第5話 空の硝子と、セイクリッドメンテ
その朝、世界は1年でいちばん眩しい光を浴びていた。
帝都ルーヴェルの石畳には、いつもより多い色が散らばっている。屋台の天幕の朱、揚げ菓子の油の白、子供たちが手に持つ風船の赤と緑。リュートの音が広場の方角から不揃いに流れ、その上に、香ばしい肉と砂糖の匂いが斜めに重なっていた。
誰の顔も空を仰いでいた。
今日は《大結界メンテナンス儀式》。
人類の生存圏すべてを覆う「硝子の空」が、1年で最も澄んで光る、聖なる日だ。
†
王城の最上階に、「天空の祭壇」がある。
雲を間近に見るその高みで、吹き抜ける風がシルフィーの白銀の髪をふっと持ち上げた。
「ふふ。皆さん、とても楽しそう」
眼下のお祭り騒ぎを見下ろし、シルフィーは花が綻ぶように笑う。
今日のために仕立てられた儀式衣は、純白のシルクに金糸で術式が走り、陽光を受けて淡い光をうっすらと纏っている。
「緊張、しないのかい? 王都だけじゃない、世界全域の魔力充填だ。普通の魔術師なら、その重圧だけで心臓が止まっているよ」
背後から、白の礼服のアレイシスが、ショールをそっと肩へかけた。
「いいえ、アレイシス様。私は——楽しみなんです」
その黄金の瞳に、ひとかけらの曇りもない。
「この空が綺麗になれば、世界のどこにいても、皆さんが安心して眠れるでしょう? 北の雪国の子も、南の砂漠の子も、みんなが怖い夢を見なくて済む。……そう思ったら、私、嬉しくて」
かつて、魔族の侵攻が激しかった時代があった。
王都ひとつの結界を保つために、100人の高位神官が3日3晩、不眠不休で祈り続けても、守れたのはほんの一握り。倒れる者が後を絶たなかった。
それが、今は。
たった一人の少女が、世界そのものを「ひと続き」に抱きしめている。
国家間の戦争が消えたのも、この結界のおかげだった。すべての国がシルフィーの傘の下に並ぶ以上、争う意味そのものが、ふっと薄れたのだ。
その重みを彼女自身は、「楽しみ」と言葉にする。
「……君には敵わないな」
アレイシスは眩しそうに目を細め、ふっとひと呼吸を呑み込んだ。
「僕は、祭壇の下で見守っているよ」
「はい。行ってまいりますね」
†
祭壇の最奥には、神話の時代から伝わる巨大な壁画が鎮座している。
描かれているのは、光をまとった「神」と、それに対峙するように鎌首をもたげる巨大な「龍」。神話の片鱗。
そして、その手前——祭壇の中央に、それはあった。
大人の背丈を超える、巨大なクリスタル。
世界最高純度の超巨大魔石。世界全域を覆う結界の、「維持装置」である。
シルフィーは魔石の前に立ち、冷たく硬質な表面に手を当てた。
1年の稼働で、内側はすっかり空になっている。
(さあ、お腹いっぱい食べてね)
深く息を吸い、両手を天へ掲げる。
通常の聖女や神官なら、ここで長い詠唱を行い、天使を経由して魔力を申請する。だがシルフィーに、そのプロセスはいらない。
彼女の魂は、生まれた瞬間から、もう女神と繋がっている。
——固有権能《神脈直結》。
カッ!!
体から、目も眩むような黄金の光柱が立ち上がった。
それは結界のドームを突き抜け、天へまっすぐ伸びる。同時に、彼女の細い腕を伝って、奔流のような《神聖魔力》が、目の前の魔石へと注ぎ込まれていく。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
巨大な魔石が震え、内側から眩い光を吐き始めた。
個人の許容量を遥かに超えるエネルギーの移動。本来であれば肉体が消し飛んでもおかしくない熱量だ。シルフィーの華奢な腕の中で、魔力回路が悲鳴を上げる。血管が焼き切れそうな、引き裂くような痛み。
それでも、彼女は止まらない。
(まだ。まだ足りない)
1年分? いいえ、もっと。
何かあっても大丈夫なように、1年半。……ううん、2年分くらいは入れておきましょう。
そうすれば、皆さんが、もっと安心して眠れるから。
「ん、っ……くぅ……ッ!!」
限界を超え、彼女の「器」が、軋む音を立てる。
それでも、シルフィーは微笑んでいた。
自分の痛みと引き換えに、世界が穏やかになるなら、——そんなにいい取引はない。
——充填率、120%突破。
キィィィィン!!
魔石が限界光量に達し、その輝きをひと息に空へと解き放つ。
光は地平線の彼方まで、波紋のように広がっていく。山脈を越え、海を渡り、大陸の端から端まで。世界全体が、淡い金色の粒に、ふっと包まれた。
私の愛が、世界を包んでいる。
私が願うだけで、病める者は癒え、争いは消え、ぜんぶが穏やかになる。
この空こそが、私の愛のかたち。
(完璧。今年も、皆さんは平和でいられる——)
†
結界が一度完全にリセットされ、再構築されるまでの、ほんの一瞬の隙間。
世界の殻が、コンマ数秒だけ、薄く開く。
その隙間に。
ズン、と。
北の空——人間界との境界を越えた、遥か彼方。
「魔界」の深淵から、重く澱んだ「視線」が、空気を伝って届いた。
(……魔王ゼルフェリス)
魔界の頂点に君臨する、人類最後の敵対者。
その気になれば、彼はいつでもこちらへ来られる。
ただ、自分の結界がそれを許さない。
毎年、結界が更新されるこの一瞬だけ、彼は決まってこちらを覗き込む。
「其処へ行く隙を、狙っているぞ」。
そう告げるような、底知れぬ漆黒の圧。
それは毎年の恒例行事のようなものだった。
——けれど、今年は少しだけ、違った。
チリッ。
重圧の中に、針で刺したような鋭い痛みが、ひと粒だけ混じっていた。
ほんのわずかな、肌をかすめる、焼け焦げの感覚。
(……ッ?)
シルフィーの肩が、わずかに引き締まる。
今のは、なんだろう。
気のせい? ——いいえ、世界を預かる身として、見過ごすわけにはいかない。
祈りの手をそのままに、彼女は意識を世界全域へ広げた。
北大陸、異常なし。中央大陸、魔力密度正常。南諸島、不純物の侵入反応ゼロ。東方、西方、ともにオールグリーン。
無数の項目が、頭の中を、瞬きのうちに走り抜ける。
すべてが、完璧だった。
結界には邪気の通る隙間もなく、あの不快な視線も、再構築された光の盾によって、もう、内側からは届かない。
(……気のせいではないでしょうけれど、実害は、ありません)
シルフィーは静かに結論づけた。
おそらく、魔王側の出力が、ほんのわずかに上がった程度のこと。
けれど、自分の結界強度はそれ以上に増している。どんなに睨まれたって、この守りは揺らがない。
念入りに、もう一度世界の外殻を撫でるように魔力を循環させ、綻びひとつないことを確かめてから、ゆっくりと目を開ける。
「……うん。完璧、です」
最後の光が空へ溶け、儀式は滞りなく終わった。
眼下からは、地鳴りのような歓声と拍手が押し寄せている。
その声を、遠くに聞きながら——シルフィーの視界が、ぐらりと回った。
「あ……」
全身の力が、嘘のように抜けていく。
過剰充填の反動。自分の運用魔力を超えて絞り出した分が、いま、ひと息に押し寄せてきたのだ。
膝が崩れ、冷たい石畳へ倒れ込む。
ガシッ。
「——シルフィー!」
衝撃は、訪れなかった。
祭壇の下で見守っていたアレイシスが、いつのまにか駆け上がり、間一髪で彼女を抱き止めていた。
「アレイシス、様……」
「無茶をしすぎだ! 顔色が真っ白じゃないか!」
その腕の中で、シルフィーは力の入らない体を預け、へにゃりと笑う。
「ごめんなさい……。でも、たっぷり入れましたから……これで、今年も大丈夫……」
「君って人は——!」
アレイシスは言葉を呑み、痛ましそうに、けれど愛おしそうに、彼女を強く抱きしめた。
「お疲れさま、シルフィー。……見事だったよ。今年も世界は、君に救われた。少し、眠るといい」
「はい……」
安心が、温かい闇のように、シルフィーの意識を撫でる。
頭上では、メンテナンスを終えたばかりの結界が、午後の陽を弾いて、ダイヤモンドのように透き通って光っていた。
「さあ、戻ろう。今夜は、君の労をねぎらう晩餐会だ。父上も、ヴァルガさんやレグルスも、楽しみにしている」
アレイシスは眠りに落ちかけたシルフィーを、宝物のように抱き上げ、祭壇を後にする。
愛する人たちがいて、温かい食事が待っている。
シルフィーの眠る頬を、ふっと夕陽が撫でた。
その寝顔が、ほんの一瞬、何かに耐える子どもの顔に見えて。
アレイシスが瞬きをしたあとには——もう、いつもの、満ち足りた聖女の寝顔だった。




