第6話 笑えない聖女と、モックエルジー
大結界メンテナンス儀式の成功を祝う晩餐会は、ルーヴェル帝国王城の大広間で華やかに執り行われていた。
数千の魔法灯を束ねた巨大なシャンデリアが、天井から滝のように光を吊るしている。長卓には大陸じゅうから集められた珍味が並び、琥珀色のワインが惜しげなく注がれた。
楽団の弾くワルツの上で、グラスのぶつかる軽やかな音が、不揃いに散らばっていく。
「いやあ、素晴らしい儀式だったよ、シルフィー嬢!」
ワイングラスを掲げ、低くまろやかなバリトンを響かせたのは、アルヴァレイン王国第1王子、エド・アルヴァレイン。32歳。レオニス国王の長男で、隣国の代表として今夜の晩餐に駆けつけた、若き「王国のバランサー」だ。
若い世代を見守る眼差しには、実の兄めいた温かさがある。
「世界中が光に包まれた瞬間は、何度見ても鳥肌が立つ。君のおかげで、両国の民は今年も、枕を高くして眠れるというわけだ」
「勿体ないお言葉です、エド殿下。私はただ、皆さんの笑顔が見たくて……」
シルフィーは純白のドレスの裾をつまみ、頬を染めてカーテシーを返した。
褒められ慣れていないその初々しさに、隣のアレイシスも目を細める。
「エド、あまり彼女を褒めすぎないでくれないか。これ以上シルフィーが魅力的になったら、僕の心臓が持たない」
「はっはっは! 相変わらず熱いな、アレイシス。だが安心しろ。——この国の至宝を任せられるのは、世界でお前ただ一人だ」
エドの掌が、ぽんとアレイシスの肩を叩く。
満ち足りた時間だった。
——その時、広間の照明がふっと落ち、舞台の上だけに、白いスポットが差した。
「おや、余興の時間のようだな」
ファンファーレと共に、派手な衣装の劇団が現れる。
「さあさあ、皆様! 今宵お見せするのは、古今東西語り継がれる英雄譚! ——『聖女と愚かなる魔王』でございます!」
会場から、どっと笑いが起きた。
始まったのは、街でも人気のコメディ劇だった。
舞台の右からは、キラキラと光る衣装の「聖女役」が現れ、優雅に舞いはじめる。
対して左から登場したのは、黒いボロ布を纏い、厚化粧で顔を歪めた「魔王役」の女優だった。
「オーッホッホ! 我は魔王ゼルフェリス! 美しさも力も、全て我のものよ!」
魔王役は金切り声を上げ、わざとらしく自分のスカートにつまずいて、派手に転んでみせた。
その間抜けな姿に、貴族たちから爆笑が湧き上がる。
「見ろよあの顔、魔王っていうよりただのヒステリー女だな!」
「我らが聖女様の前では、あんなもの道化にもなりゃしない」
「いいぞ、もっとやれ!」
劇が進む。
魔王は聖女に嫉妬し、悪さをしようとするたび、「愛の光」という名のピコピコハンマーで叩かれ、吹き飛ばされ、無様に逃げ惑う。
絶対的な安全圏にいる者たちだけに許された、残酷なほどの余裕。
恐怖はエンターテインメントとして消費され、敵対者は「醜い悪役」として笑いものにされる。
会場じゅうが、魔王の不幸を笑っていた。
——けれど。
シルフィーだけが、笑えなかった。
(……どうして?)
手元のグラスを、ぎゅっと握りしめる。指先が、白くなる。
周囲の笑い声が耳の中で薄くなり、遠い水の向こうへと沈んでいく。
舞台の上、髪を振り乱して這いつくばる魔王役の女優。
「悪役だから」という、それだけの理由で、彼女が引き受けた痛みと屈辱を、誰もが手を叩いて喜んでいる。
——その光景が、シルフィーには、耐え難いほど寂しく映った。
「キ、キーッ! 覚えておれ! 我は一人ぼっちでも、負けぬわぁ……!」
捨て台詞を吐きながら、魔王役が惨めに退場しようとするクライマックス。
観客は「追い出せ!」「二度と来るな!」と、口笛を吹いて盛り上がっている。
シルフィーの胸に、ズキリと鋭い痛みが走った。
冷たい手で、心臓の輪郭をなぞられたような痛みだった。
(もし……もしも、本物の魔王にも、「心」があったら?)
そんな問いが、ふっと胸の底で浮かび上がる。
神話の時代から語られてきた、絶対悪。人類の敵。
けれど、彼もまた、痛みを感じる心を持っていたとしたら。
誰にも愛されず、ただ「悪」として生まれ落ち、最後は誰からも理解されないまま、こうして笑われて消えていくのだとしたら。
(痛い……。胸が、痛い)
大きな瞳に、薄く涙が滲む。
味方だけではなく、敵の痛みにまで寄り添ってしまう。世界じゅうの誰もが魔王の滅びを願っても、彼女ひとりは、その孤独な魂が立てる音を、聞き取ってしまう。
「……シルフィー?」
ふと、隣からの声。
アレイシスが、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「顔色が、悪いよ。……この劇、趣味じゃなかったかな?」
「あ……」
シルフィーは慌てて目元を拭った。
せっかくの祝いの席だ。自分が暗い顔をして、アレイシス様やエド殿下に気を遣わせては、いけない。
口角を、力で持ち上げる。
「い、いえ! 少し、酔いが回ってしまったみたいです。……あの魔王役の方、転び方がお上手で、本当に痛いんじゃないかって……つい、心配になってしまって」
嘘で、嘘ではない、本音。
アレイシスは「君らしいな」と優しく笑い、彼女の冷たくなった指を、両手で包んだ。
「本当に、君は優しいね。痛みを知らない魔物にまで心を痛めるなんて。——でも大丈夫だよ、あれはただのお芝居だ」
「……はい。そう、ですよね」
シルフィーは頷き、舞台を見つめ直す。
劇が終わり、聖女役が喝采を浴びている。
その光の陰で、もう誰からも顧みられない「悪役」の背中に、シルフィーは、心の中でそっと手を合わせた。
(魔王ゼルフェリス……。貴方がどんな方なのか、私には、わかりません)
(どこか遠い場所で、貴方も、泣いているのでしょうか)
世界でただ一人。
敵であるはずの魔王に向けて差し出された、純粋な慈愛の祈り。
(もし神様が許してくださるなら——いつか、貴方の心にも、安らぎが訪れますように)
その祈りは、結界を越えて、遥か彼方の魔界へ届くことは、たぶん、ない。
それでもシルフィーは、願わずにはいられなかった。
彼女にとって救済とは、選ばれた者にだけ与えるものではなく、生きとし生けるものすべてに、等しく注がれるべき、愛だったから。
「さあ、シルフィー。そろそろ、部屋に戻って休もうか」
アレイシスが立ち上がり、エスコートの手を差し出す。
「今日は結界のメンテナンスで疲れただろう? それに、本番はこれからだ」
エドも満足そうに頷き、グラスを掲げた。
「あぁ、そうとも。結界の再充填はあくまで準備運動にすぎん。……明日は、いよいよ『平和記念式典』だ」
平和記念式典。
魔族の脅威が遠のき、この世界に長い平和が訪れたことを神に感謝する、国一番の大祭典だ。街は今日以上の賑わいに包まれ、最高潮の華やぎを迎えるだろう。
「はい、そうでしたね……! 私、明日が、楽しみで仕方ありません」
シルフィーの顔から、憂いの影が、ふわりと薄れた。
魔王への哀れみも、胸の痛みも、明日の希望が、優しく塗りつぶしていく。
「世界中の皆さんが、明日も笑顔でいられますように」
差し出された手を取り、シルフィーは優雅に立ち上がる。
道化芝居の幕は、もう下りた。
次の舞台は、平和を寿ぐ大式典。




