第80話 悪夢と夜明けと、オースオブドーン
深い闇。
冷たい石の床。ざらついた鉄格子の感触。
肌を刺すような冷気と、どこからか聞こえる水滴の音。
『――この化け物が』
いくつもの声が、暗闇から降ってくる。
『――薄気味悪い。こっちを見るな』
『――ずっとその檻の中で、惨めに生きていればいい』
(やめろ……)
言葉の刃が、無防備な心を容赦なく切り裂いていく。
痛い。寒い。苦しい。
誰か、助けて。ここから出して。
俺は何も悪いことなんてしていないのに。ただ、生まれてきただけなのに。
「……さむい……」
専属メイドや付き人に与えられた、ナタリーの部屋の隣にある小部屋。
簡素だが清潔なベッドの中で、レンは額に脂汗を浮かべ、小さな身体をガタガタと震わせていた。
重魔鉱の枷は外されているにもかかわらず、彼の魂は未だに過去の檻に繋がれたままだ。
シルフィーの光に救われ、温かい場所に迎え入れられてもなお、深く刻まれたトラウマは、夜の闇に紛れて容赦なく少年の首を絞め上げる。
「やめろ……こないで……っ」
シーツを強く握りしめ、掠れた声でうわ言を繰り返すレン。
その時、かすかな衣擦れの音がして、静かに小部屋の扉が開かれた。
「――レン」
月明かりに照らされて現れたのは、アリスだった。
彼女は普段のきっちりとしたメイド服ではなく、薄手で透け感のあるシルクのネグリジェ姿だった。豊かな胸の膨らみが布地を押し上げ、歩くたびに大人の女性特有の甘く芳醇な香りが、ひんやりとした夜の空気に溶け出していく。
アリスは、悪夢にうなされる少年の姿を痛ましげに見つめると、一切の躊躇なくベッドの縁に腰を下ろした。
そして、シーツをめくり、冷え切ったレンの身体の隣へと滑り込む。
「……ぁ……」
ビクッと身体を強張らせたレンを、アリスは柔らかく、そして力強く抱き寄せた。
顔が、豊満で柔らかな双丘の谷間にすっぽりと埋まる。極上の絹のような肌の感触と、圧倒的な温もりが、レンの全身を包み込んだ。
「大丈夫です。もう誰も、あなたを傷つけたりはしません」
アリスは、レンの背中に腕を回し、一定のリズムで優しく、トントン、と叩き始めた。
母親が赤ん坊をあやすような、原初的で絶対的な安心感を与えるリズム。
夢の淵で凍えていたレンは、無意識のうちにその熱源へとすがりついた。小さな両手がアリスの背中側をギュッと掴み、顔を彼女の豊かな胸元へさらに深く押し付ける。
「……あったかい……」
「ええ。温かいですよ。あなたはもう、独りではありませんから」
アリスの白く細い指先が、レンの汗ばんだ黒紫の髪を優しく梳く。
胸元にすがりつく少年の吐息が、薄いシルク越しにアリスの素肌をくすぐる。男としての自我もまだ未熟な彼にとっては、ただ縋りつくべき命の温もりでしかない。だが、その純粋さゆえの無防備な密着は、二人の距離を決定的に変えていた。
「……レン」
夜の静寂の中、アリスの唇から、祈るような、震えるような囁きが零れ落ちた。
「理不尽な悪意に晒され、どれほどの痛みをその小さな背中に背負ってきたのか……私には、想像することすら恐ろしい。けれど、よく生きていてくれました」
背中を撫でる手が、愛おしさを噛み締めるように優しく、そして力強くなる。
「あなたは決して『化け物』などではない。誰よりも優しくて、不器用で、本当は甘えん坊な……愛されるべき男の子です」
アリスの青い瞳から、一筋の涙が滑り落ち、レンの頬を濡らした。
「もう、暗くて冷たい夢は見なくていいのですよ。もしも過去の呪縛があなたを苦しめるのなら、朝が来るまで、私がこうして何度でも温めましょう。……あなたがご自身の足で、あの優しい聖女様のお隣に堂々と立てる、その日まで。だから……どうか今は安心して、私の腕の中で眠ってください」
その声が、魂の奥底に届いたのだろうか。
レンの身体からスッと余計な力が抜け、強張っていた表情が、年相応の無防備で安らかな寝顔へと変わっていく。
アリスにギュッと抱きついたまま、規則正しい寝息を立て始めた。
「……おやすみなさい、私の愛しい見習いさん」
アリスはレンの額にそっと唇を落とすと、彼を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。
月光が、傷だらけの少年と、彼を包み込む柔らかな擁護者を、優しく照らし出していた。
*
翌朝。
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日で、レンはゆっくりと意識を浮上させた。
(……あれ? なんか、すっげぇいい匂いがする。それに、このふかふかの枕……)
むにゃむにゃと寝ぼけ眼を擦りながら、顔を埋めていた「ふかふかの何か」に頬をすり寄せる。
信じられないほど柔らかく、温かく、そして微かに甘い花の香りがする。
ゆっくりと目を開けたレンの視界に飛び込んできたのは――極薄のシルク越しに透けて見える、たわわに実った真っ白な双丘の谷間だった。
「…………は?」
状況が理解できず、フリーズするレン。
視線を少し上にずらすと、そこには乱れた銀髪を枕に散らし、静かな寝息を立てているアリスの美しい顔があった。
しかも、自分の両腕は彼女の細い腰にしっかりと回され、顔を胸に埋める形で完全に抱きついている。
「――っ!? うあああああ!!?」
レンはバネ仕掛けのおもちゃのように飛び起き、ベッドの端まで転がって壁に背中を打ち付けた。
顔面は文字通り、茹でダコのように真っ赤に沸騰している。
「な、ななな、なんで……っ! なんでアリスが俺のベッドに!?」
「ん……おはようございます、レン」
レンの悲鳴で目を覚ましたアリスは、全く動じることなく、ゆっくりと上体を起こした。
肩からネグリジェの紐が滑り落ち、豊かな胸元がさらに露わになる。しかし、彼女はそれを隠そうともせず、涼しい顔でレンを見つめた。
「昨日はあんなに甘えん坊でしたのに。私にギュッと抱きついて、朝まで一歩も離れようとしなかったのですよ?」
「なっ……! そ、そんなわけねぇだろ! 俺が、お前なんかに……っ!」
アリスは涼しい顔のままだ。
「あら。寝言で『アリス、あったかい』とまで言っていましたが」
「言ってねぇええええ!!」
恥ずかしさのあまり頭を抱えてのたうち回るレン。
その反応があまりに可愛らしくて、アリスは思わず口元をほころばせた。
「あら~、朝から随分と仲良しじゃない♡」
その時、バタンと勢いよく扉が開かれ、部屋の主であるナタリーが満面の笑みで立っていた。
「ナタリー! 違う、これは誤解だ! こいつが勝手に俺のベッドに……!」
「ふふっ、いいのよ言い訳しなくても。レンはアリスのことがだーいすきだもんね? ね、アリス?」
ナタリーがアリスに水を向ける。
「ええ。とても愛らしい、私の大切な弟分です」
「お前ら……結託して俺をからかってんだろ……っ!」
レンは枕を顔に押し当て、ベッドの上に突っ伏した。
もう、この底知れない姉と完璧なメイドのコンビには、一生勝てる気がしない。
からかわれている屈辱と、それでも胸の奥底に残る、どうしようもなく温かい余韻。
(……くそ。最悪な朝だ)
悪態をつきながらも、シーツに隠された少年の口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
柔らかな朝の陽光が、賑やかな小部屋を黄金色に染め上げていく。
絶望に満ちていた少年の世界に差し込んだのは、容赦なく甘く、そしてひどく騒がしい日常の光。
遠く離れた空の下、きっと同じ朝焼けを見上げているであろう少女を思いながら、レンは不器用なため息を一つこぼす。
夢の淵で彼を震わせていたあの檻の冷たさは、もうどこにも残っていなかった。




