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第2話 白薔薇の紅茶と、プリンセア

挿絵(By みてみん)

王城の奥庭に、ガラスの温室がある。


外壁を覆う鉄細工は蔓を模して組まれ、その隙間をはい上がる白薔薇の蕾が、朝の光に金色の縁取りを与えていた。床は乳白色の大理石。中央のテーブルに白磁のティーセットが整えられ、湯気の細い柱が二筋、ゆっくりと天井へ昇っている。


「シルフィー。今日の紅茶は、東方の『白薔薇(ホワイトローズ)』を取り寄せてみたんだ。君の口に合うといいのだけれど」


ポットを傾ける指は長く、けれど無駄がない。


差し出されたカップを受け取りながら、シルフィーは目の前の青年を見上げた。アレイシス・ルーヴェルト。ルーヴェル帝国第1皇子、25歳。シルフィーより5つ上のこの婚約者は、剣を振るう武人でもありながら、所作のどこにも力みがない。

金の前髪が一筋、長い睫毛にかかっている。気になっているのか、彼はそれを払う代わりに、わずかに頭を傾けて視界を保った。そういう小さな仕草に、彼の品の良さが宿っている。


紅茶を口に運ぶ。

舌の先で、白薔薇の薄い甘さがほどけ、そのあとに上等な茶葉だけが残す芯の渋みが立った。


「……とても上品な香り。心が洗われるようですわ、アレイシス様」


「それはよかった。君はいつも頑張りすぎているからね。少しでも、癒やしになればと」


頷きながら、アレイシスは小菓子の皿をシルフィーの側へ寄せる。視線がカップに落ち、また上がり、彼女の顔の前で短く止まった。

何かを言いかけて、呑み込んだ。


「癒やし、ですか? ふふ、アレイシス様ったら」


シルフィーは小首を傾げる。


「私は毎日、世界から愛を受け取っていますから。疲れなんて、ありませんよ」


アレイシスがカップを置く。磁器が乳白の盤面に触れて、こん、と小さく鳴った。


「……シルフィー。君がそう言うのは、知っているんだ」


彼の視線が、温室の硝子越しに空へ流れる。

そこには今日も、王都を覆う《聖女の大結界》が薄く呼吸をしていた。虹色がゆっくりと混ざり合い、北からの瘴気をひと欠片も内側へ通さない。


「君も知っての通り、僕や宮廷魔術師団が扱うのは《精源(セイゲン)》だ」


口調がやわらかい。説明というより、寝物語に近い節がある。


「精霊たちが無意識に放っている魔素を、自分の魔力で共鳴させて現象にする。便利だけれど、その過程で僕らの『自我』が必ず混じる。だから魔術師団の団長クラスでも、結界魔法を維持できるのはせいぜい三日が限界だ。魔力ではなく、精神のほうが先に削れていくからね」


シルフィーは、こくりと頷いた。学院の授業で習った話だ。けれど彼の口から聞くと、知識ではなく、言外に滲む心配の温度のほうが先に届く。


「でも、君は違う」


アレイシスはテーブルに置かれていたシルフィーの手を、両手でそっと包んだ。


「君が流しているのは、女神から降ってくる純度100%の《神聖魔力(ホーリー)》。精霊も大気も通さない、源そのものだ。——力は無限なのかもしれない。だけど、それを通すパイプは、生身の人間なんだよ」


彼の親指が、ほんの少しだけシルフィーの手の甲を撫でた。

労りの所作。けれどその親指の先が、わずかに震えている。


「君のスケジュールを見たんだ。結界管理に加えて、朝の浄化、日中の治療、夜の祈り。——僕らが同じことをしたら、半日で人ではなくなる」


懇願に近い声で、彼は続けた。


「結界を魔術師団のローテーションに切り替えよう。君は、休んでいい。普通の女の子として笑う時間が、君にも必要なんだよ」


そっと差し出された言葉だった。

甘く、誠実で、隅々まで考え抜かれている。

聞いた者の心が、自然に解けていくような言葉だった。これは決して、思いつきの提案ではない。


——けれど。


シルフィーは、ぱちりと目を瞬かせた。

わからない、という顔だった。魚に「どうして陸で暮らさないの?」と問うた時のような、根本的な認識のズレが、彼女の黄金の瞳の奥に静かに浮かんでいる。


「魔術師団の方々が使うのは《精源》ですよね? 先ほどアレイシス様がおっしゃった通り、不純物が混じります」


声は穏やか。歌うようでさえある。


「宮廷でいちばん良い魔水晶を媒介に、団長クラスの方々を集めて編まれた結界。……それでも、私の魔力純度の3割程度にしか届きません。媒介の純度、お一人お一人の伝導率、皆さんで合わせる時の摩耗。ぜんぶ掛け合わせると、そうなります」


紅茶の湯気の上を、数字が、静かに渡っていった。


「抜けてしまう7割は、北からの瘴気と、その奥にある神瘴」


語尾は柔らかい。けれどその下では、ひとつの取りこぼしもない計算が、静かに積み上がっていく。


「健康な大人の方々なら、たぶん、ほとんどは大丈夫」


シルフィーは紅茶の水面に視線を落とした。


「でも、抵抗力の弱い乳幼児や、ご年配の方や、神性に近い体質を持って生まれた方々——王都の人口のおよそ2割の方々、さらにその中のおよそ5人に1人が、1年のうちに重い病で寝込みます。そのうちの何人かは、戻ってきません」


シルフィーはアレイシスの手を握り返した。優しく、子供を諭すように。


「私が休めば、誰かが傷つきます。私が祈るだけで、その確率は0になる。……だったら、私が休む理由なんて、どこにもないではありませんか」


にっこりと、彼女は微笑む。

聖画に描かれる女神そのままの、一片の曇りもない笑み。

ただ、その黄金の瞳には、自分自身の重みがひとつも乗っていなかった。


——5人に1人。帝都全体で言えば0.1%未満の数字だ。


その確率に、シルフィー自身の疲労も、欲望も、息継ぎも、勘定されていない。

彼女が「私」を計算式に入れることを忘れているのではない。最初から、入れていないのだ。


アレイシスは、短く息を呑んだ。

返そうとした言葉が、喉のあたりで、形を結ぶ前にほどけていく。


「……そうか。君が、そう言うなら」


ようやく彼が選んだのは、それだけだった。

返事の代わりに、もう一度、彼女の手を強く握り直す。指の節が白くなった。

彼の親指の震えは、もうシルフィーの手の甲には伝わらない。アレイシスがそうしないように、止めたからだ。


「あ、そうですわ、アレイシス様」


沈黙を払うように、シルフィーが弾んだ声を上げた。


「この後の予定なのですが……王立学園への訪問でしたよね?」


「うん。僕らの母校でもある。生徒たちも、伝説の卒業生である君の来訪を心待ちにしているはずだよ」


「懐かしいです。あの図書館の匂いや、チャイムの音……。特に今日は、歴史学の講義を見学すると伺っています」


「あぁ。確か今日のテーマは、『魔王と魔族の生態』だったかな」


「魔王と、魔族……」


シルフィーは言葉を反芻し、紅茶の水面に視線を落とした。

学生時代に学んだ知識ではある。けれど聖女として結界を維持する今だからこそ、もう一度確かめたかった。次世代の子供たちが、何を「脅威」と教わって育つのか。それは、10年先の結界の形と、無関係ではない。


「私たちが学生だった頃と比べて、今の子供たちが『脅威』をどう教わっているのか。それを知ることは、今後の結界維持の参考にもなると思うのです」


「君は本当に勉強熱心だね」


アレイシスは眩しそうに目を細め、それから少しだけ悪戯っぽく口角を上げた。


「でも、たまには肩の力を抜いて。——あの広大な学園で、僕たちが同じ時間を過ごしたのは、たったの一年だ。覚えているかい?」


「ええ、もちろんです。私が入学した時、アレイシス様はもう最高学年の六年生でしたもの」


王立学園は13歳から18歳までの6年制。敷地は街ひとつが入るほどに広く、13〜15歳の「中等部」と16〜18歳の「高等部」は、深い森を挟んで遠く離れている。


「あの頃、僕は生徒会と卒業試験、それに公務に追われて高等部に缶詰めだった。中等部の校舎にいる君に会いに行くことさえできなかったよ」


アレイシスは遠い日を撫でるように、ふわりと笑った。


「同じ学園、同じ空の下にいたはずなのに。——ずっと、心残りだったんだ」


「ふふ、アレイシス様ったら。でも、だからこそ今こうして隣にいられることが、より特別に感じられますわ」


「あぁ、そうだね。だから今日は、あの頃叶わなかった『同級生のデート』をさせてほしいんだ」


立ち上がり、エスコートの手を差し出す。


「では、行こうか。——特等席へ案内するよ、僕の聖女様」


シルフィーはその手を取り、優雅に立ち上がった。


光の溢れる温室から、二人の影が並んで歩き出す。


握り合った指の温度は、たしかに同じだった。

ただ——その手の中で、アレイシスの薬指の腹に、ほんの小さく、爪を立てかけた跡が残っている。先ほど自分が握りすぎて、つけたものだ。

それを誤魔化すように、彼はもう一度、穏やかに微笑んだ。

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― 新着の感想 ―
アレイシスイケメンすぎる! シルフィーが可愛すぎ!
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