第7話 祝祭の朝と、プロミネオン
翌朝。
帝都ルーヴェルトは、見上げる空のすみずみまで、祝祭の色に染まっていた。
今日は《平和記念式典》。
かつて世界を脅かした魔族の侵攻が止み、人類に長い静けさが訪れたことを祝う、この国でいちばん大きな一日だ。
大通りには「聖女様万歳」と書かれた横断幕が掛かり、家々の窓辺は色とりどりの花で埋まって、置き場を失ったぶんが雨どいまで飾っている。
人々の顔に、一片の曇りもない。
昨日のメンテナンスで磨き上げられた「硝子の空」が、街の隅々まで、絶対的な安心を分け与えていた。
「わぁ……! アレイシス様、見てください! 街中がお花畑みたいです!」
お忍び視察と称して街へ降りたシルフィーは、フードの陰で瞳を輝かせる。
深く被ったその布の隙間から、わずかに覗く黄金の瞳。それだけで、すれ違う人々の視線が、ひと呼吸だけ揺らぐ。
「あぁ、綺麗だね。——でも僕には、君の笑顔のほうが、ずっと眩しいよ」
「もう、アレイシス様ったら! お世辞がお上手なんだから」
シルフィーは頬を染め、アレイシスの腕にきゅっとしがみつく。
布越しに伝わる、ささやかな温度。
アレイシスは胸の奥に微かな熱を呑み込んで、外套の内ポケットに、そっと指先を触れさせた。
そこに、小さなベルベットの小箱がある。
中身は、王家の宝物庫から選び抜かれた、最高純度の魔石の指輪。虹を絞り上げて閉じ込めたように、ほのかに七色に光る。
(……今日だ。今日しかない)
街の歓声を遠くに聞きながら、アレイシスはひとつ、息を整えた。
昨晩の劇で見せた、シルフィーの涙。
敵である魔王にさえ心を痛め、世界のすべてを愛そうとする、彼女の優しさ。
それは尊い。けれど同時に、危うい。
彼女は生まれた瞬間から「聖女」という役割の中に括られている。世界を支える人柱。神と直結した、孤独な偶像。
——僕は、「聖女シルフィー」ではなく、一人の少女としてのシルフィーを、愛している。
そのためなら、王家の権威を盾に世界へ「No」を突き付けることも、辞さないつもりだった。
——その、時。
ふと、視線を空へ流したアレイシスは、ほんの一瞬だけ、それを見た。
結界の、北端。
空のいちばん遠い縁。
虹色の光のグラデーションに、ごく薄い「ムラ」が走っていた。磨き上げたガラスの一点に、誰かが指先で、ふっと触れた跡を残したような、極小の歪み。
それは瞬きの間に消えて、すぐに完璧な虹色へ戻る。
(……気のせい、か)
きっとそうだ。今日は祝祭。シルフィーが昨日メンテナンスを終えたばかりの結界に、綻びなど、あるはずもない。
それでも親指が、無意識のうちに、ポケットの中の小箱を硬く握りしめていた。
——今日この申し出を逃せば、二度と機会は来ない気がする。
胸の奥で、そう囁いた声があった。
†
「……っ、危ない!」
不意に、シルフィーが声を上げた。
人混みの中で、幼い少女がバランスを崩し、転びかけたのだ。
シルフィーは護衛が止める間もなく駆け出し、その小さな体を、ぱっと抱き止めた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「あ……おねえちゃん、ありがとう……」
「ふふ、よかった。可愛いお洋服が、汚れなくて」
屈み込み、乱れた前髪を撫でる。
その慈愛のこもった所作に、駆け寄ってきた少女の母親が、はっと口元を押さえた。
「ま、まさか……シルフィー様!? 聖女様、ご本人ですか!?」
「あ……内緒に、してくださいね?」
シルフィーは悪戯っぽく人差し指を口元に当て、ちろりとウインクをする。
その仕草に、周囲から、感嘆のため息が漏れた。
「聖女様だ……! 本物の聖女様だ!」
「ああ、なんてお優しい……」
「聖女様万歳! 我らの守り神に、祝福あれ!」
あっという間に歓喜の輪が広がり、シルフィーは笑顔で人々に手を振りはじめる。
アレイシスは、その背中を少し離れた場所から見つめていた。
口を開きかけ、けれど今は呑み込み、代わりに、自分にだけわかる程度に笑う。
——今夜の式典。
世界中の目が注がれるその舞台で、彼女に「聖女を辞めてくれ」と言うつもりだった。
それは、ある意味で、神そのものに弓を引く宣言だ。
だが、戦力ならある。レグルスやヴァルガさんを始めとする、自分が信頼する最強の騎士たち。彼らが力を合わせれば、彼女ひとりが背負わなくとも、世界は守れるはずだ。
——もう、十分に尽くしたはずだ。
これからは、自分が剣となり盾となって、この世界と、彼女と、両方を守る。
「アレイシス様? どうされましたか、怖い顔をして」
いつの間にか戻ってきたシルフィーが、心配そうに顔を覗き込んでいた。
アレイシスはハッと表情をほどく。
「いや。……君があまりに皆に愛されているから、少し、嫉妬してしまっただけだよ」
「ふふっ、アレイシス様は、独占欲がお強いですね」
シルフィーは困ったように笑い、それから少しだけ背伸びをして、彼の耳元に唇を寄せた。
「でも、安心してください。私は世界中の皆さんを愛していますけれど。……貴方のことは、その中でも一番、特別に想っていますから」
聖女としての博愛と、婚約者への情愛が、ひとつの息に混ざった声だった。
「貴方だけ」では、ない。
けれど「一番特別」。
その純粋すぎる響きに、アレイシスは胸の奥が、ふっと熱くなり、それから、ほんの少しだけ寂しくなった。
「……ありがとう、シルフィー」
声を取り戻して、彼は続ける。
「今夜の式典の後、少しだけ二人きりに、なれるかな。——大事な話があるんだ」
「大事な、話、ですか?」
「あぁ。君の、そして僕たちの未来に関わる話だ」
その真剣な眼差しに、シルフィーは何かを察したのか、頬の上のほうから耳までを、薔薇色に染めて、こくりと頷いた。
「はい……お待ちして、おります」
二人は見つめ合い、ほっと微笑む。
空はどこまでも青く、結界は完璧だった。
街は祝福に満ち、隣には、愛する人がいる。
——そう、見えていた。
ポケットの中の魔石の指輪は、ひんやりと冷えたまま。
けれどアレイシスが握り直すたび、その輪の中央が、自分の鼓動と同じ熱を、ほんの少しだけ分けてくれる気がした。
——今夜だ。
たぶん、これが最後の機会になる。
何の根拠もない予感を、アレイシスは口に出さず、シルフィーの笑顔と並べて、ふっと飲み下した。
繋いだ手をそのままに、二人は光の溢れる王城への帰路を、ゆっくりと辿りはじめる。
頭上の空のどこかで、磨かれた虹色が、また少しだけ、揺れた気がした。




