第89話 王女の悪戯と、プランセシア
夜の帳が下りたアルヴァレイン王城。
第三王女ナタリーは、自身の私室の前で腕を組み、今か今かと待ち構えていた。やがて、向かいの小部屋の扉が静かに開き、黒紫の髪を持つ少年――レンが、いつものように夜の訓練場へと向かおうと姿を現す。
「捕まえた♪ ついてきなさい!」
ナタリーは上機嫌な声を上げると、有無を言わさずレンの頭を撫で回し、その腕をぐいっと引っ張った。
「うおっ!? ど、どうしたんだよ、ナタリー」
「いいからいいから!」
戸惑うレンを無理やり引きずり、ナタリーが向かった先は、月明かりだけが差し込む誰もいない広間だった。
カチャン、と扉を閉めると、ナタリーは腰に手を当ててレンを見下ろした。
「レン、念の為にダンスの練習をやっときなさい」
「はあ!? ダンスぅ!?」
突拍子もない提案に、レンは素っ頓狂な声を上げて露骨に顔をしかめた。
「俺にこ洒落たダンスなんて向いてねぇよ。だいたい、護衛がそんなことする必要ねぇだろ」
「あら、シルフィーちゃんに誘われても、そうやって断って悲しい思いをさせる気かしら?」
ナタリーが意地悪く微笑むと、レンの肩がビクッと跳ねた。図星を突かれた時の、わかりやすすぎる反応だ。
「なっ……!? シ、シルフィーと俺は身分が違い過ぎる! そういうのはしちゃいけないんだぞ」
「ちょっとだけ賢くなったけど、まだまだアホねぇ。いい? 第三王女の側近護衛兼執事っていうポジションはね、社交界では相当いい役職なのよ。政治的にアンタに良い顔をしようとすり寄ってくる奴なんて、これから腐るほど出てくるわ。そんな時にダンスの一つや二つ踊れないようじゃ、私の品位にも関わるわ!」
ナタリーはビシッと指を突きつけ、姉としての、そして王女としての「もっともらしい理屈」を並べ立てた。 彼女なりの姉心からの提案である。
「なるほど……。確かに、そうだな……」
(……シルフィーに恥をかかせるわけにはいかない)
レンは小さく頷き、真剣な眼差しでナタリーを見つめ返した。
「わかった! 教えてくれ!」
「はぁ〜っ♡ 素直で良い子なレンが、私は大好きよ! 手取り足取りしっかり教えてあげるわ! 覚悟しなさい!」
ナタリーはご機嫌でレンの背中をバシバシと叩き、夜の特訓の幕が上がった。
*
「違う違う! そこは右足から引くの!」
「こ、こうか!?」
広間の中心。ナタリーのスパルタ指導のもと、レンは不器用極まりないステップを踏んでいた。
剣を振るう時のあの神速で理にかなった身体操作はどこへやら。リズムに合わせて優雅に動くという行為に、レンの筋肉は全く適応できていない。
「あ、やべっ」
ステップがもつれ、レンは自らの足に躓いた。 「おわっ!」と情けない声を上げ、受身を取ることも忘れて派手に床へ転がる。
「なっ! 痛ぇ……」
「あーははははは! ちょっと、何その転び方! あーお腹痛い! 笑い過ぎて死ぬわ!」
腹を抱えて爆笑するナタリーを、レンは床に座り込んだまま恨めしそうに睨みつけた。 ナタリーは涙を拭いながら、内心で(本当に、素直で可愛い弟だわ)と温かい気持ちを噛み締めていた。 4年半前、牙を剥き出しにして威嚇するしか知らなかった傷だらけの狂犬。それが今では、自分に生きる意味を与えてくれた絶対の主の隣に立つという目的のためなら、こんな慣れないことにも一生懸命に取り組む立派な少年に育ったのだ。その成長が、ナタリーには何よりも愛おしかった。
「ふふっ……今日はこれくらいにしておきましょう! 明日からはカイさんの訓練の前にやりましょうね!」
「わかった。ただ、明後日からの3日間はここに戻れないと思う」
レンの言葉に、ナタリーは「ああ」と頷いた。レグルスに叩きつけた、あの狂気に満ちた宣戦布告。これから彼が挑もうとしているのは、死と隣り合わせの地獄の闘争だ。
「あ〜、オジルスさんとのやつね! 死なないでよ〜? それじゃ、お休み!」
「ああ、お休み」
明かりが消え、レンは広間の奥の扉から夜の訓練場へと向かっていった。ナタリーもまた、満足げな笑みを浮かべて私室へと戻ろうとする。
――平和で、微笑ましい姉と弟のやり取り。
彼らは夢にも思っていなかった。その一部始終を「完全に歪んだ形」で目撃し、震えている存在がいることなど。
*
少し時間を遡る。
夜中、旧礼拝堂の重厚なドアが、キィと静かな音を立てて開いた。
隙間から滑り出たのは、シルフィー・エリオス・ルーメリア。彼女の白銀の髪が、月の光を浴びて宝石のように冷たい光を乱反射させる。
彼女はコソコソと足音を殺し、王城の入り口へと近づいていった。
「そこにいるのは誰だ!?」
見回りの騎士の誰何の声に、シルフィーはビクッと肩を震わせた。
「聖女様!? し、失礼いたしました! して、夜分遅くに何故このような場所へ?」
「しーっ! 静かにしてください!」
シルフィーは人差し指を唇に当て、少し顔を赤らめながら上目遣いで騎士を見つめた。
「お恥ずかしい話……夕食が少し足らなくて。食堂で何かいただこうと思っていたんですけれど、恥ずかしいので内緒にしてくださいっ!」
「うっ! 胸がっ! なんて尊いんだ……ッ!」
目をキラキラさせてお願いする歴代最高の聖女の破壊力に、騎士は心臓を押さえてキュン死を免れるのが精一杯だった。
「も、もちろんでございます! 良ければお供しましょうか?」
「いいえ! 私だけで行けるので大丈夫です!」
シルフィーは騎士に微笑みかけると、トテテと軽い足取りで城内へと駆けていった。 だが、彼女の向かう先は食堂などではない。
目指すは、ナタリーの部屋だ。
(レンの様子が気になります。……4年半、ナタリー様たちにどんな風に扱われていたのか……)
シルフィーの胸の奥には、帰還した直後から得体の知れない不安が渦巻いていた。あの「女性用大浴場」の件から、どうにも胸騒ぎが治まらないのだ。
ナタリーの部屋がある区画へと近づいた、その時。
「ついてきなさい!」
廊下の先から、ナタリーの強引な声が響いた。
シルフィーは慌てて巨大な観葉植物の陰に身を隠し、そっと顔を覗かせる。
そこにいたのは、ナタリーに腕を掴まれ、無理やりどこかへ連れ去られようとしているレンの姿だった。
「ど、どうしたんだよ、ナタリー」
「いいからいいから!」
戸惑うレンと、有無を言わさぬ態度の王女。
その光景を見た瞬間、シルフィーの顔からサーッと血の気が引いた。
(れ、レンが……無理やり連れ去られている……!?)
心臓が早鐘を打つ。シルフィーは息を殺し、二人に気づかれないよう、少しずつ距離を空けて後を追い始めた。
*
二人が入っていったのは、夜間は使われていないはずの広間だった。
シルフィーは広間の外、暗がりに身を潜め、少しだけ開いた扉の隙間から聞き耳を立てた。 何を話しているのか、遠くてよく聞こえない。少しだけ近づこうとした時、ナタリーの鋭い声が静かな夜の空気を切り裂いた。
『私の品位にも関わるわ!』
ビクッ! とシルフィーの肩が跳ねた。
その声色は、暗がりで聞くシルフィーの耳には、完全に「身分を盾にした脅迫」にしか聞こえなかったのだ。
(品位に関わる……? まさか、レンが何か失敗をして、責められているの……!?)
パッと広間の中に明かりが灯り、シルフィーは慌てて太い柱の陰へと身を隠した。 直後、広間の中から聞こえてきたのは、シルフィーの理性を完全に吹き飛ばす、決定的な音だった。
『おわっ!』
『なっ! 痛ぇ……』
派手に転倒する重い音。そして、苦痛に歪むレンの情けない声。
『あーははははは! ちょっと、何その転び方! あーお腹痛い!』
続いて響き渡る、ナタリーの腹の底からの爆笑。
――シルフィーは、ハッとして両手で自分の口を塞いだ。黄金の瞳が、激しい動揺と焦りに大きく揺れている。
(れ、レンがいじめられてます……!)
ダンスの練習で転んだだけだとは夢にも思わない。
シルフィーの脳内で、事態は最悪の方向へと変換されていた。圧倒的な身分差を理由に、理不尽な暴力を振るわれ、おもちゃのように嘲笑われている哀れな少年の姿が、鮮明に幻視される。
(どうして……。レンはあんなに優しい子なのに。あんなに一生懸命なのに!)
月明かりが差し込む広間の中。そこは、談笑するナタリーたちを照らし扉の外に身を潜めるシルフィーを闇に溶かす。
柱の陰から覗き見る彼女の瞳が、暗がりの中で、ぎらりと熱を持った。
(私が出発前から感じていた不安……やっぱり当たっていた。私が彼を野放しにしてしまったから、レンをこんな怖い目に遭わせてしまったんだわ……っ)
ギリリ、と。シルフィーは強く拳を握り締めた。
(理不尽な環境から……私が、彼を助け出さなければ)
静寂に包まれた夜の王城で。
シルフィーは柱の陰から、瞬きもせずに、じっと広間を見つめ続けていた。




