その態度はどこまでも指導者としての冷静さを保っており、一切の手加減も、甘やかしも存在しない冷徹なものだ。
「明日はレグルス隊長との立ち合い(3日間)だろう? そろそろ休むかい?」
これ以上は体が持たない。誰の目にも明らかな限界だった。
(だから、お願い、休んで。これ以上、傷つかないで)
シルフィーが心の中でそう叫んだ、次の瞬間だった。
「……まだだ……っ!」
ガクガクと震える足に力を込め、レンが立ち上がった。
土を掴み、杖代わりに木剣を地面に突き立て、血の滲む唇を無理やりに引き結んで、彼は再びカイを真っ直ぐに睨み据えた。
「まだだッ! もう少しだ……ッ!!」
その声には、決して折れない強靭な意志と、狂気じみたまでの執念が宿っていた。
シルフィーは、その姿を見て雷に打たれたように硬直した。
彼がこれほどまでに力を渇望する理由。ボロボロになっても、何度も何度も圧倒的な強者に向かっていく理由。
……4年半前。自分がダンジョンへ向かった時、彼に背中を庇わせ、瀕死の重傷を負わせてしまったあの日の記憶が、シルフィーの脳裏にフラッシュバックする。
彼は、強くなろうとしているのだ。
自分に生きる意味を与えてくれた絶対の主――『歴代最高の聖女』という、厄介で巨大すぎる運命を背負った少女の隣に立ち、誰よりも強固な盾となるために。
「……見ていて痛々しいですよね」
凍りつくシルフィーの横で、これまで沈黙を保っていたアリスが静かに口を開いた。 その横顔には、いつも感情を表に出さない完璧なメイドの仮面の奥に、母親のような深い憂いの影が落ちていた。
「言ったでしょう? ナタリー様より、カイ様の方がずっとひどいと」
「ひどいのは……ひどいですが……。でも、種類が……」
声が震える。これは、強者による理不尽な虐めではない。互いに命を削り合うような、純粋で気高い武の追求だ。
「レンは、執事としてすでに立派に育っています。礼儀作法も身につけ、政治の裏側を学ぶ賢さも持ち合わせている」
アリスの琥珀色の瞳が、夜の闇の中で激しく火花を散らす二人の姿を見つめている。
「もう剣を握らなくたって、安全な王城の中で、何不自由なく生きていけるのです。……それでも、彼自身が望んでいるのです。あそこまで自分を追い込み、血を吐くような努力を続けることを」
「彼自身が……望んでいる……?」
アリスの言葉が、シルフィーの胸の最も柔らかい場所を深く、鋭く抉った。
誰かに強いられたわけではない。彼自身の意志で、この過酷な死地を、自ら進んで選んだのだ。
完璧だと思っていた自分の庇護下で。温かく安全な毛布でくるんで、ずっと守ってあげようと思っていた小さな男の子は。
自分には何も告げず、こんなにも過酷な夜を越え続けて、一人で、立派な『騎士(男)』になろうとしていたのだ。
(どうして……私を守るために、こんなに傷ついて……っ)
彼の瞳に宿る、自分への狂おしいまでの忠誠と覚悟を、自分は何もわかっていなかった。 保護者気取りで彼を鳥籠に閉じ込めようとしていた自分が、彼の気高い魂を前にして、音もなく崩れていく。
代わりに、シルフィーの目の奥に、熱いものが盛り上がってきた。
「――そこだっ!!」
訓練場から、レンの裂帛の気合いが轟く。
疲労の極致にありながら、レンは紫電を限界まで練り上げ、今日一番の踏み込みを見せた。迷いのない、一直線の刺突。それは確かに、カイの防御をコンマ一秒だけ上回る速度を持っていた。
「……素晴らしい。でも、惜しいね」
だが、百戦錬磨の聖王騎士総隊長は、そのさらに先を読んでいた。
カイは迎撃を捨て、身を沈めてレンの凶刃をギリギリで躱すと同時、死角から強烈な柄打ちをレンの鳩尾へと叩き込んだ。
「がッ……ぁ……」
致命的なカウンター。
紫電が霧散し、レンの身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
双魔剣がカランと音を立てて地面に転がり、彼の華奢な身体は、冷たい土の上へとうつ伏せに倒れ伏した。 ずるずると壁際で膝をつき、今度こそ、ピクリとも動かない。 意識を刈り取られ、限界を超えた身体が、ついに完全に活動を停止したのだ。
「レ、レンッ!!」
彼女は真っ直ぐに駆け出していった。




