第78話 究極の心得と、アルティメイトワード
「失礼します……」
水が並々と注がれたクリスタル・ピッチャーを乗せた銀のトレイを、今度は一滴も零さずに運びきった。
ナタリーの私室。
ソファに深く腰掛けていたナタリーは、レンから冷たい水の入ったグラスを受け取ると、ふふっと意地悪な笑みを浮かべた。
「あんた、昨日今日と色んなメイド達から聞いたわよ。アリスに随分と尻拭いさせてるんだって?」
その言葉に、レンの肩がビクッと跳ねた。
「うっ……それは……」
喉が詰まる。言い訳の言葉は見つからない。
事実、彼は今日何度も失敗し、そのすべてをアリスにカバーしてもらっていたのだから。足元から、またあの嫌な焦燥感が這い上がってくる。
「ナタリー様」
レンの背後から、静謐な声が割り込んだ。
アリスだった。
彼女は足音もなく進み出ると、レンを庇うように立ち塞がった。
「レンはまだ、この城の作法に不慣れなだけです。それに、私の指導不足でもあります。彼を責めないでくだ……」
「アリス、あなたは甘すぎるわ。少し黙ってなさい」
ナタリーが食い気味にピシャリと制すると、アリスは「……畏まりました」と静かに一礼し、一歩下がる。
ナタリーは立ち上がり、レンの目の前まで歩み寄った。
そして、その長い指先で、レンの鼻先をツンと突いた。
「いい? 私はあんたがどんくさいことを怒ってるんじゃないの。ミスなんて誰でもするわ。でもね……」
ナタリーの赤い瞳が、レンを真っ直ぐに射抜く。
「失敗したなら、アリスに『ごめんなちゃい』。フォローしてもらったら『ありがとう』。これをちゃんと言えるようになりなさい!」
「……は?」
レンは間の抜けた声を漏らした。
「ご、ごめんな……なんだって?」
「『ごめんなちゃい』よ。可愛い弟なら、可愛く言いなさい!」
ナタリーは腰に手を当てて、ふんぞり返る。
どうやら本気らしい。この女は、本気で自分を玩具にして遊んでいる。
だが、その瞳の奥には、彼に「人としての当たり前の関係性」を教え込もうとする、姉としての真剣な光が宿っていた。
レンは顔を真っ赤に染め、俯いた。
(言えるかよ……っ。そんな、恥ずかしい言葉……)
だが、視界の端に映るアリスの静かな佇まいが、レンの心を激しく揺さぶる。
ここ数日、どれだけ彼女の手を煩わせただろう。そして、どれだけその無言の優しさに救われただろうか。
誰からも忌避されてきた暗い過去の中で、決して与えられなかった「許し」と「庇護」をくれた人。
お礼も謝罪も、口にしたことはなかった。そのやり方を知らなかったからだ。
「さあ、言ってみなさい」
ナタリーが急かす。
レンはギュッと両拳を握りしめ、震える唇を開いた。
「ごめんな……さい……っ」
「違う! 『ご・め・ん・な・ちゃ・い』! やり直し!」
容赦のないダメ出し。
レンの目から、屈辱と恥ずかしさ、そしてどうしようもない感情が入り混じり、ぽろぽろと涙が滲み出た。
レンは思い切り息を吸い込み、固く閉ざしていた心の殻を打ち砕くように、真っ赤な顔で大声を上げた。
「……ご、ごめんなちゃい!!」
部屋に響き渡った、不器用で、けれど痛いほど真っ直ぐな少年の叫び。
次の瞬間。
ふわりと、甘い香りに包まれた。
「……っ!?」
「いい子ね!!! それでこそ私の可愛い弟、『レン』よ!!」
ナタリーが、レンの小さな体を力いっぱい抱きしめ頭をなでていた。
柔らかい胸に抱かれ、髪をくしゃくしゃに撫で回される。
「な、離せ……っ! くるし、っ」
口ではそう言いながらも、レンの腕はナタリーを振りほどくことができなかった。
温かかった。誰かにこうして、ただ愛おしむように抱きしめられることが、こんなにも満たされるものだったなんて。
レンが涙目で視線を彷徨わせると、ナタリーの肩越しにアリスの姿が見えた。
いつも感情を表に出さない完璧なメイドが、今は口元を白く細い手で覆い、肩を微かに震わせている。
その青い瞳は優しく細められ、確かな慈愛の光を湛えて微笑んでいた。
「ふふ……よく出来ましたね、レン」
その静かで甘やかな声音に、レンの顔はますます沸騰したように熱くなった。
狂犬のように牙を剥いていた少年の心に、初めて「愛着」という名の柔らかな鎖が繋がれた瞬間だった。
感情の爆発と慣れない温もりに当てられ、レンの体は汗ばむほどの熱を帯びていた。
高鳴る鼓動が、彼自身の生まれ変わりを告げるように胸を打つ。
「さあ。一日の汗と……その火照りを、洗い流して差し上げましょうか」
静寂を取り戻した部屋の中で、アリスがタオルを手に優雅に一礼する。
窓越しに覗く青白い月明かりが、少年の幼い輪郭を優しく縁取っていた。
今日という日の終わりに待つのは、凍てつくような孤独ではない。
そこにはただ甘く、そして逃げ場のないほどに温かい空間だけが広がっていた。




