第1話 平等な愛と、ルミディア
この世界には、たった一人だけ、神に届く少女がいる。
シルフィー・エリオス・ルーメリア。歴代最強と謳われる聖女。彼女が両手を組んで祈るだけで、王都の空には七色の結界が張られ、魔獣も魔人も魔王も、その内側へは指一本届かない。
その朝も、彼女はいつものように目を覚ました。天蓋の白い天井。小鳥の声。結界に磨かれた空気の、ほのかな清涼。
枕の隣で長い白銀の髪をひと房ほどき、素足を絨毯に下ろす。床下に張られた魔石の温もりが、足の裏を押し戻してきた。
大窓へ歩み寄り、カーテンを引く。眼下の王都は、もう動きはじめていた。荷車が石畳を鳴らし、パン屋の煙突が湯気を細く吐き、神殿の鐘がひとつ。その上に、七色の天蓋——《聖女の大結界》が、薄く光っている。
胸の前で、手を組んだ。
「……おはようございます、世界」
結界に、綻びはない。シルフィーはしばらく、そのままそこに立っていた。
†
控えめなノックが響いたのは、白銀の髪がひと房、整い終わった頃だった。
「失礼いたします、聖女様」
先に入ってきたのは年嵩のマリア。その後ろで、15歳のアンナが湯気の立つタライを抱え、少し息を切らしている。
「おはようございます、マリア。アンナ、走ってきたのですか?」
「い、いえ! お湯が冷めるといけないと思って……!」
マリアが眉を寄せる。
「アンナ。何度言わせるんですか。聖女様の前で走るなんて」
たしなめる、その手は、もうアンナのタライにそっと添えられていた。
シルフィーは、アンナの手首を見た。霜焼けの赤が、うっすら滲んでいる。
「今日は、ぬるめがいいわ」
「え、あ……はい!」
アンナの手が、一瞬止まった。マリアが、その横顔を見る。
「アンナ、いつもありがとう」
「マリアも、いつもありがとう」
櫛が、白銀の髪を、ひと房ずつ梳いていく。二人が、そろって頭を下げた。
純白に金の刺繍を走らせた聖女服に袖を通すと、布の重みが背骨をすっと立てた。
「では、行ってまいりますね」
†
回廊を歩くと、衛兵も文官も、足を止めて頭を下げる。
若い衛兵の襟の縫い目が、ほつれている。文官のひとりは、目の下が暗い。
シルフィーは、そのどちらにも、同じ角度で会釈を返した。歩調は、変わらない。
向かう先は、王城の正面バルコニー。毎朝の「朝の祈り」の場所だ。
†
バルコニーへ出た瞬間、地響きのような歓声が、下から突き上げてきた。「聖女様だーーっ!!」「シルフィー様、おはようございます!」「今日もなんてお美しいんだ……!」
眼下は黒山の人だかり。その中に、見覚えのある顔がいくつもある。先週まで脚の腫れが引かなかった仕立屋の老人。三日前に娘の風邪を治した母親。屋根から落ちた青年は、もう自分の脚で立っている。
シルフィーは手すりへ歩み寄り、手を振った。それから、ゆっくりと両手を広げ、目を閉じる。
意識を、天のさらに上へ。女神ヴィーナスの領域へ、自身の魂を通して直結させる。
——固有権能《神脈直結》。
全身から、温かな黄金の粒子が溢れた。
「——《遍く世界に祝福を(オール・ブレス)》」
鈴を転がすような声が、結界の天蓋に当たって散る。王都の上空から、光の雨が降りそそいだ。
純度100%の、神聖魔力の結晶。粒が肌に触れると、擦り傷が、風邪が、慢性の痛みが、初期の呪いが、暮らしの隙間から溶けて消えていく。
あちこちで、声が上がった。「腰の痛みが消えた!」「母さんの咳が止まった……!」「体が軽い……若返ったようだ!」
本来なら高位の司祭が数人がかりで行う大魔術を、シルフィーは毎朝、挨拶代わりに行使する。
広場の中心で、誰かが涙ながらに叫んだ。
「聖女様がいれば、医者などいらない!」
シルフィーの手が、振る途中で、一度止まった。
すぐにまた、振り続ける。
「シルフィー様万歳! 我らの守り神万歳!」
熱狂が、広場を満たしていく。
(よかった。これで皆さんは、今日も笑顔で過ごせる)
シルフィーは、満面の笑みで、もう一度手を振った。
†
部屋に戻ると、卓上には湯気の細く立つハーブティーと、本日のスケジュール表。
午前は神殿での公務。午後は孤児院への慰問。夜は結界のメンテナンス。分刻みの過密が、几帳面な字で並んでいる。
その一行で、目が止まった。
『第一皇子 アレイシス・ルーヴェルト様 来訪(昼食会)』
「アレイシス様……。ふふ、今日もお会いできるなんて」
ルーヴェル帝国の第一皇子であり、シルフィーの婚約者。
その顔を、思い浮かべてみる。優しい目元。誠実な声。……そこまでは、すぐに描けた。
けれどその面影は、さっきバルコニーから見下ろした無数の顔と、同じ場所に、同じ温度で、並んでいた。彼だけを、そこから掬い上げようとして、指がすべる。
シルフィーは、小首をかしげた。
ハーブの香りが、ゆっくりと立ちのぼる。
「……早くお会いしたいな。今朝の王都の輝きも、お伝えしなくちゃ」
立ち上がり、鏡の前で髪を整える。窓の外では、今日も虹色の結界が揺れている。
軽やかな足取りで、扉へ手が伸びた。その指先が、半拍、宙で止まる。
理由は、わからない。
確かめる前に、扉が開いた。差し込んだ朝が、白銀の髪をひと房ずつ、淡く染めていった。




