第84話 纏雷の刃と、ヴォルトフェンサー
石畳は、すでに幾つもの赤黒い染みで汚れていた。
骨がきしむ音。筋肉が断裂しかける鈍い痛覚。肺の奥で血の味が暴れ回る。
何度地に這い、何度血反吐を吐き捨てたか、もはやレン自身にも分からなかった。ただ、本能が命じるままに立ち上がり、双魔剣を握り直しては、触れることすら許されない『静かなる技術の頂点』へと突撃を繰り返す。
「ハァッ……、がッ、あぁぁぁッ!」
紫光と黄金が、夜の闇に複雑な幾何学模様を描き出す。
《黄牙》の強靭な刃でカイの退路と死角を物理的に塞ぎ、そこへ極限まで圧縮した《紫牙》の雷撃を叩き込む。線ではなく、完全に計算され尽くした『面』による空間制圧。5歳の少年がわずか数日で辿り着いたとは到底思えない、理にかなった三次元の包囲網だった。
だが、カイ・ルシェルドはまるで水のようにその包囲網をすり抜けていく。
刃と刃が交差するほんの数ミリの「隙間」を見切り、首を傾け、上体を反らす。さらにレンが《黄牙》で追い討ちをかけようとした瞬間、カイは手首を僅かに捻ってレンの肘の関節を軽く叩き、攻撃のベクトルを完全に逸らしてのけた。
ドゴォッ、と。レン自身の暴走した推進力がそのまま自身の身体に返り、勢いよく石の壁へと激突する。
「ぐはっ……、げほッ……!」
壁際で崩れ落ち、レンは肺に溜まった空気を血と共に吐き出した。
立ち上がろうとするが、限界を超えた両足がガクガクと痙攣し、言うことを聞かない。
「……そろそろ終わりにしようか」
月光を背に受けて立つカイは、息一つ乱していなかった。
冷淡な声が、夜の訓練場に響く。
「教えた通り、見事に空間を『面』で制圧できている。脳の分割処理も完璧だ。……でもね、君の剣は酷く『読みやすい』」
「……あ……?」
カイは淡々と続ける。
「君は、圧倒的な戦闘センスを持っている。だからこそ、頭で考えるより先に、身体が勝手に『最適解』を選んでしまっているんだ。無駄がなく、最短距離で、最も効率的な軌道。……それは裏を返せば、セオリー通りの動きしかしないということだ」
カイは氷のように冷たい瞳で、ボロボロの少年を見下ろした。
「最適化されすぎた剣からは、読みやすい。……そんなただ速いだけで予定調和の剣じゃ、シルフィー様に群がる絶望は守りきれないね」
ピシリ、と。
レンの中で、何かが完全に断裂する音がした。
(まだ……あいつを、守れない……?)
自分の命を二度救ってくれた。
自らの命すら顧みず、ただ自分を庇って優しく微笑んでくれた、黄金の瞳。
俺の命なんて、どうなったっていい。俺の身体なんて、何百回千切れたって構わない。
セオリーなんて知るか。最適解なんてどうでもいい。
あいつだけは。あいつのあの優しい微笑みだけは、絶対に、何があっても。
「……こ……こっからだろ……!!」
レンの思考が、純白に染まり上がった。
恐怖も、激痛も、己の命に対する執着も、すべてが真っ白に焼き切れる。後に残ったのは、ただ「彼女を害するすべてを滅ぼす」という、純粋で絶対的な保護欲求だけだった。
『バチィィィィィィィッ!!!』
直後、訓練場の空気が爆発した。
レンの小さな身体から、今までとは桁違いの紫色の雷光が噴き上がる。血管を走るだけの内なる魔力ではない。制御のタガを意図的に外し、暴走した魔力が体外へと溢れ出し、圧倒的な高密度のプラズマとなって少年の全身を包み込んだ。
まるで、雷そのものを編み込んだ鎧を纏うように。
「……ほう」
カイが初めて、僅かに眉を動かした。
「殺す……ッ!!」
レンが吠えた。石畳がクレーター状に陥没し、紫電の軌跡だけを残して少年の姿が消失する。
先ほどまでの「面」の制圧すら放棄した、獣のような機動。
レンはカイへと一直線に突進したかと思うと、瞬きすら置き去りにする雷速の踏み込みから、右手の《紫牙》による鋭い突きを放った。
だが、カイはその殺意に満ちた刺突を、わずかに首を傾けるだけで紙一重で躱す。
「――!」
突進の凄まじい推進力を殺せず、レンの身体はカイの横を猛スピードですり抜けていく。
(このまま後方の石壁まで突っ走り、壁を蹴って背後からの直線攻撃か。……速いが、読める。面での空間制圧を捨てて力任せの突進だなんて、それは進化じゃない。ただの退化だよ)
カイは冷静に軌道を読み切り、振り返りざまに迎撃する体勢をとった。
しかし、それこそがレンの仕掛けた悪魔的な罠だった。
レンは壁になど向かっていなかった。
カイの横をすり抜け、背後へと通り過ぎようとするその刹那――空中に浮いた体勢のまま、左手の《黄牙》を自らの足元の石畳に全力で突き刺したのだ。
鋼の硬度を持つ無骨な刃が、硬い石畳をバターのように貫き、深々と突き刺さる。
何の意味があるのか――カイがそう思考したコンマ一秒後。
『ギシィィィィッ!!』
嫌な音を立てて、レンの左腕の筋繊維が限界まで引き伸ばされ、悲鳴を上げた。
超加速による、凄まじい前進の運動エネルギー。それを、地面に突き刺した《黄牙》を『軸』にして、強引に固定したのだ。
自らの腕を壊すことすら躊躇わない、異常な急制動。それにより、直進するはずだった超加速のエネルギーは、突き刺した剣を支点とする猛烈な『遠心力』へと強制変換された。
カイの予測した「壁を使った直線移動」という最適解のベクトルが、物理法則を無視して円を描くように強引に捻じ曲げられる。
「なっ……!?」
初めて、カイの余裕に満ちた顔に驚愕の色が浮かんだ。
レンの身体は、突き刺さった《黄牙》を軸にしてコマのように急旋回。そして、その遠心力と全身の紫電の爆発を右手の《紫牙》へと乗せ、パチンコ玉のように極端に低い死角からカイの背後へと己を射出した。
最適解を自らへし折り、己の左腕が千切れることも厭わない異常な変則機動。
自分がこの後どうなるかなど、一切計算していない。
ただ確実に、刺し違えてでも相手を食い破るためだけの、己の命を弾丸とした『死を前提とした戦い方』。
「シィィィッ!!」
下からの死角。予測を完全に外された極端なテンポのズレ。すべてを乗せた最高速の刃。
カイの動体視力をもってしても、立ったままでの回避は不可能だった。
パァンッ!! という破裂音と共に、紫の雷光が炸裂する。
「…………っ」
静寂が、落ちた。
カイは、体を捻りながら仰け反るように大きく飛び退き、その必殺の刃を完全に躱した――つもりだった。
しかし。
その美しい顔の頬には一筋の紫の電線が走り、そこからチリチリと火花が散っている。
紙一重。本当に、あと数ミリのところで《紫牙》の直撃は免れたのだ。
だが、刀身から溢れ出した高密度の雷撃が頬を掠めただけで、カイの全身の神経がビリッと麻痺し、一瞬だけ身体の自由が完全に奪われていた。
(……信じられない……!)
カイの青い瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。
自身の身体を壊す前提の変則機動。狂気としか呼べないその一撃は、間違いなく『技術の頂点』と呼ばれる彼の完璧な防壁に、確かな亀裂を入れたのだ。
カラン、と。
石畳の上に、紫光を失った短剣が転がり落ちた。
「……あ……」
技を放ち終えたレンは、もはや指一本動かす力も残っていなかった。
限界を超えた魔力が霧散し、ズタズタになった筋肉が痙攣する前に、彼の意識はプツリと途切れた。
前のめりに倒れ込む小さな身体。それを、全身の麻痺からいち早く復帰したカイが、静かにその胸で受け止める。
「……無茶苦茶だ。自分の腕が千切れることも厭わないなんて」
カイは腕の中で気絶している少年の、黒紫の髪に触れた。
その息遣いは酷く弱々しく、全身は火傷と打撲でボロボロだ。しかし、気絶してなお、その小さな右手は決して見えない何かを守るように、固く握りしめられている。
この幼さで、己の死すら武器にする狂気の完成。
「……合格だ。化け物め」
カイの口元から、呆れと、そして確かな称賛を含んだ溜息がこぼれ落ちた。
東の空の端が、柔らかな黄金色に染まり始めている。
夜明けの光が、血に濡れた訓練場と、意識を失った少年を静かに包み込んでいく。
明日の朝、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた彼が目を覚ました時、果たしてどんな悪態をつくのだろうか。
凄惨な死闘の余韻を洗い流すように、王城の朝は静かに、そして確かに訪れようとしていた。




