第10話 砕ける結界と、クラッケンド
ドォーン……! パラパラパラ……
夜空に咲く、大輪の火花。
王都は、いま、歓喜のいちばん高い場所にいた。
広場を埋め尽くす民衆が、肩を組み、歌い、平和の光を見上げている。
バルコニーの上で、シルフィーとアレイシスもその光景を、目に焼きつけていた。
言葉は届かなかったけれど、温かい手は、しっかりと繋がれていた。
「綺麗ですね、アレイシス様」
「あぁ。本当に……美しい夜だ」
完璧な世界。
硝子の空は、今年もまた、いちばん澄んだ強度で更新された。
魔王の視線さえ弾き返す、絶対の守り。
誰もが信じていた。この夜が明け、また明日も、明後日も、同じ平穏が続くのだと。
——パリン。
不意に。
シルフィーの頭の、いちばん奥のほうで、薄いガラスの割れる音がした。
「……え?」
肩がびくりと跳ね、反射的に空を仰ぐ。
結界? ——いいえ、違う。空の外殻は無傷だ。魔族の侵入警報も、鳴っていない。
だとしたら、今の音は——。
——パリーンッ!!
ふたつ目。
今度は、もっと近い。もっと、鋭い。
シルフィーの頬から、ふっと血の気が引いた。
(嘘……どこ? まさか——!)
即座に魔力パスを逆探知し、音の発生源を特定する。
その場所は——王城の最上階、「天空の祭壇」の入り口。
昼間、自分が立ち、巨大な魔石へ命を削るほどの魔力を注ぎ込んだ、その場所。
(なんで……!? どうしてあそこの結界が割れるの!?)
シルフィーの呼吸が、浅く、忙しなくなっていく。
祭壇へ続く通路には、不審者の侵入を防ぐために、3層の結界を編んである。
それは彼女自身の《神聖魔力》で組み上げた、特殊な防壁だ。
人間や、並大抵の魔術師に破れるはずがない。
(あれを物理的に壊せるのは、神に仇なす『龍』の力だけ。——でも、そんなのは)
シルフィーは、ガタガタと震え出した。
頭の中で、理屈が空回りする。
たしかに、「邪龍」の力なら、あの結界を裂けるかもしれない。
けれど、強大な邪龍は、その身に宿す悪意ゆえに、世界を覆う外殻結界を通過できないはず。
逆に、外殻結界を通れる「人間」には、自分の神聖魔力の壁を破るだけの出力がない。
外から、人は来られない。
内から、龍は出られない。
そんな矛盾の中で——現実だけが、無慈悲に、進んでいる。
——パァァァンッ!!
3枚目。
最後の壁が、紙細工のように引き裂かれた。
「はっ、ぁ……ッ、あ……!」
シルフィーは胸を押さえ、息を呑む。
冷たい汗が、背骨をひと筋、ゆっくり伝う。
握っていた手が、氷のように冷たくなったことに気づき、アレイシスがハッと顔を寄せた。
「シルフィー!? どうしたんだ、急に震えて——!」
「ア、アレイシス様、ちが、違うんです、ありえないんです……ッ!」
首を振る。瞳孔が開き、焦点が定まらない。
「祭壇に……誰かが……ッ! 邪龍は入れないはずなのに、人間じゃ壊せないはずなのに——!」
人のように外殻を抜け、龍のようにすべてを食い破る存在。
そんな矛盾の塊が、いま、自分の祭壇の中にいる。
——その時。
《神脈直結》の波紋が、最悪の光景を、シルフィーの意識へ運んできた。
祭壇の、最奥。
あの巨大な魔石の前に、——何者かが、立っている。
「——ッ!!」
やめて。
それだけは。
昨日の昼、自分の命を削って、限界まで注ぎ込んだ、あの石は。
この世界の平和そのものなのに。
「やめ……て……ッ!!」
シルフィーは悲鳴を上げた。
花火の音にかき消されそうな、細い、絶望の細い線。
「お願い、壊さないでぇぇぇぇぇッ!!!」
その声は、祭壇の中の誰にも、届かなかった。
——ドォォォォンッ!!!!
頭の奥のほうで、世界が終わる音がした。
硬く、芯のある破砕音。
世界最高純度・最高硬度を誇る超巨大魔石が、粉々に砕け散ったのだ。
同時に、シルフィーと世界を結んでいた神脈のパスが、ブツン、と引き千切られた。
「あ……がッ……」
糸の切れた人形のように、シルフィーが崩れ落ちる。
アレイシスが慌てて抱き留めた。が、その顔にも、はっきりと戦慄が走っている。
「な……なんだ、あれは——!?」
アレイシスが、空を見上げて呆然と呟いた。
ちょうど花火の光が止み、夜の闇が戻ってきた、その瞬間。
ビキッ。
ピキピキピキピキッ——!
夜空に、不吉な亀裂が、すうっと走った。
外から、ではない。
魔力の供給源を失い、内側から崩れはじめた「硝子の空」が、自重に耐えきれず、悲鳴を上げているのだ。
絶対防御の結界。その頂点から、蜘蛛の巣のようなヒビが、瞬く間に広がっていく。
そして。
その時を、ずっと待っていた者たちがいた。
ヒビの入った結界など、もはや「神の守り」ではない。
ただの、脆い硝子細工だ。
バキィィィンッ!!
北の空が、物理的に、砕けた。
ぽっかりと巨大な穴が空く。
その向こう側——本来であれば、人の目にうつるはずのない「魔界」の澱んだ空気が、雪崩のように流れ込んでくる。
そして、その穴から。
——なにかが、こちらを覗き込んでいた。
それは、城ほどもある、巨大な「眼」。
爬虫類特有の、縦に割れた瞳孔。
それがギョロリと動き、眼下の王都を、——獲物の輪郭をなぞるように、ゆっくりと、見下ろした。
『——グルルルゥ……』
腹の底に響く、愉悦と殺意の入り混じった唸り声。
神話の彼方へ追いやったはずの「絶望」が、いま、——招かれざる客として、戻ってきた。
民衆の歓声が、止まった。
笑顔が、凍りついた。
見上げた空にあったのは、希望の光ではなく——捕食者の眼差しだった。
シルフィーは、アレイシスの腕の中で、ガタガタと震えながら、その眼を見上げ返す。
止まらない涙が、ぼろぼろと、頬を伝って落ちていく。
「あ、あぁ……壊れて……」
私の、完璧な世界が。
みんなを守るはずだった、硝子の空が。
頭上で、ピシ、ピシ、と、もう一段、ひびが走る音がした。
夜空の片隅から、欠片がふたつ、みっつ、街の上へ落ちていく。
光ではない。
ただの、硝子の破片だった。




