第77話 暖かな氷と、アドヴォケイト
この数日間、レンの生活は失敗と沈黙の繰り返しだった。
重魔鉱の重さに慣れきった身体では、繊細なガラス器や銀のトレイを扱う力の加減がまるで掴めない。水を零し、皿を落とし、そのたびにアリスが音もなく現れては、完璧な所作で惨状を片付けていく。
叱責はない。舌打ちもない。
ただ、自分が如何に無力で不格好であるかを見せつけられるような、静かで確実なフォロー。
どう振る舞えばいいのか、どんな言葉を口にすればいいのか分からないレンは、ただ気まずそうに唇を噛むことしかできなかった。
夕暮れ時。
ナタリーに「冷たいお水が飲みたいわ」と命じられたレンは、空のクリスタル・ピッチャーを抱え、使用人たちが集まる第二キッチンへと向かっていた。
茜色の陽光が長く伸びる廊下を歩き、キッチンの重厚な扉に手を掛けようとした、その時。
僅かに開いた扉の隙間から、メイドたちの忍び笑いが漏れ聞こえてきた。
「ねえ聞いた? あの見習いの子、今日もまた絨毯を水浸しにしたらしいわよ」
くすくすと、複数の忍び笑いが重なる。
「信じられない。アリス先輩も、よくあんな野良犬の面倒を見切れるわよね」
「そうそう。失敗ばかりのくせに、反省の態度も見せないんだから。可愛げなんて微塵もないわ」
ピタリ、と。
レンの足が床に縫い付けられたように止まった。
ドアノブに伸ばしかけた手が、力なく宙を彷徨う。
(……だよな)
分かっていたことだ。
ここは王城の中心。洗練されたマナーと優雅さが支配する世界。
家族にすら「化け物」と疎まれ、薄汚い檻の中に繋がれていた自分のような存在は、どう取り繕ってもここでは異物でしかない。
彼女たちの言う通りだ。俺は役立たずで、どんくさくて、まともな振る舞いひとつ知らないガキだ。
喉の奥がヒュッと鳴り、足元から冷たい泥水が這い上がってくるような感覚に襲われる。誰からも忌避され、痛めつけられてきた日々の記憶が背筋を撫でた。
「あら、アリス先輩」
ふいに、扉の向こうのメイドたちの声が一段と高くなった。
レンは弾かれたように壁の影へと身を隠した。足音も立てず、いつの間にかアリスが廊下を歩いてきていたのだ。
「お疲れ様です、先輩。あのどんくさい見習いのお世話、本当にご苦労様です」
メイドたちが口々に追従する。
「本当ですよ。あんな面倒な子、さっさとナタリー様にお願いして、下働きにでも落としてしまえばいいじゃないですか」
「あはは、先輩も本当は迷惑しているんでしょう?」
同情を装った、無遠慮で残酷な言葉たち。
レンは壁に背中を預け、ギュッと目を瞑った。
(そうだ、見捨ててくれ。こんな無能なガキなんて、さっさと切り捨ててしまえばいい)
「……口を慎みなさい」
落ちる夕陽ごと凍りつかせるような、絶対零度の声が廊下に響いた。
大声ではない。感情的に声を荒らげたわけでもない。
ただ、そこに在る空気を一瞬にして氷点下へと叩き落とすような、静かで、冷徹な一喝。
「え……?」
「あ、アリス、先輩……?」
メイドたちの声が震える。
影からそっと視線を向けたレンは、息を呑んだ。
いつも穏やかに伏せられているアリスの青い瞳が、今は鋭い氷の刃のようにメイドたちを射抜いていた。
その細い体から放たれる威圧感は、下手な近衛騎士よりも遥かに重く、恐ろしい。
「レンは、まだ知らないだけです」
アリスは一歩だけ前に出た。その所作すらも恐ろしく優雅で、隙がない。
「あの子は私とナタリー様が、必ず立派な紳士に育て上げます。……何も知らないのに、私の大切な見習いに、二度と汚い言葉を使わないでください」
静寂が落ちた。
メイドたちは血の気を失い、「し、失礼いたしました……!」と引きつった声を残して、逃げるようにキッチンの奥へと消えていった。
残されたのは、アリスと、影に隠れたレンだけ。
アリスは小さく息を吐くと、乱れたエプロンを優雅な手つきで直し、何事もなかったように歩き出す。
「…………っ」
壁に背を預けたまま、レンは胸の服地を強く握りしめた。
今まで見た誰よりも、彼女の背中が大きく見えた。
『私の大切な見習い』
その言葉が、耳の奥で何度も、何度も反響している。
(……シルフィー以外に、俺を庇う奴がいるなんて)
怒られたことは数え切れないほどある。殴られたことも、蔑まれたことも。
あの地獄のような日々から救い出し、自分という存在を肯定してくれたのは、シルフィーただ一人だった。
まさか彼女以外の、それも絶対的な力を持つ「大人」が、こうして自分のために矢面に立ってくれるなんて、考えたこともなかった。
胸の奥深く、ずっと強張っていた場所に、温かい火種が落ちたような気がした。
夕焼けの赤が、白大理石の床に静かな影模様を描いている。
レンは抱き抱えていた空のピッチャーを見つめ、一つ、深く息を吸い込んだ。
(俺はまだ、不格好なガキでしかない。けれど、シルフィーが救ってくれた命を、そして目の前の人が守ってくれたこの不器用な歩みを、ここで止めるわけにはいかない)
レンは真っ直ぐに顔を上げ、静寂の残る廊下をキッチンへと向かって歩き出した。
少しだけ前を向いたその足取りを、茜色の光が柔らかく祝福していた。




