第4話 空っぽの青空と、ピースケイション
王城の西区画にある騎士団演習場。
本来であればそこは、鋼の打ち合う音と、若い騎士の掛け声が一日中響いている場所のはずだった。
——だが、シルフィーとアレイシスが扉を抜けた瞬間、出迎えたのは、煮詰まった昼酒の匂いだけだった。
「……あークソ。不味い。今日の酒は水みてぇに薄く感じるぜ」
演習場の隅に置かれたベンチ。
そこへ巨体を投げ出すように預け、太い指で酒瓶を傾けている男がいる。
レグルス・バーン。シルフィー専属の護衛にして、ルーヴェル帝国騎士団長。元はアルヴァレイン王聖騎士団の長を務めた、大陸最強の名を持つ男だ。
その名声から人は剣聖を想像する。けれど、いま酒瓶の口を舐めている男から立ち上るのは、ただの無精と、ぬるい疲労の匂いだった。覇気のない目は、午後の日差しさえ眩しがって、半分閉じている。
「なぁレグルス。さっきから欠伸ばっかしてないでさァ、私と遊ぼうよ♪ アンタのその太い腕で、私の首をへし折る妄想させてくれよ♪」
その傍らで、もう一人の女が顔を覗き込んでいた。
帝国騎士団副団長、ヴァルガ・グリムフェン。
グレージュの髪を無造作にかき上げ、軽装の鎧を着崩している。鮮血を流し込んだような赤い瞳は、いまにも踊り出しそうに揺れていた。
「失せろ、痴女。暑苦しいんだよ」
「つれないねぇ。せっかく私が最強の遺伝子をもらってやろうって言ってんのに」
レグルスが鬱陶しそうに顔を背けると、ヴァルガはケラケラと笑い、それから入り口の気配にぐるりと首を回した。
「お? なんだ、聖女ちゃんとアレイシスじゃん。敵襲かと思ったのにガッカリさせんなよ」
「久しぶりだな、ヴァルガさん。相変わらずでなによりだ」
アレイシスは呆れたように肩をすくめる。かつて剣を教わった師の一人にしては、その態度は対等、あるいはそれ以上にフランクだ。ヴァルガは赤い瞳をぐるりと回して、ベンチの背もたれから半身を起こした。
「ったく、皇子相手にそういう敬語やめろってさんざん言ってんだろ。……で? 今日は何の用だい?」
シルフィーがニコニコと前に出て、布をかぶせたバスケットを差し出した。
「差し入れを持ってきました。公務の息抜きにどうぞ」
甘く香ばしい匂いが立ち上ると、レグルスがのっそりと上半身を起こす。
「へえ、嬢ちゃんの手作りか。酒のツマミに甘味ってのも悪くねえ」
レグルスが遠慮なくクッキーを口に放る横で、ヴァルガも一つ、長い爪先でつまみ上げた。
だが彼女はすぐに口へ運ばず、犬のように鼻を寄せ、露骨に顔をしかめる。
「……ッ、オエ。なんだこれ、甘ったるくて脳が腐りそうだわ」
「お口に合いませんでしたか?」
シルフィーが小首をかしげる。
「バターの匂いなんて嗅ぎ飽きてんだよ。私が欲しいのは、もっとこう……鉄錆の匂いなんだよなぁ」
ヴァルガは投げ上げたクッキーを口でキャッチし、乱暴に噛み砕いた。それから飢えた獣の目で、隣のレグルスを見る。
「おいレグルスぅ。腹ごなしに少し付き合えよ♪ 体が鈍って、禁断症状が出そうだ」
「あぁ……? めんどくせぇ。若手の相手でもしてろよ」
ヴァルガが舌なめずりをした。
「あいつらの剣じゃイケねぇんだよ。……ほら、立てよ種馬」
爪先がレグルスの股間を蹴り上げるフリをする。レグルスは盛大な溜息をひとつ吐き、億劫そうに立ち上がった。
「へいへい。嬢ちゃんたちの手前だ、軽く撫でてやるよ」
†
二人が演習場の中央へ進む。
レグルスが大剣を、ヴァルガが鉤爪を手に嵌めた。
「じゃ遠慮なく♪」
ヴァルガが踏み込む。
常人なら目で追うことすら叶わない、鋭い刺突。狙ったのはレグルスの眼球だ。
カィンッ!
乾いた音が響き、鉤爪が弾かれる。
レグルスは大剣を、片手で軽く振っただけ。ハエでも払うような動作で。
「遅ぇよ」
「アハッ、まだ挨拶だろ!」
ヴァルガが笑い、猛攻に転じる。
斬撃の嵐。だがレグルスはその場から一歩も動かず、欠伸を噛み殺しながら、最小限の動きで全てを捌いていく。
「……ッ、チッ! つまんねぇな! 本気出せよレグルス!」
レグルスが気だるげに肩を回す。
「めんどくせぇって言ってんだろ」
ヴァルガが爪の背を鳴らした。
「殺す気で来ねぇと、アンタの酒代、上に申請してやんねーぞ!」
レグルスの眉が、初めてぴくりと動く。
「ああ!? ……はぁ、わーったよ」
ヴァルガの殺気が、ふくれ上がる。
——その瞬間。
レグルスの瞳から、けだるげな色が、すっと消えた。
ギラリと、捕食者の光だけが残る。
「——そうかよ」
ドクン、と。
見学していたシルフィーとアレイシスの肌が、いっせいに粟立った。
レグルスはまだ、剣を振っていない。構えただけだ。けれど、その一歩先に立つ「死」の輪郭が、空気のひと膜だけ薄れた——そんな感覚があった。
「——っ、あ……♡」
ヴァルガの動きが、ピタリと止まる。
レグルスの剣はまだ届いていない。届く前の、空間そのものが、彼女の肉の輪郭を「次に潰れる形」に書き換えただけだった。
「ッ、ひグ……ぅ、あ゛ぁッ……!!♡」
ガシャァン!
鉤爪が手から滑り落ち、ヴァルガがその場で膝を震わせて崩れ落ちた。
恐怖ではない。
次の一手で自分が確実に肉塊に変えられる、その「死の確定」。それを脳が受信した瞬間、脳髄が焼き切れるような恍惚に襲われ、体が動けなくなったのだ。
「はァ、はァッ……! すっげ……最高……ッ!」
地面に這いつくばり、涎の糸を引きながら震えるヴァルガ。
その姿は、もはや騎士団副団長というよりも、ただ快楽に溺れた一人の異常者だった。
「……チッ。これだから変態は」
レグルスはふっと殺気を霧散させ、剣を納める。
途端、演習場へ穏やかな空気が戻ってきた。
「ふぅ……。悪いな嬢ちゃん、あの変態が変なもん見せちまって」
「いえ……ヴァルガさん、大丈夫ですか? 腰が抜けてしまったみたいですけど」
シルフィーが心配そうにヴァルガへ駆け寄ろうとする。
「シルフィー、ヴァルガは大丈夫だから近寄らないでやってくれ」
アレイシスがすかさず、その肩を押さえた。
(ヴァルガさん、あんなに顔を赤くして……お稽古が、厳しすぎたのかしら)
シルフィーは、ぎゅっと眉を寄せてヴァルガを見つめる。
レグルスはまだ震えているヴァルガを見下ろし、やれやれと肩をすくめる。それから、ぽつりとアレイシスへ漏らした。
「アレイシス殿下。……平和ってのは、退屈ですねぇ」
「退屈、か」
アレイシスの相槌は短い。
「ええ。俺たちはもう、錆びついてる。——いざ柵が壊れて狼が来た時、まともに動けるのは、俺たちみてぇなイカれた連中だけかもしれねえ」
アレイシスはハッと何かを言いかけ、ふっと呑み込んだ。
そして、シルフィーは——。
「もう、レグルスったら心配性ですね」
困ったように眉を下げ、けれどどこまでも慈愛のこもった声で、笑った。
「狼なんて来させませんよ。私がいますもの。レグルスやヴァルガさんが、傷ついたり血を流したりしなくていい世界……それが、私の望む『最高の世界』なんですから」
微笑んだまま、シルフィーは自分の胸に手を当てた。そこに背負っているものの重さには、一度も触れないままで。
レグルスは一瞬だけ複雑に苦笑し、けれどすぐに、いつもの気だるげな表情へ戻った。
そのまま、ワシワシとシルフィーの頭を撫でる。
「……違いねえ。嬢ちゃんがいりゃあ、俺たちはただの穀潰しだ」
「痛いです、レグルスっ!」
レグルスが豪快に笑う。
「ははは! ほら、クッキーの礼だ。来週の『儀式』も頑張れよ」
その言葉に、アレイシスが頷く。
「そうだな。来週は年に一度の《大結界メンテナンス儀式》だ。シルフィー、君の力が、最も必要になる」
「はい! 任せてください。この国の平和を、私が絶対に更新してみせますから」
胸を張り、力強く宣言して、シルフィーは帰っていった。
†
レグルスと、ようやく息を整えたヴァルガが、去っていく二人の背を見送る。
「……ふぅ。生殺しだねぇ」
ヴァルガがまだ熱の残る瞳で、自らの体を抱きしめながら呟いた。
レグルスは空になった酒瓶を、ぽい、と無造作に放り投げる。乾いた音が、誰もいなくなった演習場の壁に当たって、ぱしんと跳ねた。
「まったくだ。……平和すぎて、反吐が出るぜ」
最強の二人は、ただ空っぽの青空を見上げていた。




