第90話 王女の直感と、アンザエティア
夜の王城。人気の途絶えた廊下を、静かなステップの音が軽快に響いていた。
「〜♪」
レンとの不器用なダンスレッスンを終え、ご機嫌でスキップを踏む第三王女・ナタリー。その足取りが自室の前に差し掛かった時、背後から張り詰めた声が飛んだ。
「な、ナタリー様! お待ちください!」
「ん〜?」
ナタリーが振り返ると、暗い廊下の奥に、微かに揺れる白銀の影があった。
「ごめんなさい、暗くてよく見えないわ? どなたかしら」
ナタリーの呼びかけに応え、その人影は少し震えながら月明かりの差し込む窓際へと歩み出る。
銀糸のように美しい髪と、緊迫感に揺れる黄金の瞳。そこには、思い詰めたような表情を浮かべた歴代最高の聖女、シルフィー・エリオス・ルーメリアの姿があった。
「あら! シルフィーちゃんじゃない! こんな夜遅くにどうしたのかしら?」
目を丸くするナタリーに対し、シルフィーは大きく息を吸い込み、意を決したように真っ直ぐに見つめ返した。
「ナタリー様! 単刀直入に申し上げます。お願いです! ……レンをおもちゃにするのはやめてください!」
悲痛なまでの叫び。
それを聞いたナタリーは、数秒だけポカンとした顔を見せた。しかし、シルフィーの必死すぎる表情と、先ほどまでのレンとのやり取りを脳内で繋ぎ合わせ、すぐに事態を察した。
(あ〜、なるほど。さっきの広間でのレッスン、こっそり覗いてたのね)
ナタリーはニヤリと、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「シルフィ〜ちゃ〜ん。そういえば……レンの様子を4年間、ずーっとカイさんに報告させてたわよね?(笑)」
「っ!?」
突然の指摘に、シルフィーの肩がビクッと跳ねる。
「ななな、何故それを知っているんですか……!」
「だって、カイさんがレンの仕事中の話とか、私に細かく聞いてくるんだもん! 私もアリスも、シルフィーちゃんから頼まれてるんだろうなって気づいてたわよ?(笑)」
シルフィーは口をぱくぱくさせた。
「わわわ、私はその……あのっ……」
図星を突かれたシルフィーは、耳の先まで真っ赤にして狼狽えた。遠く離れた帝国から、カイという最高の監視(護衛)役を使って、レンの動向をストーカーまがいにチェックしていたことが、当の王女たちにバレバレだったのだ。
聖女としての威厳など、もうどこにもない。ただの恋に……いや、「過保護な主」として焦りまくる一人の少女の姿がそこにあった。
「ふふっ。安心して。私はあの子を『寝取ろう』なんて思ってないから♪」
「ねっ……!? そ、そういう意味ではなくて!」
ナタリーはくすくす笑う。
「私とアリスにとって、レンは弟か息子みたいなものよ! ちゃんと立派な紳士にしてるんだから、半成人式を楽しみにしててね♪」
ウィンクを飛ばすナタリー。しかし、完全に勘違いの沼にハマっているシルフィーには、その言葉の真意が届かない。
「え、いや……ですから、レンをあんまりいじめないで欲しかっただけで……」
消え入りそうな声で訴えるシルフィー。
その言葉を聞いた瞬間、ナタリーは堪えきれなくなったように吹き出した。
「いじめ!? あはははっ! あの子が!? あーはははは! お腹痛いわ!」
「な、ナタリー様……?」
ナタリーは目尻の涙を拭った。
「シルフィーちゃんって、こんなに面白い子だったのね♪ もっと早く仲良くなっておけばよかったわ! これからいっぱい仲良くなりましょ!」
腹を抱えて笑い転げた後、ナタリーは「あー面白かった」と涙を拭い、上機嫌で自室へと入っていってしまった。
*
「…………」
バタン、と扉が閉まる音。
一人残されたシルフィーは、完全に呆然と立ち尽くしていた。
勇気を振り絞って直談判したというのに、まったく話が通じなかった。それどころか、深刻な悩みを笑い飛ばされてしまった。
(私の考えすぎ……? いえ、でも確かにレンは転んで痛がっていたし、ナタリー様は笑っていたし……)
ぐるぐると混乱が完結しないシルフィーの背後から、静かな足音が近づいてきた。
「聖女様」
振り返ると、そこには完璧な姿勢で控えるアイスブルーの髪のメイド、アリスが立っていた。
「ナタリー様が失礼いたしました」
「アリスさん! お願いです、ナタリー様の暴走を止めてください! レンがかわいそうです……!」
藁にもすがる思いで訴えかけるシルフィー。しかし、アリスは表情一つ変えずに首を横に振った。
「ナタリー様のあれは通常運転ですので、どうかご安心ください」
「でも……!」
食い下がるシルフィーを、静かな声が遮った。
「それに」
アリスの琥珀色の瞳が、冷たく、しかしどこかレンへの憐憫を帯びて光った。
「過酷というなら、カイ様の特訓の方がよほど厳しいですよ。いじめという次元ではありません」
「……え?」
アリスは静かに続けた。
「どういうことか知りたいのでしたら、明日のこの時間、城内の屋外訓練場へ行ってみましょう。ご案内いたします」
アリスは一礼すると、それ以上の言葉を紡ぐことなく、静かにその場を立ち去っていった。
月明かりの差し込む廊下に、再び一人取り残されたシルフィー。
彼女の胸に渦巻くのは、安堵ではなく、更なる深い焦燥感だった。
(カイさんの特訓が……いじめより厳しい……?)
思い出すのは、いつだって優しく微笑んでいるピンクアッシュの髪の優男の顔。そして、謁見の間でレグルスに向かって牙を剥いた、レンの狂気じみた黄金の瞳。
(私は……4年間、彼のことを見ていたつもりで、何もわかっていなかったの……?)
完璧だと思っていた自分の庇護下で、彼は一体どんな日々を送っていたのか。 シルフィーは、胸の奥でドクンと嫌な音が鳴るのを感じながら、震える足で自身の部屋である旧礼拝堂へと歩き出した。
——明日の夜。アリスが案内するという、その訓練場へ。




