第82話 紫と黄と、バイポルファ
数日後、血を吐くような激痛にも、いつしか「慣れ」という恐ろしい麻酔が効き始める。
王城の裏手にひっそりと佇む秘密の訓練場。冷たい月光が降り注ぐ石畳の上で、5歳の少年は己の肉体を限界まで追い込んでいた。
「ハァッ……、がッ……!」
レンの全身の血管が青黒く浮き上がり、赤黒い斑点が混じった紫色の火花がバチバチと弾ける。
脳髄に直接電気を流し込むような、発狂寸前の痛覚。しかし、レンはその痛みをただの「信号」として処理し始めていた。
無駄な電気信号を省き、必要な伝達だけを極限まで速くする。脊髄反射以上の速度で状況を演算し、筋肉の『弾性』と『強度』を操作する――ゴムのようなしなやかな加速と、鋼のようなインパクトの瞬間の硬化。
レンは低く沈み込んだ姿勢から、圧縮したバネのように弾け飛んだ。
音すらも置き去りにする超速の踏み込み。
握りしめた真剣が、カイの首筋めがけて一切の淀みなく薙ぎ払われる。
完璧な一撃だった。5歳の子供が放ったとは到底思えない、殺意と理にかなった身体操作の結晶。
だが。
「……ッ!」
「惜しい。踏み込みの瞬間、右足の魔力伝導率が数秒遅れたね」
カイは、まるで微風に揺れる柳のように、ふわりと上体を逸らしただけだった。
剣尖がカイの喉元を掠めることすら叶わない。彼が足の位置をずらし、上体の重心を僅かに傾けるだけで、レンの必殺の斬撃は「最初からそこには何もない空間」を斬らされるのだ。
いつも通り芸術的で一切の無駄を削ぎ落とし、最小限の動きで全ての攻撃を無効化するカイ。その絶対的な絶望感に、レンは荒い息を吐きながら舌打ちをする。
「くそっ……! なんで当たらねぇんだよ!」
「君の動きが直線的で、読みやすいからだよ」
カイは平然と佇み、夜風にピンクアッシュの髪を揺らした。
「それに、君の背丈でその長さの剣を一本だけ振り回すのは、理にかなっていない。今の君に必要なのは、一撃の重さじゃない。その超常的な反射速度を活かした『手数』と『制圧力』だ」
そう言うと、カイは訓練場の隅に置いてあった特注の黒い木箱を足元に引き寄せた。
カチャリと留め具を外し、蓋を開ける。
そこに収められていたのは、5歳の子供の体格に合わせて特別に打たれた、二本の特殊な短剣だった。
一本は、刀身が禍々しいほどの紫光を帯びた薄刃の短剣。もう一本は、分厚く、鈍い黄金色の輝きを放つ無骨な短剣。
「君の戦闘スタイル的に、長物一本よりもこのくらいの長さの剣を二本携えた方がいい」
カイは二本の短剣を取り出し、レンの足元へと放った。
石畳に澄んだ金属音が響く。
「双魔剣《紫牙》と《黄牙》だ」
「双魔剣……?」
カイが片方の刃を指し示す。
「右の薄い方が《紫牙》。極限まで魔力伝導率に特化して打たれている。君の紫電を高密度で纏わせ、斬撃だけじゃなく魔法攻撃を可能にする『攻撃用』だ。そして左の分厚い方が《黄牙》。こっちは魔力をほとんど通さない代わりに、超高硬度の特殊合金でできている。敵の物理的な衝撃を受け流し、軌道をずらす『防御用』だ」
レンは息を整えながら、足元に転がる二本の剣を見下ろした。
確かに、今の自分の筋力と体格では、長い真剣を振り回す度に大きな隙が生まれる。この長さなら、超速のステップの中でも振り遅れることはない。
「あ? でもよ、二本あったって上手く使えねーよ。片手ずつ違う動きなんて……」
「上手く使うんだよ」
カイの冷徹な眼差しが、レンを射抜いた。
「君の雷は、点で突く『線』じゃない。圧倒的な速度で死角を潰し、『面』で空間を制圧するために、性質の異なる二本の剣が必要なんだ」
「……面で、空間を制圧する」
カイは二本の指を立てた。
「そう。右腕には《紫牙》で切れ味に+α雷撃を加える。斬撃+雷撃。同時に、左腕には《黄牙》で敵の攻撃を弾くための、鋼の硬度を保つ安定した魔力を流し込む。加えて身体強化は引き続き。……脳を分割して、性質の違う処理を同時に行え」
それは、ただでさえ自壊スレスレの過負荷を強いているレンの脳髄に、さらなる地獄のマルチタスクを要求する狂気の沙汰だった。
「……やってやるよ」
レンは両手に《紫牙》と《黄牙》を握りしめ、再び紫電を迸らせた。
右腕に破壊のパルスを、左腕に硬化の魔力を。
異なる性質の処理を、脊髄反射以上の速度で同時に走らせる。
「ぐ……が……あぁぁぁぁッ!!」
直後、レンの脳内で情報処理が完全にパンクした。
激しいノイズと共に視界が真っ白に弾け、平衡感覚が消失する。紫色の火花が暴発し、レンの小さな身体は糸が切れた操り人形のように石畳へと崩れ落ちた。
「かはっ……、げほッ……!」
「レン!」
倒れ込んだ瞬間、訓練場の影から、ひた走る足音が近づいてきた。
ずっと物陰で息を潜めて見守っていたアリスだった。彼女は一切の躊躇なく血と泥にまみれた石畳に座り込むと、レンの上半身をそっと己の膝元へと抱き寄せた。
「しっかりしてください。すぐにポーションを」
アリスの白く細い指先が、レンの鼻から溢れ出た血を純白のハンカチで手早く拭い去る。そして、上質な回復薬の小瓶をレンの唇に当て、ゆっくりと流し込んだ。
他人に無防備な姿を晒し、触れられることすら極度に嫌がっていたはずのレンは、今や力なくアリスの膝元に頭を預け、されるがままにポーションを飲み下している。
「……わりぃ、アリス。また、汚しちまった」
「謝る必要はありません。私の仕事ですから」
気まずそうに目を逸らしてぽつりとこぼすレンに、アリスは静かに微笑み、彼の汗ばんだ黒紫の髪を優しく撫でた。
それはまるで、傷ついた主人の帰りを待ちわびる母犬と、それに心を許した不器用な子犬のような、痛々しくも温かい光景だった。
痛覚を麻痺させ、己の命を削ってでも力を求める狂犬。しかし、彼がそれほどの過負荷に耐え続ける理由は、ただ一つしかない。
自身を闇の底から掬い上げてくれた、たった一つの絶対的な光。あの白銀の髪を持つ少女の背中を、今度こそ自分が守り抜くという悲壮なまでの誓いだけだった。
「……アリス、離してくれ。まだ、やれる」
レンはよろめきながらも立ち上がり、再び《紫牙》と《黄牙》を強く握り直した。
指先から滴る血が、黄金と紫の刃を濡らしていく。
カイは小さく息を吐き、再びアートのような無構えの体勢をとった。
「いい目だ。……さあ、夜明けまであと少し。付き合うよ」
双魔剣の紫電が、再び夜の闇を切り裂く。
幾度倒れようとも、少年は血反吐を吐きながら立ち上がり、二つの刃に己の魂を乗せて振るい続けた。
やがて、分厚い石壁の向こう側から、白み始めた朝の光が訓練場に差し込んでくる。
荒い息を吐きながら、レンはぼんやりと霞む視界で、茜色に染まりゆく空を見上げた。
自分がこうして血を流し、少しずつ牙を研いでいるこの瞬間も、彼女はどこかの空の下で、あの優しすぎる微笑みを浮かべているのだろうか。
祈るような少年の眼差しは、ただ真っ直ぐに、彼女がいるはずの遠い空へと向けられていた。




