第85話 4年の絶望と、アルカトリス
全身を苛む重鈍な痛みに、レンは意識を浮上させた。
鼻をつくのは、清潔なシーツの匂いと、濃厚な薬草の香り。
「……っ、痛ぇ……」
ナタリーの部屋の隣に与えられた小部屋。柔らかなベッドの上で身をよじろうとしたレンは、自分の体が首から下まで分厚い包帯でぐるぐる巻きにされていることに気づいた。
左腕は添え木でガチガチに固定され、指一本動かすだけでも、全身の筋繊維が引き千切られるような激痛が走る。
昨夜の死闘。自らの腕を破壊してまで繰り出した変則機動で、カイの頬を掠めたあの一撃の後、どうやって部屋に運ばれたのかすら覚えていない。
「お目覚めかな、無茶苦茶な見習いさん」
静かに扉が開き、ピンクアッシュの髪を揺らしてカイ・ルシェルドが姿を現した。
だが、その表情にいつもの飄々とした「優男」の笑みはない。酷く冷たく、静かな顔だった。
カイの手には、封蝋が押された一通の手紙が握られている。
「……カイ。昨日のは、俺の……」
「レグルス隊長から連絡が来た」
レンの言葉を遮り、カイは冷徹な事実だけを淡々と告げた。
「……シルフィー様たちは、帝国の都合で4年は帰ってこれなくなってしまった」
「…………は?」
レンの思考が停止した。
4年。5歳しか生きていないこの少年からすれば、それは永遠にも等しい途方もない年月だ。あの優しく温かい光に、4年も会えない。その事実が、ゆっくりと脳髄に染み込んでいく。
「な……よ、4年!?」
バンッ、と。レンは激痛を無視してベッドから跳ね起きた。
「ふざけんな! なんでそんなことになってんだよ! 今すぐ俺をシルフィーの所に連れてけ!!」
「落ち着きなよ」
レンは掛け布を撥ね除ける。
「離せッ! あいつが帰ってこねぇなら、俺が――がはッ!?」
暴れ狂おうとしたレンの胸板に、スッとカイの掌が置かれた。
魔法も使わず、ただの体術による完全な重心制圧。片手で軽く押さえつけられただけだというのに、レンは千斤の重りを乗せられたようにベッドへと縫い付けられ、身動き一つ取れなくなる。
「行ってどうするの?」
見下ろすカイの瞳は、絶対零度の冷酷さを帯びていた。
「こんな弱いのに。君が今そこに行ったところで、何ができる? 奇襲で、しかも偶発的なもので僕にかすり傷を一つ付けただけで、自壊して気絶するようなレベルの話をしているんじゃない」
「俺は……っ……!」
カイの声は、氷のままだ。
「あんな可憐でか弱い聖女様にすら心配されるような低レベルなんだよ? 君は」
――ズキリ、と。
カイの容赦のないストレートな毒舌が、レンの胸の最も柔らかい場所を無慈悲に抉り取った。
(そうだ。俺はまだ、何も守れない……ただのガキだ)
守りたかった。あいつの隣で、誰よりも強固な盾に、鋭い剣になりたかった。
それなのに、現実はどうだ。彼女は遠い北の空の下で戦い続け、自分は安全な王城のベッドの上で、手も足も出ずに包帯に巻かれている。
「……っ、くそ……あぁぁぁっ……!」
レンは絶望と無力感に苛まれ、自身の唇を強く噛みちぎった。
ツー、と血が顎を伝い、真っ白なシーツに赤い染みを作る。
大粒の涙が、黒紫の前髪の隙間からボロボロと零れ落ちた。自分の弱さが憎い。何もできない無力な自分が、死ぬほど憎かった。
そんなレンの慟哭を静かに見つめていたカイは、やがて短く息を吐き、フッといつもの温和な表情へと顔を和らげた。
「……でもね、冷静に考えてよ。これはチャンスなんだ」
「……チャンス……?」
血の滲む唇を震わせるレンから手を離し、カイはベッドの傍らに腰を下ろした。
「4年だよ。君は誰にも邪魔されず、最高の環境で4年間も修行に没頭できる。そして、次に君が会うレグルスさんは、今の君がどれだけ成長したかを知らない『初見』の状態だ」
カイの言葉が、絶望の泥濘に沈んでいたレンの心に、一筋の蜘蛛の糸を垂らす。
「想像してみなよ。4年後、帰還した隊長に挨拶代わりの一撃を入れる。あの規格外の化け物から、初撃で重りを1本……いや、昨日のような変則機動を極めれば、追撃で2本、重りが取れちゃうかもよ?」
「連続で……2本」
涙に濡れた瞳が、微かに見開かれる。
あの絶対的な理不尽の権化である最強の剣士に、自分の刃が届く光景。それは、遠く離れたシルフィーの隣に並び立つための、明確な「強さの証明」だった。
「ただ待つだけの悲劇のヒロインみたいな顔は似合わないよ、レン」
カイは挑発するように、けれどどこか優しく微笑んだ。
「4年で見返してやろうよ。あの隊長も、そして君を心配している聖女様も。僕がとっておきの技を三つ、教えてあげる。……弱くて泣き虫な弟分じゃなく、最強の紳士になって出迎えてやろうじゃないか」
最強の紳士。その言葉の響きに、レンは強く息を吸い込んだ。
添え木で固定されていない右腕を乱暴に持ち上げ、目元をゴシゴシと拭う。
滲んだ血と涙が混ざり合い、幼い頬を汚す。しかし、腕の陰から覗くその黄金の瞳は、もはや弱々しい涙に濡れてはいなかった。
そこに宿るのは、愛する者のために地獄すら喰らい尽くそうとする、純粋で狂気的なまでの決意の炎。
「……教えろ。全部だ」
しゃがれた、けれど鋼のように芯のある声。
カイは満足げに頷くと、西日が沈み、群青色に染まり始めた窓の外へと視線を向けた。
「一つ目は、『一撃を当てるための移動法』」
カイの声が、静まり返った部屋に響く。
「二つ目は、『隙のない相手を拘束する魔法』」
「……三つ目は?」
カイは、ふっと言葉を切った。
「そして三つ目は……」
開け放たれた窓の向こう、赤を藍が染めるように空が王都を覆い尽くしていく。
遠く離れた場所で、彼女もまた同じ星を見上げているのだろうか。
届かない距離。埋まらない4年という途方もない歳月。
流した血と涙を贄として、ただ一つの光を守るための『牙』をひたすらに研ぎ澄ます。
幼き日の無力に泣いた日々はここに終わりを告げ、来るべき再会の夜明けに向けて、彼は自ら底知れぬ深淵へと歩みを進めていった。




