第81話 紫電の理論と、ヴォルテオリア
温かく騒がしい『見習い』としての日常の裏側。
城の者たちが寝静まった夜の闇の中でだけ、少年は己に潜む狂犬の牙を剥き出しにする。
「地獄でも何でもいい。俺を作り変えろ」
レンのその言葉が、ひんやりとした夜の空気に溶けていく。
王城の裏手、分厚い石壁に囲まれた秘密の訓練場。頭上には冷たい月が冴え冴えと輝き、銀色の光が二人の影を石畳に長く伸ばしていた。
「……ふぅん」
ピンクアッシュの髪を夜風に揺らしながら、カイ・ルシェルドは短く息を吐いた。
平素の彼が貼り付けている、温和で掴みどころのない「優男」の笑みが、スッと剥がれ落ちる。
代わりに現れたのは、かつてレグルスに鍛え上げられ、「無傷の幻影」と畏怖された絶対的な『強者』としての冷徹な貌だった。
空気が重さを増し、肌を刺すようなプレッシャーが訓練場を支配する。
「覚悟は決まったみたいだけど……言っておくよ。ここから先は、死なない保証はない」
「望むところだ。さっさと始めろ」
カイの目が、すっと細くなる。
「いい返事だ。じゃあ、まずは君の『勘違い』を壊すところから始めようか」
カイは片手をポケットに突っ込んだまま、挑発するように顎をしゃくった。
「本気でかかっておいで。君が頼りにしている、その野蛮な雷魔法でね」
カッ、とレンの瞳に闘争心の火が灯る。
「言われなくても、ぶっ飛ばしてやるよ……ッ!」
ドォン! と石畳が爆ぜた。
レンの全身から紫色の放電が迸り、莫大な電気信号が強制的に神経と筋肉を加速させる。
それはつい先日、カイが持ち込んだ魔力適性の水晶によって『雷』の属性が判明して以降の訓練で、彼が獣のような本能と執念だけで強引に編み出した暴力的なまでの超加速。
瞬きする間にカイの懐へと潜り込み、全体重を乗せた鋭い真剣の刃を、その首筋へと真っ直ぐに振り抜く――はずだった。
「……なっ!?」
レンの刃は、空を斬っていた。
カイが消えたわけではない。彼はただ、レンの白刃が届くほんの数ミリ手前で、首を僅かに傾け、上体の重心を半歩分だけずらしたのだ。
風に舞う木の葉のように、いや、まるで最初からそこに実体がなかったような、恐ろしいほどに滑らかで最小限の回避。一切の無駄を削ぎ落としたその動きは、見る者に芸術的なまでの絶望感を与える。
「遅いね。それに、動きが直線的すぎる。魔力伝導率のムラが酷いせいで、初動のタイミングが丸わかりだ」
耳元で囁かれた直後、レンは自身の足払いを避けられ、逆に指一本で重心を崩されて石畳に無様にも転がされた。
「がはっ……!」
「君のこれまでの雷魔法は、筋肉や脳に無理やり電気をぶち込んで、動体視力を含めた総合的な身体能力を強制的に引き上げているだけの状態だ」
カイは倒れ伏すレンを見下ろし、氷のように冷たい声で宣告した。
「いわば、寿命と引き換えの死への片道特急切符みたいな戦闘スタイルになってる。……そんな自爆技で『彼女を守る』? 墓標の下からどうやって愛しい人を守るつもりか、ぜひその画期的な理論を聞かせてほしいね。君がそんなザマじゃ、シルフィー様が一生消えない傷を負うだけだ」
「ッ……!!」
その言葉が、レンの胸の最も痛い場所を抉った。
「シルフィーを守れない」「彼女を悲しませる」。その事実を突きつけられることこそが、彼にとって最大の逆鱗だった。
レンは血の滲む唇を噛み破り、真剣を杖代わりにして殺気を纏って立ち上がる。
「……うるせぇ。俺には、これしか方法がなかったんだよ。じゃあどうすりゃいいってんだ」
「だから、僕が教えてあげるって言ってるじゃないか」
カイはふっと口元を緩め、人差し指を立てた。
「重要なのは、魔力の波長をコントロールすること。つまり、電子パルスで脳から送る情報の『速度』と『情報量』の最適化だ。君は今まで、全身の細胞に無差別に命令を送りすぎていた。まずは個々の制御を徹底した方がいい」
「情報の、速度……?」
カイが頷く。
「そう。無駄な電気信号を省き、必要な伝達だけを極限まで速くするんだ」
カイは夜空に舞う微細な埃を指先で指し示しながら、静かに語り続ける。
「一瞬一瞬の判断を、脊髄反射以上の速度で出すために絶えず細かく制御する。無駄は削ぎつつ、それでいて、より必要な情報の量を莫大に増やし、細かく超速で送り続けるんだ」
「……それをやれば、本当の超反応と超スピードが手に入るってことか」
カイは指を鳴らした。
「その通り。そうすれば君は、本当の意味での超反応と超スピードを手に入れることができる」
しかし、とカイは言葉を区切った。
その眼差しは、死地に立つ兵士を見据えるような厳しさを帯びている。
「だけど、それだけじゃ体はついてこれない。神経と脳の加速に肉体が耐えきれず、塵になるか燃えカスになって終わりだ。……だからこそ、その超常的な身体能力を物理的に支える、筋肉の『弾性』と『強度』を操作するんだ」
「弾性と、強度……」
カイは足元に視線を落とした。
「僕は雷属性が使えないから実演はしてあげられないけど、理屈はこうだ」
カイは落ちていた木の枝を拾い上げ、鞭のようにしならせた。
「魔力による電気刺激で、まずは筋肉を『ゴムのように柔軟でしなやかに』保つ。この状態なら、どれだけ加速しても肉体は衝撃を吸収できる。だが、ただ柔らかいだけじゃ相手を斬れないし、衝撃で自分の肉体が壊れる」
カイはしならせた木の枝を、自身の掌でピタリと止めてみせた。
「だから、相手の攻撃を躱す時、あるいは打撃のインパクトの瞬間……その一瞬だけ、上から筋肉や腱が自らの力で千切れないように、細胞レベルで『鋼のように硬く固定』して補強するんだ。……理屈は分かったね? じゃあ、実践だ」
カイの容赦のない指示が飛ぶ。
レンは深く息を吸い込み、真剣の柄を握り直して、自身の内側へと意識を沈めた。
ただ闇雲に電気を流すのではない。血管と神経、その一本一本に魔力を這わせ、電子パルスの情報量を絞り込み、筋肉の収縮と弛緩を意図的に支配する。
「ぐ、ゥ……ッ!」
直後。レンの小さな肉体を、凄まじい激痛が襲った。
無理やり性質を変えようとする細胞が悲鳴を上げ、全身の筋肉が痙攣を起こす。
『ジジッ……バチィッ!!』
レンの体表から、危険なノイズのような音が鳴り響き、赤黒い斑点が混じった紫色の火花が散った。
毛細血管が限界を超えて膨張し、皮膚の下で青黒く浮き上がる。ツー、とレンの鼻筋から真っ赤な血が零れ落ちた。
「が、あぁぁぁぁッ……!!」
内臓を雑巾のように絞り上げられるような、あるいは全身の骨を力任せに捻り折られるような激痛。
レンは両膝から崩れ落ちそうになり、必死に石畳に手をついた。
息ができない。視界が明滅し、意識が遠のきかける。
無理だ。こんな不可侵の領域、5歳の人間の肉体が耐えられるはずがない。本能がそう警鐘を鳴らしていた。
(……でも、ここで倒れたら)
薄れゆく意識の中で、レンの脳裏に浮かんだのは、ただ一つの絶対的な光だった。
何の見返りも求めず、地獄の底から自分を救い出してくれた、白銀の髪の少女の微笑み。
俺は彼女の隣に立つと決めた。もう二度と、彼女の後ろに隠れて守られるだけの、無力なガキでいるつもりはない。
(俺は、あいつの剣になるんだ……)
――ふざけるな。この程度の痛みで、千切れてたまるか。
レンは歯を食いしばり、床についた足に力を込めた。
断裂しそうになる筋繊維を魔力で強引に縛り付け、ゴムのような柔軟性を持つ状態へと無理やり固定する。
ミシミシと肉体が軋む音を立てながら、血まみれの少年は、再び二本足で立ち上がった。
「……痛ぇ、けど」
瞳に宿る狂気的なまでの集中力。体外に漏れ出ていた紫電が、チリチリと音を立てながら、レンの体内へと高密度に収束していく。
「……さっきより、ずっと速え」
深く沈み込んだ膝が、ゴムのようにしなやかに力を『圧縮』する。
次の瞬間。
ドンッ!
爆発的な踏み込みにもかかわらず、石畳は一切砕けなかった。
それは、莫大な運動エネルギーが床へと逃げることなく、100パーセントの効率で「前進への推進力」へと変換された証拠だった。
姿勢を極限まで低く沈め、圧縮されたバネが弾けるように――いや、音すら置き去りにするような滑らかな超加速。
レンの姿がブレたかと思った直後には、カイの喉元へと鋭い白刃が迫っていた。
そして、剣が届くインパクトの刹那。
弛緩していたレンの全身の筋肉が、圧縮された紫電のパルスを受けて一瞬だけ『鋼』へと硬化する。
凄まじい遠心力と踏み込みの威力が、刃の一点へと完璧に伝達された、必殺の斬撃。
「おっと……」
カイは僅かに目を見開き、スッと身をかわしてその一撃の軌道を紙一重で逸らした。
(……正気か、この子は)
平然と地獄のメニューを課していたカイだったが、内心では舌を巻いていた。
理論として教えるのは簡単だ。だが、実際にそれを肉体に適応させる過程の痛みは、大人の熟練した騎士でさえ発狂しかねない代物である。
この年齢で、これほどの過負荷をかけてなお神経が焼き切れないばかりか、その痛みを意志の力だけでねじ伏せてみせたのだ。
どういう造りをしていれば、これほどの執念を生み出せるのか。
「……ギリギリ及第点かな。まだまだ粗いね。死ぬ気でついておいで」
「上等だ……! 朝まで付き合え、優男!」
紫色の雷光と、それを受け流す静謐な影が、月下の訓練場で何度も交錯する。
肉が焦げ、血が流れるたびに、少年は古き抜け殻を脱ぎ捨てていく。
ただ己の命を燃やすだけの狂犬から、守るための絶対的な『剣』へと。
夜明けの光が王城の空を白く染め上げるまで、冷酷で美しい紫電の瞬きは、静寂の夜をひたすらに切り裂き続けていた。




