第8話 絢爛の夜と、ルクスダンス
その夜、王城の大広間は、光のひと粒ひと粒が、踊る人々の輪郭をなぞる場所になっていた。
天井の巨大なシャンデリア。磨かれた大理石の床。
そこに散らばる宝石、刺繍、絹のドレスの揺れ——それらが楽団の奏でるワルツのテンポに合わせて、ゆっくりと混ざり合っていく。
壁際には各国の旗。グラスの中で揺れる金色。挨拶の声と、衣擦れと、靴音。
今夜の招待客は、大陸中から集った王侯貴族たち。誰もが、この一夜のためだけに仕立てた一張羅で着飾っている。
けれど、どれほど着飾っても——視線の集まる先は、決まっていた。
その光の渦の中央に、シルフィーがいた。
「聖女様、一曲よろしいでしょうか?」
「ええ、喜んで」
次々と差し出される手に、シルフィーは花がほどけるように笑って応える。
純白のドレスは、上等な絹の薄い層を幾重にも重ねたもの。レースの裾には粒の細かい魔石が縫い込まれ、ステップを踏むたびに、ほのかな光がふわりと舞った。
美しく、清らかで——どこか、出来上がりすぎたほどに、整っていた。
くるくる、と相手を変えて踊る。
誰にでも、平等に微笑む。
緊張で手の冷えた若い騎士の番では、わずかに歩幅を緩めて。
足の悪い老侯爵の番では、ターンをひとつ減らして、そのぶんだけ深く礼をして。
相手が変わるたび、彼女のダンスは、その相手のためのダンスに変わる。
疲れた顔は、見せない。皆がそれを望んでいるから。自分が笑えば、皆の肩がほどけるのを、彼女はもう、よく知っていた。
†
曲の切れ目。
壁際へ下がったシルフィーを、色とりどりの令嬢たちが、さっと取り囲んだ。
「聖女様、その魔石のレース、どちらの工房ですの?」
「ねえ聖女様、あとでぜひ、わたくしの兄をご紹介……」
「ふふ。皆さん、今夜は私より、素敵な殿方を探しませんと」
軽やかにかわしながら、シルフィーは令嬢たちの髪飾りを、ひとつずつ褒めていく。
褒められた令嬢の頬が、ぱっと上気した。
その輪の中で——彼女は、空のグラスを抱えた給仕の少年が通りやすいよう、誰にも気づかれない半歩だけ、場所を空ける。
大広間の反対側では、別の駆け引きが続いていた。
「アレイシス殿下は、今宵はどなたと……」
「お声がけするなら、次の曲しか……」
黒の礼服の皇子の周りには、各国の令嬢たちが、扇の内側で牽制し合いながら輪を作っている。
当のアレイシスは、にこやかに、誰のことも傷つけない相槌を打ちながら——その視線だけが、何度も、何度も、光の中央へ戻っていく。
誰を見ているのかなんて、本人以外の全員が、とうに気づいていた。
——その時。
人垣が、ふっと割れた。
「……待たせたね、シルフィー」
黒の礼服のアレイシス。
向けられた瞳には、今夜の他のどんな男のそれとも違う、熱が宿っていた。
「アレイシス様……」
会場の空気が、ふっと別物になる。
誰もが道を譲り、羨望の眼差しでこちらを見ていた。
どこかで、令嬢たちの小さなため息が、いくつか重なって落ちる。
「僕とも、踊ってくれるかい? ——世界で一番、美しい君と」
恭しく差し出された手に、シルフィーは頬を染めて、自分の指を重ねる。
「はい。……ずっと、お待ちしていました」
音楽が変わる。
速いステップのワルツから、ゆったりと、愛を語らう旋律へ。
楽団長が心得た手つきで弓を持ち替え、フロアの中央に、ふたりのためだけの円が、自然と生まれた。
†
アレイシスのリードは、力強かった。
力強くて、それでいて、薄氷を踏むようにやわらかい。手のひらが、腰のいちばん安全な場所を支え、指先が、彼女の指の節をひとつずつ確かめるように包む。
息の触れる距離で、整いきった横顔が傾ぐ。
ターンのたび、ドレスの裾の魔石が細い光の尾を引いて、ふたりの軌跡を床に描いていく。
回る世界の端で、何百という瞳が、光っては流れて、消えた。
——あぁ、なんて、幸せ。
誰もが憧れる相手と、こうして、愛を確かめるように踊っている。
世界は平和で、祝福に満ちて、自分の居場所はここにある。
これ以上の幸福なんて、たぶん、どこにも、ない。
……はず、なのに。
(……どうして?)
ふと、シルフィーの胸の中に、小さな問いが浮かんだ。
(どうして私の心臓は、こんなに、静かなのかしら)
物語の本で読んだ恋は、もっと劇的だった。
胸が張り裂けそうになり、息が浅くなり、目の前の光景が、ぐにゃりと歪むようなものだ、と。
けれど、いま、アレイシスの腕の中にいる自分は、驚くほどに、凪いでいる。
感じるのは、安心。そして、安らぎ。
日向ぼっこをしているような、しっとりとした、暖かい温度。
——胸は、高鳴らない。
ドキドキと、痛いほど脈打つあの音が、どこを探しても見つからない。
鼓動はある。ただそれが、いつもより半拍だけ、間延びして聞こえる。
(おかしい。私は、アレイシス様を愛しているのに)
シルフィーは、相手の瞳をまっすぐに見上げてみる。
アレイシスは、痛いほど情熱的に自分を見ていた。
なのに、自分だけが、薄いガラス一枚を、間にはさんだ場所にいる気がする。
試しに、指先へ、少しだけ力を込めてみた。
握り返してくる手の熱は、ちゃんと、ある。
伝わってくる誠実も、向けられる想いの重さも、何ひとつ欠けていない。
欠けているものがあるとすれば——受け取る側の、この胸の方。
この完璧な幸福の絵の中で、自分の心臓の音だけが、無遠慮なほど規則正しく刻まれていることが、——少しだけ、申し訳なくて、少しだけ、怖かった。
†
「……シルフィー」
踊りながら、耳元でアレイシスが囁いた。
その声は、ほんのわずか、緊張で震えていた。
「この曲が終わったら、少し風に当たりに行こうか。……君に見せたい、ものがあるんだ」
外套の内ポケットの中で、何かが固く握りしめられている気配が、彼の手のひらを通して、ほんの小さく届く。
シルフィーはハッと顔を上げた。
彼の瞳の奥に、決意の色がある。
(あぁ、アレイシス様……)
きっと、彼は、大切な言葉をくれるつもりだ。
その誠実さに、胸の奥が、温度をひと段、上げた。
この静けさへの違和感なんて、たぶん、自分の考えすぎ。
彼の手を、しっかり取って、その言葉を受け止めれば。
そうすれば、ちゃんと「完成」が、やって来るはずだから。
「ええ……行きましょう、アレイシス様」
シルフィーは微笑み、ふっと彼の肩に、頭を預けた。
シャンデリアの光が、二人の輪郭を縁取って、降りそそぐ。
曲が、終わる。
割れんばかりの拍手の中、アレイシスはシルフィーの手を引き、人垣を分けて歩き出した。
向かう先は、月明かりの満ちるバルコニー。
二人の影が、光のホールから、月の落ちる外側の闇へと、すっと消えていく。




