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第79話 傷だらけの背中と、バスタイム

挿絵(By みてみん)

乳白色の湯気が立ち込める、王城の広大な大浴場。

彫刻の施された大理石の湯船の傍らで、レンは小さな身体を丸め、真っ赤な顔で必死の抵抗を試みていた。


「だーっ、だから! 自分で入れるって言ってんだろ! 子供扱いすんな、アリス!」


腕を組み、ぷいっと顔を逸らすレン。


だが、そんな彼の背後には、湯気を纏ったアリスが静かに立っていた。


普段の隙のないメイド服はそこにはなく、豊かな胸の谷間から太ももまでを、一枚の白いバスタオルで巻いただけの姿。

透き通るような白い肌を艶やかな水滴が滑り落ちるその様は、大人の男であれば目を奪われるほどの蠱惑的な美しさを放っている。

しかし、愛も欲も知らずに育った5歳のレンは、ただ「大人と一緒にふろに入る」という得体の知れない行為に少し混乱していた。


「いけません。重い枷をつけたまま無理に動けば、背中の傷が開きます。じっとしていてください」


「開かねぇよ! とっくに塞がって……っ、あ」


反論しようと振り向いたレンの口が、不意に塞がる。


アリスの白く細い指先が、レンの濡れた前髪をそっとすくい上げ、額に付いた髪を優しく退けたからだ。

すぐ目の前に迫る艶やかな白い肌と、ひんやりとした指先の心地よさ。今まで誰にもこんな風に世話を焼かれたことのないレンは、完全に幼児扱いされている気恥ずかしさに慌てて視線を逸らした。


「ナタリー様に命じられた、大切なお世話です。……私に、レンを綺麗にさせてください」


静かで、どこか懇願するようなその響き。

ナタリーからの不思議な呪文の儀式を経て、すっかりこの完璧なメイドの包容力に絆されてしまったレンは、それ以上強く反抗することができなかった。


「……勝手にしろよ」


観念したように肩の力を抜くと、アリスは「はい」と短く応え、滑らかな動作でレンの背後に回った。


ふわりと、上質な花々の香りを閉じ込めた泡が、レンの華奢な肩に乗せられる。

アリスの手つきは、まるで壊れやすい硝子細工を扱うように、極めて繊細で、慈愛に満ちていた。

温かい湯気と、肌の上を滑る柔らかな泡の感触。そして何より、丁寧に身体を洗ってくれるアリスの掌から伝わる熱が、レンの強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。


(……気持ちいい)


ただ心地よい温もりに身を委ね、レンがうとうとと目を閉じかけた、その時だった。


ピタリ、と。


背中を洗っていたアリスの手が、不自然に止まった。


「…………」


アリスは無言だった。

だが、背中に触れている彼女の指先が、微かに、本当に微かに震えているのが分かった。


レンはハッと我に返り、自身の背中に刻まれたものを思い出した。

そこにあるのは、5歳という年齢には到底そぐわない、無数の醜い古傷だ。

家族から疎まれ、理不尽な暴力を受け続けた地獄の記憶。シルフィーの治癒魔法をもってしても、魂にまで刻み込まれたような深い痕は、完全には消え去っていなかったのだ。


美しい王城の浴室には、あまりにも不釣り合いな醜悪な模様。


「……汚ねぇだろ」


レンは膝を抱え込み、自分の身体を隠すように小さく丸まった。

自嘲気味に吐き捨てた声は、彼自身が思っていたよりもずっと震えていて、弱々しかった。


「ごめん、アリス。俺みたいなやつの背中なんか洗わせて……」


「いいえ」


レンの言葉を、静かな、けれどはっきりとした声が遮った。

アリスの指先が、泡越しに、背中の傷跡を一つ一つなぞるように触れていく。

そこに嫌悪や憐憫はない。

あるのは、ただ深く、静かな祈りのような愛情だけだった。


「これは、レンが今日まで生き抜いてきた証です。……とても、綺麗ですよ」


「え……」


指先が、古い傷の一つで止まる。


「痛かったでしょう。辛かったでしょう。……よく、生きていてくれましたね」


背中に押し当てられたアリスの掌が、じわりと熱を帯びる。

普段は感情を一切表に出さない彼女の、震える指先から伝わってくる、言葉以上の深い悲しみと労り。

それは、レンの心の奥底でずっとうずくまっていた「傷だらけの自分」を、丸ごと抱きしめ、肯定してくれる温かさだった。


「……っ」


視界が急にぼやけ、レンはギュッと目を瞑った。

湯気で霞む浴室に、ポタ、ポタと、汗とは違う雫が落ちる。

泣いてなんかない。これはただのお湯だ。そう自分に言い聞かせながら、レンはアリスの優しい掌の感触に、ただ黙って身を委ねた。


やがて、丁寧に全身の泡を洗い流された後、「さあ、お湯に浸かりましょう」というアリスの言葉に従い、レンは彼女と共に広く温かい大理石の湯船へと身を沈めた。


ちゃぷん、と心地よい音が響く。

アリスはレンの背後に座り、彼を背中からすっぽりと抱き込むような体勢になった。


「なっ……! ちょ、近っ……!」


「冷えた身体の芯まで、しっかりと温めなくてはいけませんから」


背中に押し当てられる、豊満で柔らかすぎる双丘の感触。

まるで母親のように完全にすっぽりと包み込まれ、逃げ場をなくされる圧倒的な保護感に、彼の顔はカァッと熱くなった。


「……あと、60秒。一緒に数えてから出ましょうか」


「ろ、ろくじゅう……っ」


アリスの腕が、そっと力を込める。


「はい。では、いきますよ。……いーち、にーい」


耳元で囁かれる、落ち着いた心地よい声。

抗うことを諦めたレンは、真っ赤な顔で湯船の縁に顎を乗せ、彼女の声に合わせて小さく数を数え始めた。


「さーん、しーい……」


湯気に包まれた大浴場に、不器用な少年と、完璧なメイドの穏やかな声が響き合う。


磨き上げられた水面に映る少年の背中には、もう冷たく重い記憶の感触はない。

ただ、背中を包み込む柔らかな温もりだけが、甘い石鹸の香りとともに、彼を静かで優しい夜のまどろみへと誘っていた。


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