第83話 届かぬ領域と、ファンタヴェルタ
右腕には《紫牙》で切れ味に雷撃を加え、左腕には《黄牙》の鋼の硬度を保つための安定した魔力を流し込む。そして同時に、全身の筋肉の『弾性』と『強度』を操作し、限界まで身体を強化する。
脳髄が焼き切れるような地獄のマルチタスクの修行が始まってから、数日が過ぎていた。
王城の裏手に隠された秘密の訓練場。
夜の闇の中で、5歳の少年は二色の刃を振り回し、石畳の上に幾重にも雷光の軌跡を刻み付けていた。
『ジッ……バチィッ!』
黄金と紫の刃が空気を切り裂く。
呼吸の乱れこそ隠せないものの、レンの動きからは先日までの情報処理がパンクして倒れていた粗さはすでに消え失せていた。双魔剣による滑らかで死角のない『面』の制圧が、確かに形になりつつある。
「……ふぅん。驚いたな。本当にこの短時間で、脳の分割処理のコツを掴んできたね」
月光の下、腕を組んでその様子を眺めていたカイ・ルシェルドが、感心したように目を細めた。
そして、おもむろに組んでいた腕を解き、レンに向かってゆっくりと歩み寄る。
「じゃあ、アウトプットといこう」
「……あん?」
カイの声から、笑みが消えた。
「言っておくけど、今の僕にはレグルスさんのような重りとか、君にあげられるハンデはない。だから――本気で、殺すつもりでおいで」
カイは武器を抜くこともなく、ただ自然体ですらりと立った。
その言葉を聞いたレンは、口角を吊り上げ、獰猛な狂犬の笑みを浮かべる。
「……はっ。殺しちまっていいのかよ、優男」
全身の毛穴から紫色の放電が迸り、周囲の空気がビリビリと震える。
今ならいける。そう錯覚してしまうほどの、圧倒的な全能感。ゴムのようにしなやかな筋肉と、鋼のように強靭な骨格。そして二振りの双魔剣がもたらす、完璧な攻防一体の陣。
「後悔すんじゃねぇぞ……ッ!」
ドンッ! と、石畳が悲鳴を上げる暇もなく、レンの姿がかき消えた。
直線的な突進ではない。雷速の踏み込みから、強靭な脚力で軌道を鋭角に折り曲げ、三次元的なステップで視界から完全に消失する。
次の瞬間、レンはカイの完全に無防備な背後――その上空に位置していた。
(獲った……!)
落下しながら、右腕の《紫牙》に最大出力の雷撃を込め、カイの首筋めがけて一切の容赦なく振り下ろす。同時に、回避を封じるために左腕の《黄牙》を真横から薙ぎ払い、逃げ道を完全に塞いだ。
線ではなく、面による制圧網。完璧な死角からの、絶対的な必殺の一撃。
――しかし。
「ッ!?」
レンの紫電を纏った刃が、カイの首を断ち切るほんの数ミリ手前。
カイは、まるで背中に目でもついているように、首をほんの数センチだけ右へ傾けた。
空気を裂く凄まじい斬撃音が響くが、刃はカイのピンクアッシュの髪を数本揺らしただけで、空を斬らされる。
さらに、逃げ道を塞いだはずの《黄牙》の横薙ぎに対し、カイは足元を滑らせるように半歩だけ前へ出た。上体をわずかに反らせるだけで、分厚い黄金の刃が彼の鼻先をすり抜けていく。
振り返ることも、剣を抜くことも、魔法を使うことすらしていない。
「なっ……」
驚愕に目を見開くレンを置き去りに、カイは滑るように半歩後退し、レンの有効射程からふわりと外れた。
「空間を広く使って、視界の死角に回り込む後ろからの攻撃。……うん、素晴らしいね」
涼しい声が、レンの鼓膜を打つ。
レンは着地と同時に舌打ちをし、床を蹴って再び連続攻撃を叩き込んだ。
右、左、袈裟斬り、突き。雷神の如き連撃が嵐のようにカイを襲うが、カイは一切の反撃をせず、ただ流れるような体重移動だけでそのすべてを無効化していく。
「素晴らしいけど……タイミングも戦法も、あまりに見切りやすい」
速い。いや、違う。カイ自身の速度は、紫電で加速したレンよりも圧倒的に遅いはずなのだ。
それなのに、レンの剣は一枚の薄紙すら切り裂くことができない。
カイの動きには、一切の無駄がなかった。レンの筋肉のわずかな収縮、呼吸の乱れ、重心の移動、殺気の向き。そのすべてを事前に読み切り、刃が届く直前に「そこにはいない」という状態を作り出している。
「速いだけで虚を突けるのは、相手が素人の場合の初撃だけだ。一定のレベルを超えた手練れには、その程度の直線的な殺意は通用しないよ」
カイの瞳に、冷酷な光が宿った。
純粋な剣術と体術の『極み』。ただそれだけで、カイは5歳の天才児が己の命を削って放つ神速の刃を、子供の遊びのようにあしらっているのだ。
「ぐっ、舐めんなぁぁッ!!」
焦燥に駆られたレンが、強引に《紫牙》と《黄牙》を交差させて放った大振りの一撃。
それこそが、カイの誘っていた致命的な「隙」だった。
「ほら、重心が浮いた」
トン、と。
カイの足先が、レンの踏み込んだ前足の足首を、絶妙なタイミングと角度で軽く払った。
力など全く入っていない、ただの点での接触。
しかし、自身の超速の推進力と、大振りの遠心力を乗せていたレンの身体は、そのわずかな干渉によって完全にバランスを崩した。
「あ……ッ」
受け身を取る暇すらなかった。
ズガガガガッ!! と、レンは勢いよく顔面から石畳に突っ込み、派手な音を立てて転がった。
「がはっ……、ごほッ、げぇ……ッ」
鼻の骨が軋み、口の中に鉄の味が広がる。
全身の骨が悲鳴を上げ、握りしめていた双魔剣がカランと乾いた音を立てて床に転がった。
「……痛いかい?」
倒れ伏すレンの頭上から、感情の読めないカイの声が降ってくる。
「これが、これからの君に必要な力だ。力任せの暴力だけじゃない、技術と経験が織りなす理不尽の極致。……立てるかな、狂犬くん」
レンは血を吐きながら、霞む視界でカイの足元を睨みつけた。
(……なんだよ、これ)
かつてレンを痛めつけていた大人たちの暴力や、あるいは最強の剣士レグルスが放つ「圧倒的で理不尽な力の暴力」とは全く違う。
カイの強さは、静かで、冷たく、触れることすら許されない『静かなる技術の頂点』だった。
手も足も出ない。自分の全存在が、ただの滑稽な道化に思えるほどの絶対的な絶望感。
悔しい。ムカつく。
こんな優男に、指一本触れられずに泥を舐めさせられている自分が許せない。
だが――。
「……っ、はは」
レンの喉の奥から、低く、血の混じった乾いた笑いが漏れた。
絶望の泥濘の中で、彼の本能が、ビリビリと歓喜に震えていたのだ。
(こんなバケモノみたいな領域が、この世界にはまだあるのかよ)
ゾクゾクする。
(この理不尽を、この途方もない高みを越えなければ、シルフィーの隣には立てない)
その事実が、折れかけた少年の心に、ドス黒く熱い火を注ぎ込んでいく。
「……ふざけんな」
口蓋に溜まった血を吐き捨て、レンは震える指先で再び石畳を掻き毟る。
そして、転がっていた《紫牙》と《黄牙》の柄を、みしりと音を立てるほど強く握り直した。
同じ月が照らす空の下。
ここで倒れたままになれば、あの白銀の少女を守る盾は、そして剣は、永遠に失われてしまう。
「……もう一回だ、優男」
ボロボロになり、血反吐を吐きながらも、少年はゆらりと立ち上がる。
絶望の淵に立たされてなお、その黄金の瞳に宿る紫電の火は、決して消えることはなかった。
冷たい石畳の上で、傷だらけの刃が再び、触れられない頂へと突きつけられる。




