第3話 教科書の魔王と、グリモドゥーム
王立学園・中等部の校舎は、静謐な熱気に包まれていた。
廊下ですれ違う生徒たちの背は、まだ自分のものになっていない制服に、少し急いで追いついている。シルフィーが入学した頃と同じ匂いだ。新品の革ベルトと、図書館から染み出してくる古い紙の匂い、それから、朝の魔石暖房がうっすら混ぜる、白檀のような香り。
ふと、廊下の角でひとりの少女が足を止め、目を丸くした。
シルフィーと並んで歩くアレイシスを見たからだ。隣の少年が遅れて気づき、ノートを胸元に押し込む。
「……皇子殿下、だよね?」
「絵姿で見たより、ずっと痩せてらっしゃる」
「シルフィー様もだ。本当にいらっしゃる……」
囁きが小波のように広がる。
歓声でも、悲鳴でもない。年頃の子供が、ふいに自分の手の届かない場所のものに触れた時の、ためらいに近い声だった。
シルフィーはその小波をひとつずつ受け止めて、ふっと目を細める。
「……皆さん、立派ですね。私があなたたちと同じ歳の頃よりずっと、しっかりしているみたい」
「ここは、難関をくぐり抜けた英才ばかりだからね」
アレイシスが穏やかに返す。
「だが、君が微笑むだけで、彼らの肩がすっと落ちるね。見てごらん」
促されて視線を戻すと、たしかに何人かが、強張っていた頬を、自分の意思とは関係なくほどいていた。シルフィーの目元の優しさに、ふっと釣られた、というふうに。
その反応に、心の中の何かが、ことりと安定する。
(よかった。今日も、皆さんが微笑んでくださる)
向かう先は、中等部の歴史学講義室。
†
教室の後方の見学席に、2人は静かに腰を下ろした。
教壇の初老の教授は二人へ深々と一礼してから、流れるような手つきで黒板に文字を書きつける。
『人類の敵対者・魔族の生態と脅威』
「——では、講義を続けよう。諸君も知っての通り、我々人類と対立する『魔族』には、明確な階級が存在する」
落ち着いた声が教室にしっとりと敷かれていく。生徒たちは私語ひとつ挟まず、ペン先を紙の上で待たせていた。
「まず、我々の常識が通じるのは、『魔獣』までだ。獣の格であれば、数を揃え、練度で押せば、騎士団の領分で仕留められる。だが、その一段上には、決して越えられぬ壁がある」
指示棒が、階級図の中ほどを、こつ、と叩いた。
「『魔人』。ここから先は、"数"では届かない領域だ」
生徒たちのペン先が、わずかに止まった。
「最下層の『下位魔人』ですら、そうだ。理性はなく、獰猛さは獣以上。正規の騎士を小隊で並べたところで、まともにやり合えば消耗戦になる。何人も欠けて、ようやく一体を抑え込む。安定して仕留めるなら、騎士団長級の、たった一人の傑物が要る」
教授が、指示棒を一段、上へ滑らせた。
「次に、言葉を解し、魔法を操る『中位魔人』。知性を持ち、格下の魔物すら統率してみせる。ここまで来ると、並の騎士団は的でしかない。総騎士団長級か、さもなくば騎士団長級の実力者を、複数」
そして、教授の声が、ふたつ低くなった。
「さらにその上——単体で、一個師団に匹敵する『上位魔人』」
教室の空気が、ぴり、と引き締まる。
「こうなると、騎士団長級が束になろうと、削り取られて終わりだ。討伐には、世界に数えるほどしかいない英傑——『最強の剣』レグルス様のような、たった一人の規格外を、現場へ送り込むほかない」
ペン先が止まる。誰かが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
上位魔人。
本来であれば、遭遇した時点で死を覚悟すべき相手だ。一体が現れただけで、ひとつの街が地図から消える。組織で挑んでも、半数の戦死を前提に作戦を組む。そういう領域だ。
そして、その更に頂点には——神話級の怪物。
黒板に、教授の指が、ゆっくりと禍々しい字を刻んだ。
『魔王ゼルフェリス』
「魔王ゼルフェリス。歴史上、最も強大で、最も狡猾な魔王として記録されている。過去のいかなる魔王とも、次元が違う」
教授の声は、もう囁きに近い。
「——かつてある国は、彼の影が国境を越えたという噂だけで首都を放棄した」
「——またある国は、彼の名を口にした者を、一夜にして失った」
「一度動き出せば、大陸の地図が書き換わる。それが、魔王ゼルフェリスという存在の歴史的評価だ」
シルフィーは無意識に膝の上で手を握りしめていた。
結界の向こう側に、たしかに、その怪物は存在している。
名前を黒板に書くだけで、教室の温度が2度ほど落ちる、そういう質量を持って。
——けれど、生徒たちの背骨は、まだ恐怖でしならない。
最前列の少年がぴんと手を挙げた。
「教授。質問を、よろしいでしょうか」
「うむ。許可する」
教授が鷹揚に頷いた。少年は一度背筋を伸ばし、言葉を選びながら続ける。
「文献によれば、魔王ゼルフェリスの出現から、もう数年が経っています。それほど強大な力が実在するなら——なぜ、王都は、一度も侵攻を受けていないのでしょうか」
純粋な疑問だった。怯えでも、皮肉でもない。机の上のスペック表に、ひとつ整合のとれない欄を見つけてしまった、という子供らしい鋭さ。
「上位魔人ですら、騎士団が全滅しかねない、と教わりました。なら魔王は、私たちには到底抗えないはずです。それなのに、物理的な侵攻はおろか、精神干渉や瘴気の影響さえ、観測されていないのは……どうしてですか」
教室がほっと小さく緩んだ。彼ら全員が、同じ疑問を抱えていたのだろう。
彼らにとって魔王は、教科書の中の「数値」だ。皮膚で感じる脅威ではない。
教授は眼鏡の位置を直し、穏やかに、誇らしげに答えた。
「鋭い指摘だ。だが、答えは単純だよ」
ひと呼吸を置き、後方の見学席へ視線を流す。
「——我々には『最強の聖女』シルフィー様が、いらっしゃるからだ」
教室の頭が、いっせいに振り返った。
ぱっと向けられた何十対の瞳。その奥には、揃って、ひとつの光があった。憧憬と、信頼と、——疑いを知らない安心。
「彼女の展開する《聖女の大結界》は、上位魔人どころか、魔王の力さえ遮断する盾だ。外の世界がどれほど地獄でも、この結界がある限り、世界は揺り籠のように、安全なのだよ」
「揺り籠」という言葉に、生徒たちは深く頷いた。
それは「だから怖くないのだ」という、揺るぎない確信の頷きだった。
†
隣で、アレイシスがゆっくりと指を組み直した。
黒板に書かれた「魔王ゼルフェリス」の文字を、ただ静かに見ている。整いすぎたその横顔は、何の感情も浮かべていない。
ただ、その親指が、組まれた指の上を、ほんの一度だけ撫でた。
彼が考え事をしている時の、誰にも気づかれないほどの小さな癖。
(……アレイシス様?)
シルフィーの胸に、何かが、つる、と這った。
けれど、その違和感はすぐに、別の温かさで上書きされる。
彼らが魔王を恐れていない。
それは、自分の結界が完璧に機能している、何よりの証明だ。
未来を担うこの子たちに、恐怖なんていらない。眠れない夜なんて、知らなくていい。
その平穏のためなら、自分はいくらでも祈り続けられる。
それが、自分の役目で、自分の誇りだ。
シルフィーは生徒たちへ、慈愛のこもった笑顔を返した。
その笑顔を見た子供たちが、また一段、肩の力をほどいていく。
この穏やかな循環こそが、シルフィーにとっての「平和」だった。
「……君は、本当に優しいね」
アレイシスがほんの少し遅れて、そう呟いた。
シルフィーは小首を傾げる。
「そうですか? 私はただ、この子たちの笑顔が嬉しいだけですよ」
嘘も飾りもない、本心。
アレイシスはそれ以上を口にしなかった。
言いかけた何かを、自分で呑み込んだようだった。この場所で、子供たちの安心を裏返すような言葉を、今の彼が口にすることは、できなかった。
けれどシルフィーはその沈黙を「言葉以上の優しさ」として、ふっと胸に納める。
民を恐れさせまいと心を砕く婚約者。2人の愛は、たぶん、こういう形で並ぶのだろう、と。
†
チャイムが鳴った。
名残惜しそうに頭を下げる生徒たちに見送られ、2人は静かに教室を後にする。
廊下を歩きながら、アレイシスが切り出した。
「さて、次はどうしようか。このまま昼食でも——」
「あっ! いけません、忘れていました!」
シルフィーは慌てて口元を押さえる。あまりに楽しくて、大事な用事を頭の外へ追い出していた。
「どうしたんだい?」
きょとんと足を止めたアレイシスに、シルフィーは胸の前で両手を合わせた。
「差し入れです、差し入れ! 昨夜、騎士団の皆様のためにクッキーを焼いたんです。アレイシス様とのデートが楽しみすぎて、馬車に置いたままでした!」
「手作りクッキー? ——それは、我が国の騎士たちが羨ましいな」
苦笑しながらも、その目はやわらかい。
「演習場へ参りましょう、アレイシス様。きっと今頃、レグルスやヴァルガさんが休憩に入っている頃ですわ」
アレイシスが目元をやわらげる。
「はは、確かに。あの2人が揃っているなら、演習場は今頃、良い意味で熱気に包まれているだろうね」
「ふふ、そうですね。レグルスったら、昔から鍛錬になると、周りが見えなくなりますから」
シルフィーは懐かしそうに目を細めた。
レグルス。元々ルーヴェル帝国の同盟国で王聖騎士団長を務めていた男。今はルーヴェル帝国の騎士団長の要職にある男だが、シルフィーにとっては、幼い頃から側近くで守ってくれた、兄のような——あるいは親のような——存在だ。彼と、彼を支える副団長のヴァルガ。この国の最強の騎士たちが、いま、扉ひとつ向こうで剣を振っている。
「急ぎましょう。焼きたてとはいきませんが、心は、ちゃんと込めましたから」
弾むような足取りで、シルフィーがアレイシスの腕を引く。
窓の外で、今日も虹色の結界が薄く呼吸をしている。
——歩き出す途中で、アレイシスはふと、足を半歩だけ遅らせた。
廊下の窓ガラス越しに、もう一度、さきほどの教室を振り返る。
黒板の文字が、まだ消されずに残っていた。
『魔王ゼルフェリス』
その上に、午後の光が斜めに差し込み、白いチョーク粉を、ほんの少しだけ宙に浮かせている。
「アレイシス様? どうかしましたか?」
シルフィーが半歩先で振り向いた。
「いや。——君のクッキーが、たまらなく楽しみになっただけだよ」
シルフィーは嬉しそうに笑った。
アレイシスも口元だけで、笑い返す。




