第9話 指環と花火と、アンサードコール
喧騒から切り取られたような静けさが、そこにはあった。
大広間の重厚な扉を抜けた先。王城のバルコニーには、夜風が真っ直ぐに通り抜けている。
シルフィーは石の手すりに細い体を預け、火照った頬を、ふっと夜気に晒した。
「ふぅ……。涼しいですね、アレイシス様」
「あぁ。少し、踊り疲れさせてしまったかな」
並んだアレイシスが、心配そうに横顔を覗く。シルフィーは小さく首を振り、ふわりと笑った。
「いいえ。貴方と踊っている時間は、本当に、心地よかったですから」
それは偽りのない本心。
アレイシスといる時の安らぎ。陽だまりの中にいるような、絶対の落ち着き。
世界中が自分に寄りかかってきても、自分だけは、彼に寄りかかれる。それは、何ものにも代えがたい、信頼の温度だった。
眼下に、祭りの熱気を抱いた王都の灯りが、ひとつ続きに広がっている。
地上に、もう一枚、星空がある。
「……綺麗だね」
「はい。みんなが笑っているのが、ここからでも、分かります」
「あぁ。君が守り抜いてきた、景色だ」
アレイシスの声色は、どこまでもやわらかかった。
彼は夜景から視線を外し、もう逃がさない、というふうに、まっすぐシルフィーを見つめる。
「君はこの世界のために、本当に多くのものを捧げてくれた。君のその優しさが、この平和を作ったんだ。……僕は、そんな君を、誇りに思うよ」
「アレイシス、様……」
否定ではなく、肯定。
彼は自分の全部を、認めてくれる。その温度に、シルフィーの胸の奥が、じんわりと温まった。
アレイシスが、ひと足、距離を詰める。
整った輪郭の上を、月の光がゆっくりと撫でる。その瞳には、いつもの穏やかさの奥に、揺るぎない決意の色が灯っていた。
「でもね、シルフィー。……君が世界を愛するように、君自身も、愛されていいはずだ」
「え……?」
シルフィーは、目を丸くした。
「君は、十分に尽くしてくれた。だから……もう、その重荷を、少し、降ろしていいんじゃないかな」
そう言って、アレイシスは震えるシルフィーの両手を、そっと包んだ。
熱い。
手袋越しでも分かる、彼の掌の温度。
彼は言葉をひとつひとつ、確かめるように紡いでいく。
「聖女としての君も、素晴らしいけれど。……僕は、ただの『シルフィー』という一人の女性が、笑っていてくれることが、何よりも、嬉しいんだ」
ドクン、と。
シルフィーの心臓が、ふいに大きく跳ねた。
(……あら?)
無意識に、胸元を押さえる。
おかしい。いつもなら、アレイシス様といれば、落ち着くはずなのに。
今は、彼の眼差しに縫い留められたように、体が動かなかった。
(これが、恋……? それとも、アレイシス様があまりに真剣だから、その気迫に、私が圧されているだけ?)
博愛の中でしか自分の心を見たことのないシルフィーには、自分だけに向けられるこの大きすぎる熱の、形がうまく掴めない。
ただ、これから彼が言おうとしているのが、世界の命運と同じくらい重く、大切な何かなのだと、肌が先に察してしまう。
「僕が、君の支えになりたい。君が愛するこの世界ごと、僕が守ってみせる」
ひと息を区切り、アレイシスは深く息を吸う。
そして、シルフィーの瞳を、まっすぐ射抜いた。
「だから、シルフィー。——僕の隣で——」
その先のひと言。
二人の関係を、永遠に変えるはずだった、ひと言。
それが、紡がれかけた——その瞬間。
ヒュルルルルル…………
空を切り裂く、甲高い音が、ふたりの間の静寂を破った。
シュパァァァン……ッ!
夜空に、大輪の花が咲く。
極彩色の光が爆ぜ、視界が真っ白になる。一拍の空白の後、パチパチパチ、と光の粒が降りそそぐ音が、後から追いついてくる。
ドォーン! パラララ……ッ!
次々と打ち上がる、祝福の光。赤、青、金。
閃光が、アレイシスの唇の動きを、すっかり覆い隠してしまった。
「——え?」
シルフィーは目を瞬かせ、光の残像の中で、アレイシスを見つめる。
今、彼は、何か言った?
口元は動いていた。けれど、光と音の洪水のせいで、肝心のひと言が、何も、届かなかった。
耳に残るのは、パチパチと弾ける火花の音と、地上の民衆が上げる「うわぁっ!」という遠い大歓声、それだけ。
「アレイシス様? ごめんなさい、花火の音で……今、なんと、仰いましたか?」
シルフィーは少しだけ声を張り上げ、無邪気に首を傾げた。
その瞳には、一片の曇りもない「?」が浮かんでいる。
聞こえなかったひと言の「意味」を推し測れるほどの恋心は、まだ、彼女の中に、用意されていなかった。
アレイシスは、空を見上げていた。
色とりどりの光が、その横顔に、影のかたちを忙しなく描き変えていく。
握りしめていた拳が、行き場を失って、ふっと、力をなくした。
彼は一度だけ、悔しそうに眉を寄せ——けれどすぐに、いつもの優しい笑みを、自分の上に貼り直した。
ここで無理に叫ぶのは、無粋だ。
彼女への想いは、もっと静かな場所で、丁寧に伝えたい。
「……いや。何でもないよ」
彼はかぶりを振り、シルフィーの頭を愛おしそうに撫でた。
「ただ、君と一緒にこの景色を見られてよかった、と言いたかっただけだ」
「ふふ、私もです! すごい……こんなに綺麗な花火、初めて見ました!」
シルフィーは嬉しそうに笑い、夜空を見上げる。
次々と咲き続ける光の花。瞬く光の粒が、彼女の白銀の髪の上で、また小さく散っていく。
さきほどの心臓の跳ねも、たぶん、この花火の驚きと興奮だったのだ。
そう、自分でひとつ納得して、彼女はアレイシスに、信頼に満ちた笑顔を向け直した。
(……後で、式典が終わったら、もう一度、伝えよう)
アレイシスは胸の中で、そう自分に言い聞かせて、ポケットの中の指輪を、奥へと、ふたたび押し込んだ。
時間は、まだある。
夜は、まだ続くのだから。
二人は並んで、燃えるような夜空を見上げる。
広場からは、平和を寿ぐ歌声と歓声が、地鳴りのように昇ってくる。
散る火花が、頭上のどこか高い場所で、薄い硝子の破片のように、ぱらぱらと降り落ちていった。
式典は、これからクライマックスへ——。




