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第86話 4年半の彼方と、リアドヴェナ

挿絵(By みてみん)

規則正しい馬車の揺れが、心地よい微睡みを誘う。

車窓から差し込む柔らかな春の陽光を受けて、月光のように冷たく美しい輝きを放つ白銀の髪が、さらさらと光の粒子を散らした。

ルーヴェル帝国での生活に一区切りをつけ、アルヴァレイン王国へと向かう道中。馬車のふかふかなシートに身を預けるシルフィー・エリオス・ルーメリアは、この4年半という歳月を経て、誰もが振り向くほどの美しい少女へと成長していた。今年で10歳を迎えた彼女が纏う空気は、もはや保護されるべき子供のそれではなく、確固たる信念を持つ歴代最高の聖女としての風格すら漂わせていた。


帝国での日々は、全くもって過酷なものではなかった。むしろ、第一皇子アレイシスの婚約者として、そして世界の平和を象徴する聖女として、周囲の誰もが玉のように彼女を大切に扱い、穏やかで守られた政治的同居生活を送っていた。

それでも、彼女の胸の奥には常に、遠い異国に残してきた一人の少年の存在があった。


「それにしても」


向かいの席で長い足を投げ出し、気だるげに頬杖をついていたレグルスが、ふと口を開いた。


相変わらずの乱れた赤髪に、隙だらけの態度。しかし、その獰猛な瞳の奥には、長旅を終える安堵と、目の前の少女の成長をひそかに認めるような柔らかな光が宿っている。


「この4年半、あのお転婆おチビがびっくりするほど大人しかったな(笑)」


からかうような響きに、シルフィーはむっと唇を尖らせたが、すぐに淑女らしくふわりと微笑みを返した。


「そういうレグルスだって大人しかったじゃない。レンがいなかったから退屈だったかしら?」


「馬鹿言うな。4年半も寝て過ごせてたんだ。楽な仕事だったからバカンスかと思っちまったぜ」


呆れたように鼻を鳴らすレグルスに対し、シルフィーはくすくすと上品に笑い声を漏らす。


「あらそう? その割には、よく夜遅くと朝早くの訓練場で見かけてたけど? とってもガッチリとして頼もしいわ」


「お、おい見てたのかよ。かぁー、可愛くねーなほんと。おチビじゃなくて、ただのガキンチョだ今日から」


悪態をつきながらも、レグルスの口元は微かに緩んでいる。


やがて馬車は王都の門をくぐり、懐かしきアルヴァレイン王城の敷地内へと入っていった。見慣れた景色が広がり、二人は自然と王城の離れにある「旧礼拝堂」へと歩みを進める。


「でも意外だな」と、レグルスが頭を掻きながら言った。

「どうせすぐすぐあのガキの所に行くと思ってたんだが。4年半、結局一度もアルヴァレインに行かなかったしな」


シルフィーは苦笑した。


「……あのナタリー様ですから……。ずっと怖かったんですが、カイさんから定期的にレンの事、手紙を貰ってて。まずは荷ほどきして、レオニス様の所へ顔出しして、その後にレンの所に行こうと思っています」


シルフィーは少し身震いをした。第三王女であるナタリーは、その自由奔放で直感的な性格ゆえに、シルフィーにとって最も底が知れず恐ろしい存在だったからだ。それでも、手紙越しに知るレンの成長が、彼女の心を支えていた。


少しのワクワクと、緊張が入り混じった声色。それを聞いたレグルスは、やれやれと肩をすくめた。


「俺はレオニスのおっさんとこ行ったら、行きつけの居酒屋に行くから、その後の護衛はカイにやってもらってくれーい」


そう言い残すと、レグルスは旧礼拝堂の近くにある自身のボロ小屋へとさっさと歩いていってしまった。


シルフィーが一人で旧礼拝堂の重厚な扉を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

かつて自分が自分の手で磨き上げたあの場所は、塵一つなく完璧に清掃され、色とりどりの花で飾られていたのだ。そして、整列した複数のメイドたちが、感極まった顔で彼女を迎えた。


「おかえりなさいませ! シルフィー様ぁぁっ!!」


メイドたちの歓喜とも呼ぶべき黄色い歓声が響き渡り、シルフィーのトランクや荷物が次々と彼女たちの手によって分けられていく。


「あ、あの、自分でやれますので……!」


「はうぅ! 尊い……。なんていい子なのかしら……。大丈夫です。全て私達にお任せして、シルフィー様はレオニス王の所へ!」


圧倒的な限界オタクと化したメイドたちの熱量にタジタジになりながら、シルフィーは優しく背中を押され、礼拝堂から追い出される形となってしまった。


困惑しながら、どうしようかとレグルスのいる小屋の方へ向かおうとした時、ちょうど同じタイミングでレグルスも小屋から出てきた。


「準備はえーじゃねーか」


「メイドさんたちが全部やっていただけて……」


レグルスが眉をひそめる。


「メイド達? あのおっさん……! 俺の所はメイド長のババァしかいなかったぞ!」


虫の居所を悪くして舌打ちをするレグルスと、なんとなくその理由を察して苦笑するシルフィー。

二人は気を取り直し、本館である王城の中央区画へと向かった。


煌びやかな王城の入り口をくぐると、そこで待っていたのは、見慣れたピンクアッシュの髪だった。


「長旅ご苦労様でした。お体は大丈夫でしょうか? 何かあればお力になりますので」


聖王騎士総隊長カイ・ルシェルド。4年半前と何一つ変わらない、温和で掴みどころのない優男のオーラを全開にして、彼は静かに微笑んだ。


「疲れたぜ全く。肩でも揉んでもらいたいもんだな」と、レグルスが憎まれ口を叩く。


「あはは!それはお気の毒ですね。シルフィー様は大丈夫ですか?」


かつての横暴な上司の言葉を涼しい顔で軽く受け流し、カイはシルフィーへと視線を向けた。


「私は全然大丈夫です。半成人式も残り半年を切っているので、準備で何か手伝うことがあれば言ってください」


「なんてすばらしい……。心が洗われます。こんな方の近くに数年いて、全く取れない汚れをお持ちとは……」


レグルスがじろりと横目を向ける。


「なんか言ったか?」


「いえ! なんでも! さあ、向かいましょう!」


カイは爽やかに笑い、三人で王城の豪奢な廊下を並んで歩き始めた。


磨き上げられた大理石の床。窓から差し込む午後の陽光が、懐かしい城の風景を黄金色に染め上げている。


角を曲がり、王城の奥へと続く長い直線の廊下に出た時だった。


前方に位置する、広大な大浴場へと続く扉が開いた。


ふわりと、乳白色の湯気と石鹸の香りが廊下へと溢れ出す。

そこから歩み出てきたのは――黒紫の髪を濡らし、無造作にタオルを首にかけた一人の男の子だった。


「レン、髪をまだ乾かしてませんよ」


背後から、完璧な姿勢のメイド、アリスが冷静な声で彼を捕まえようとする。


「うぇー、それなげーんだもん」


4年半前と変わらない、聞き覚えのある生意気な声。

続いて、楽しげな少女の声が奥から響いた。


「ちゃんと髪乾かさないと、レンの好きなフルーツオレはあげないわよ~」


ナタリーのからかうような声に、「チッ、わかったよ」と悪態をつきながら、少年は再び大浴場の方へと引き戻されていく。


廊下の少し離れた場所。

シルフィーの足が、魔法にかけられたようにピタリと止まった。


湯気の向こうから現れたのは、間違いなく、ずっと心配だったあの少年の姿だ。4年半前よりも背が伸び、引き締まった体つきになっている。


感動の再会――になるはずだった。


しかし、


シルフィーの黄金の瞳は、彼らが出てきたその大浴場の扉に掲げられた彫金プレートを、ばっちりと捉えてしまっていた。


そこには見慣れた文字で、こう記されていたのだ。


『女性専用・大浴場』、と。


(……え?)


感動の涙を浮かべかけていたシルフィーの顔が、ピキリと固まる。

不安で気にかけていた少年が。美しいメイドと、悪魔のような第三王女と共に。女性用の浴場から、濡れた髪で出てきた。


4年半という途方もない空白を経て、待ちに待った再会の瞬間。

歴代最高の聖女の思考回路は、かつてないほどの特大のエラーを吐き出して、完全にフリーズしていた。


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